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1話
どん底の朝は早い。
「ん……」
無防備に投げだした右手人さし指が曲がる。
断続的に痙攣する人さし指は何かを連想させる。引鉄だ。
青年は夢の中でも引鉄を引いていた。夢の中でも狙撃の練習をしていた。眠りに落ちても引鉄を引く感覚とタイミングは指に染み付いていて、無意識下で動作を反復する。
ずれたカーテンから鋭角の陽射しが注ぐ。
青年に与えられたのはこぢんまりとした清潔な部屋。
尼僧とおなじ寮に下宿するのは少し抵抗を感じたが、「ボディガードをしてくださるならかえって安心ですわ」「男手が必要になる場面もありますもの」と、当の本人たちにこぞって押し切られた。もっともボディガードというには頼りないが、尼僧たちは新しい居候を快く受け入れた。
教会には現在8名の尼僧が暮らしている。
出自はさまざまだがいずれも神父に恩を受け、彼を深く尊敬していた。
教会には神父と信者が祈りを捧げる礼拝堂の他に孤児院の棟、尼僧の寮が存在する。
それぞれ中庭に面した外回廊で繋がっており、礼拝堂を中心に右が尼僧寮、左が孤児院という構造だ。
ピジョンの自室は尼僧寮の端にあり、朝礼拝に急ぐ尼僧の足音で毎朝叩き起こされる羽目になる。ピジョンはこの朝礼拝に一日も欠かさず参加している。居候の身で惰眠を貪るのは心苦しいし、教会に下宿している手前務めはきちんと果たしたい。
だが、たまにはサボりたくなる朝もある。
それが今日だ。
「うぅ~~~~~~ん……」
寝ぼけて身を丸める。ピジョン用のベッドは古く、寝返りのたびに不吉に軋む。寛大な神父は弟子で居候のピジョンにまで朝礼拝を強制してはいない。ピジョンが自発的に出ているからして、一日位サボったとて別にまったく全然問題はないのだった。
しかし生来の真面目な性格が怠慢故の手抜きを許さない。
「……行かなきゃ…みんな待ってる」
眠たげな声でむにゃむにゃと呟き、おもいきって毛布を剥いで上体を起こす。しぱしぱと瞬き、ふやけきったあくびをかます。
ピジョンは寝不足だ。ほんの三時間前に寝たばかりだ。
教会に来てからは平均三時間睡眠が日常になっている。数か月たった今は身体も慣れてきたが、最初の頃は辛かった。
伸びをするとゴキゴキ関節が嫌な音をたてる。筋肉痛もなれっこだ。張った腕を揉みほぐし、ボンヤリした寝ぼけまなこで部屋中を見回す。
必要最低限の家具調度しかない殺風景な部屋だ。それはピジョンが最低限の私物しか持ち込まなかったせいでもある。
造り付けのクローゼットに戸棚、書き物机とベッド、小さいテーブルの他にあるのは数冊の本と新品の銃弾を詰めた紙箱、ライフルの整備に用いる道具一式。
枕元と床に積まれた本にはびっしり付箋が挟んであり、机にだしっぱなしのノートには風向きと距離から弾道を導き出す計算式や、狙撃に際しての要点が細かく書きこまれている。
『狙撃の科学 標的を正確に撃ち抜く技術に迫る』『スナイパーレッスン』『ゴーストターゲット』……本は狙撃の基礎教養と応用に触れた教本の他、実在の名狙撃手の自伝もまざっているが、これら全部師から借りたものだ。
『三日で読んで1万字のレポートにまとめてくださいね』
『え?』
『どうされました』
『これ全部三日で……ですか。それはちょっと、せめて一週間に』
『修行が長引いてもいいとおっしゃるなら吝かではありませんが』
『……わかりました、読みます』
師はスパルタだ。彼に言い渡されたノルマをこなすには膨大な体力と精神力を費やす。ピジョンの寝不足は睡眠時間を削って勉強しているせいでもあるが、不思議と気分は明るい。本を読んで知識を吸収していくのが純粋に楽しいのだ。気付けば課題など関係なく、師に貸し出された教本と自伝に熱中していた。
そしてこの部屋の中で一番存在感を放っているといっても過言ではないのが、ベッドに立てかけたスナイパーライフルだ。
「おはよう」
黒光りするライフルに挨拶し、銃身に吊るしたドリームキャッチャーを軽く弾く。
銃に話しかけてるところを見られたら性悪な弟にからかわれるのは間違いないが、生憎とここにそんな根性悪はいない。
「きょうも一日頼むよ、相棒」
スナイパーライフルを擬人化しているのは、別段ホームシックにかかったからではない。断じてない。
今日もハードなスケジュールが詰まっている、せめて朝のひととき位は酷使が見込まれる相棒をねぎらってやっても罰は当たらない。
カーテンを両手で開け放ち、爽やかな朝の陽射しを浴び、ピジョンは息を吹き返す。
「いい天気だな」
さて、ぐずぐずしている暇はない。
部屋を出るとシスター・ゼシカとすれ違った。栗色の巻き毛が魅力的なぽっちゃりしたシスターは、ピジョンを見るなり相好を崩す。右頬の素朴なえくぼが愛らしい。
「起きてこられたんですねブラザー・ピジョン。朝の礼拝へ?」
「その前に顔洗ってこないと、こんな酷いザマで神様の前に立てません」
「ふふ、そうね。目の下に隈ができていますよ」
「まいったな」
シスター・ゼシカが自分の片目をちょこんと突付き、ピジョンは恥じ入る。落ちないとわかっていても目の下をこすってしまうのはご愛敬だ。
「また徹夜?ちゃんと寝なくては健康に悪いわ」
「はは……寝たいのは山々ですが期日までに消化しなきゃいけない課題が嵩んでまして。レポートも未完成だし、しばらくは修羅場が続きそうです」
「神父様ってば、相変わらず手加減なさりませんわね。初めての弟子なのですしもう少し大目に見てあげてよいでしょうに……私たちから言ってあげましょうか、ブラザー・ピジョンに優しくなさいと」
「先生が厳しいのは俺の為を思ってくれてるからです。付いて行けてないのは俺の責任、俺が未熟なせいです。もっと頑張らないと」
頬に手をあてて嘆くシスター・ゼシカに対し、慌てて師を弁護するピジョン。
シスター・ゼシカは微笑ましそうに笑ってピジョンを見詰める。
「あなたは真面目すぎますことよ」
「はは……ほうぼうでよく言われます。あとそのブラザーって付けるのやめてくれませんか
「ごめんなさい、不愉快でした?」
「決して不愉快とかじゃないんですけど、こそばゆいというかくすぐったいというか恐れ多いというか……」
面映ゆげに俯いて頭をかき、うしろめたそうにゼシカをチラ見。
「俺はただの居候の押しかけ弟子で、神父候補なんて呼んでもらえる身分じゃないです」
「こまかいこと気になさらないで、わたくし達のかわいい弟のようなものですしブラザーも間違いではないでしょ?」
「はあ……」
「皆喜んでますのよ、色気のない女所帯に若くてかわいい……失礼、素直で優しい男の子がきてくれて」
「とんでもありません、俺なんてまだまだです。頼ってもらえるなら嬉しいですけど」
男所帯ならむさ苦しいのもわかるけど、女所帯に色気がないのはちょっと夢が壊れるなあ。
心の中で突っ込んだピジョンはまだまだ話したりなさそうなゼシカから逃げる口実をさがし、軽く足踏みして廊下の先を視線で促す。
「あの、そろそろ行かないと本当に遅れちゃうんで」
「まあ大変、わたくしとしたことが立ち話に付き合わせちゃってごめんなさいね。それじゃあ礼拝堂で会いましょ」
「はいまた」
シスター・ゼシカと別れたあと、ピジョンは寮をでる。
尼僧の寮から伸びた外回廊から直接中庭におり、石で固めた井戸端へ行く。
スラムの上下水道の設備はお粗末だが、教会は豊富な水源を確保している。
尼僧たちに聞かせてもらったところでは神父と懇意な仲であり、教会の後援筆頭であるキマイライーターが、私費を投じて教会の敷地内に井戸を掘らせたらしい。この井戸ができてから炊事が格段に楽になったと尼僧たちは喜ぶ。
以前は外の共同水道まで水を汲みに行ってたのだが……。
『ミュータント贔屓のクサレ教会にやる水はないと追い払われてしまいましたの』
眉八の字のシスター・ゼシカの憂いを思い出しピジョンは心を痛める。
アンデッドエンドのどん底、通称ボトムには劣悪なスラム街が広がっている。衛生環境と治安が悪く、病気と貧困と犯罪が蔓延り、孤児と浮浪者が溢れた界隈において唯一の教会がここである。
アップタウンとの経済格差は深刻で、プレハブ造りのあばら家が広場の井戸に寄り集まるように立て込んでいるのだが、ボトムでもやはりミュータントへの差別感情は根強く、彼らを保護して世話する教会の関係者も迫害を受ける始末だ。
釣瓶を巻いて井戸から水をくみ上げる。
桶に3分の1ほど張った透明な水を両手ですくって顔を濯げば、頭に靄がける眠気と気が滅入る現実もいくばくか和らぐ。
弱い者同士が助け合って世の中が回ればこれほど素晴らしいことはない。
なのに上手くいかないのは何故なのか、ピジョンにはわかるようでわからない。
もしくはわからないふりをしているだけか。
「ふう」
持参したハンドタオルで顔を拭きがてら、できるかぎり優しい声をだす。
「隠れてないででておいで」
背後でガサリと茂みが鳴る。
動揺広がる数呼吸の沈黙のあと、観念したように出てきたのは寝間着姿の幼い少女2人組だ。
せいぜい7・8歳のおさげ髪の少女が、自分よりさらにひと回り小さい緑がかった鱗肌の少女を庇って前に立ち、ピジョンに不安げなまなざしを向けている。
おさげ髪の少女の頭には先端が尖った猫耳が生えている。
「ええと……君はチェシャだね」
猫耳を伏せているのは警戒の表れだ。
ピジョンは子どもたちを怯えさせないようにその場にしゃがみこみ、視線の高さを合わせる。
「君が诗涵」
「そっち」というのは失礼だろうと言い直す。
チェシャの裾にしがみ付き、おもてを固く強張らせた少女はよく見ると東洋系らしく、鱗に覆われてない肌が黄色がかっている。目鼻立ちもピジョンたちと違いやや扁平な感じがする。
スッキリした切れ長の一重瞼の奥、大粒のインペリアルトパーズの瞳は既に潤み、今にもべそかきそうにチェシャの背中に引っ込んでしまった。
「話すのは初めてだっけ。俺はピジョン、よろしく」
「……知ってる。先生のお弟子さんでしょ、シスターたちがお喋りしてた。お墓で鉄砲バンバンしてるの、こないだハリ―たちと見に行った」
「ホント?全然気付かなかった、かくれんぼ上手いね」
「かくれんぼじゃないよスパイごっこだよ」
「ごめんよ女スパイさん」
「わかればいいわ」
ハリーとは彼女たちとよく行動しているハリネズミの男の子だ。チェシャとシーハンとハリーは仲が良く、しょっちゅう3人で行動していた。なにかというと勝気なチェシャとハリーが喧嘩し、2人に挟まれたシーハンがおろおろするか、べそっかきで止めに入るくり返しだったと記憶している。
もとから子供好きなのに加え、遠目に彼らの姿を追ってしまうくせが付いたのはやはり孤児院の特殊な事情が関係するのか。
直接話すのは初めてといえど、神父や尼僧が彼らを追いかけ回し、ことあるごとに叱るのを見ていたため彼らの名前と顔を結び付けるのは造作もない。ピジョンの頭には孤児院の子供たちのおおよその人となりが刷り込まれていた。
「大丈夫よシーハン、この人あんまりこわくない。先生とおんなじ感じする」
チェシャがこっそりシーハンに耳打ちする。
女スパイとしての手際を褒められまんざら悪い気はしなく、実にあっさりピジョンへの警戒をといてくれた。対するシーハンは引っ込み思案な人見知りで、チェシャの裾を掴んだまま疑い深そうにピジョンをうかがっている。
「先生とおんなじって、喜べばいいのかへこめばいいのかリアクションに困るなあ」
「先生とおんなじ……なんか頼りない感じ?」
「修行中の身だからね。日々精進さ」
「ショウジン?」
「頑張るってこと。とってもね」
チェシャがあどけなく首を傾げる。
年端もいかぬ子供の語彙と感性では上手く表現できないのだろうが、ピジョンと神父には確かに共通する印象があった。
「顔を洗いにきたの?待たせちゃたね、すぐ行くから」
ピジョンは後を譲ろうとする。その時、チェシャが後ろ手に隠した何かが目にとまる。
「なんだいそれ」
「!見ちゃだめっ」
チェシャとシーハンがあせって隠したのは一枚のシーツだった。
本来純白のそのシーツには大きなシミが広がっている。寝小便の痕跡だ。
「私じゃないよシーハンよ!シーハンがおもらしして泣いてたから、先生たちにバレる前に証拠隠滅しようって……他の子が起きてくる前に洗って乾かせばバレないわ、ハリーが知ったら調子にのって囃し立てるに決まってるもん、アイツほんっと頭くる!」
「いわないって約束したのにひどい」
「私悪くないもんこの人が先に井戸にいるのが悪いんだもん」
「そうだね、俺が悪い。チェシャは君を助けてくれようとしたんだろ」
ピジョンが大人しく認めれば、チェシャとシーハンがびっくりしたように目を瞠る。
チェシャはバツ悪げに言い訳する。
「2人でささっと洗っちゃえば昼までに乾くから……今日はシーツ交換の日じゃないし、シスターたちこないはずだし」
「今なら朝のお祈りでシスターたちがいないからチャンスだってチェシャが」
「3人ならもっと早い」
「「え??」」
「仲間に入れてくれないかな」
突拍子もない提案にチェシャとシーハンがハミングで疑問を呈す。
ピジョンは悪戯っぽくほくそ笑み、手と手で何かを擦り合わせるしぐさをする。洗濯のジェスチャーだ。
「こう見えてシーツを洗うプロなんだよ。シミを綺麗に落とすコツも知ってる」
だてに子供の頃から洗濯係をしてない。スワローがすぐサボるから、洗濯は大概ピジョンが引き受けていたのだ。
金盥に水を張って母親の下着や弟の靴を泡立てた日々を懐かしく回し、袖を肘までまくり上げてチェシャの手からシーツを奪い、井戸端へと持っていく。
「借りるね」
チェシャとシーハンが顔を見合わせて付いてくる。
ピジョンは釣瓶を操って水を汲み、桶に張った水にシーツを浸け、石鹸を泡立ててシミを落としにかかる。
手際よくシーツを揉み洗いするピジョンの右にチェシャが、左にシーハンが来て、井戸のヘリを掴んで爪先立ち、好奇心いっぱいに彼の手元をのぞきこむ。
「すごいテクニシャンね」
「きれいになったよ」
チェシャとシーハンが目をまん丸くして感心する。
めったに得られない称賛にピジョンは少し得意がり、あくまで低姿勢で2人にお願いする。
「絞るの手伝ってくれる?」
「「うん!」」
2人ともはりきって頷く。チェシャのわくわくした笑みとシーハンの大真面目な表情が好対照だ。
「いい子だ」
ピジョンが持ったのとは反対側の端を持ち、二人してくるくる捩って勢いよく水を絞る。共同作業の手仕上げで脱水を終えたあと、既にひと仕事やりとげた達成感に酔いしれるチェシャとシーハンを促し、中庭の死角になる木の後ろへ連れていく。
「ここなら人がこないしバレないよ、きっと」
それはマグノリアの木だ。
アンデッドエンドでは比較的よく見かける木で、タフタのウェディングドレスのような白い花を咲かせる。
中庭のマグノリアは樹齢100年以上の巨木で枝ぶりもしっかりしており、シーツを干すには最適だ。
二人は背丈が足りないのでピジョンが代表し、節くれて乾いたマグノリアの木の枝にシーツを吊るす。
端と端を結んでおけば風に飛ばされる心配もない。
「昔を思い出す」
「ピジョンもおもらししたの?」
「おもらしじゃないよ。いや、ある意味おもらしなのか」
「おもらしなのにおもらしじゃないの?」
「もらしたのは別物……ごめんなんでもないわすれて」
採石場のそばの枯れ木にボクサーパンツを干した話は女の子に聞かせられない。
青空に颯爽と翻るシーツを並んで見上げ、チェシャとシーハンが歓声を上げる。
「証拠隠滅バッチリだね!」
「うん」
喜びあうふたりを笑顔で見守り、邪魔しないように静かに去ろうとしたら、遠慮がちな足音とともにシーハンが近付いてくる。
彼女の髪は色が抜けていた。処女雪のごとく綺麗な白髪を背中の半ばまで伸ばし、だれかのお古らしい大きすぎるパジャマを羽織ったシーハンは恥ずかしそうにもぞもぞし、やがて意を決して口を開く。
「……謝謝」
「ありがとーピジョン。あっ、一応言っとくけどこの事ゼッタイゼッタイ秘密ね!シスターや先生に言っちゃだめだからね、破ったらマタタビ袋の刑だから覚悟して!」
「どういたしまして、肝に銘じとく……マタタビ袋の刑って具体的に?」
「ベッドにマタタビ袋を投げ込んで猫まみれにしちゃうの!」
「むしろご褒美だけど」
「猫の舌はざらざらしてるからぺろぺろされるとくすぐったいのよ」
チェシャはといえば、なれなれしくピジョンを呼び捨てて手を振りまくる。ピジョンも2人に手を振って礼拝堂へ行く。
石段をのぼってポーチに立ち、両開きの巨大な扉を見上げる。
「すっかり遅刻だな……」
今からでも引き返したい弱気がもたげるが、深呼吸で覚悟を決めて扉を押す。
「すいません、遅くなりました」
荘厳な扉がゆっくりと左右に開き、身廊を挟んでシンメトリーに配置された信徒席の長椅子が視界に浮上する。
中央に延びた身廊の先、一段高くなった内陣には説教台が鎮座し、信徒席の両側の側廊にはステンドグラスを嵌め込んだ明かり取りの窓が穿たれ、澄んだ赤や深い青、淡い緑に濾された朝日が万華鏡さながらに幻想的な諧調に礼拝堂を染め上げる。
信徒席に居並ぶ尼僧たちが両手を組んで一斉に振り返る。
「おはようございますピジョンくん」
「皆さんそろってますよね」
「無理なさらずともよいのですよ。朝の浄めは神の徒の義務、弟子の務めではありません」
説教台で聖書を開いた神父が苦笑いする。
朝一番にもかかわらず折り目正しくカソックを着こなし、赤毛を隙なく撫で付けているのはさすがだ。
分厚い眼鏡の奥の表情は読み辛いが、少なくとも怒っている気配はなくてピジョンは安堵する。
「そうよブラザー・ピジョン、遠慮会釈なく怠惰の罪を犯して朝寝の背徳を享受なさればよろしいのに」
「目の下の隈がひどいわ、頬もこけたんじゃない?」
「可哀想に、神父さまってばちょっとスパルタすぎなのよ。愛の鞭もすぎれば身をほろぼすわ、何事もほどほどに手をぬくのが長続きの秘訣よ」
「ちゃんとご飯食べていますか、皆に遠慮して手を伸ばせないのでは」
「育ち盛りだものやっぱりお肉食べたいわよねお肉。毎日毎日ジャガイモが主食じゃあきるわよ、ふかし芋にマッシュポテトにポタージュにガレット、毎日じゃがいも責めじゃ栄養が偏るわ鉄分を摂取しなきゃ」
「それは料理長のあたくしへの当て付けかしらシスター・アデリナ、粗食で身を禊ぐのは神の徒の正しい姿ではなくて?あたくし知ってるのよ、あなたが外でこっそり買い食いしてること。嗚呼はしたない嘆かわしい、せめて尼僧服はお脱ぎなさい教会の評判がまた落ちるでしょ!」
「お言葉ですがシスター・エリザ、ブラザー・ピジョンは外の方。信者でもないのに清貧たっとぶ粗食に付き合わせるのは傲慢の大罪ではなくて?」
「ならばブラザー・ピジョンにだけ特別食を用意せよと?」
「正論と極論をすりかえないで」
「別に清貧をたっとるんじゃないわ、お金がないのよ。じゃがいもは安くてお腹がふくれる食卓の味方よ、畑に植えたらすぐ芽を出すし」
信徒席から身を乗り出した尼僧たちが口々にピジョンに喋りかける。
シスター・エリザは恰幅良い黒人の中年女性でシスターの中では最年長、厨房を取り仕切るしっかり者だ。
そのシスター・エリザと仲が悪く、口論しているのがヒスパニックのシスター・アデリナだ。
激しさを増す一方の口喧嘩に危機感を覚えたピジョンは、手を無意味に上げ下げして仲裁に入る。
「だいじょうぶです、じゃがいもは大好きだしシスター・エリザの料理はおいしいからいくらでもおかわりできます!昨日のポタージュも絶品だったし一昨日のマッシュポテトも食べこたえあってホント、やっぱり自分で育てた野菜を料理するっていいですよね愛着がわいてより滋味深いっていうか……毎日お腹いっぱい食べさせてもらってるんでこれ以上贅沢は言えません、礼拝だって無理してきてるわけじゃないです、子供のころ立ち寄った街に教会があればできるだけ通ってたし」
地元の人たちに追い返されなければ、だけど。
心の中で付け加えるピジョンをよそに、優美な穹窿を描く天井に清澄な声が響き渡る。
「お静かに」
神父の一声でシスターたちは私語を打ち切り、朝の礼拝が再開される。
「ピジョン君もお座りなさい」
「は、はい」
「わたくしの隣に」
「ずるいわシスター・コーデリア、あたくしが先に狙ってたのに」
「いえ、一番後ろで結構ですからホント」
これ以上目立ちたくない、というかシスターたちに構い倒されたくないピジョンは最後列の端っこにそっと腰かける。
シスター・コーデリアが残念そうに口を尖らすのが視界の端にチラ付くが、知らんぷりをきめこむ。
全員が正面に向き直るのを待ったあと、神父は手元の聖書をめくって書見台に立てかけ、朗々と祈りを唱える。
「新しい朝を迎えさせてくださった神よ、きょう一日わたしを照らし導いてください。常にほがらかにすこやかに過ごせますように、物事がうまくいかないときでもほほえみを忘れず、物事の明るい面を見、最悪のときにも感謝すべきものがあることを悟らせてください」
尼僧たちが慎み深くこうべをたれるのをまね、ピジョンも手を組んできょう1日の幸いを祈る。神父の声は美しいアルトだ。
声に輪郭があるとしたら先生の声は完璧な丸だ。
おだやかでまどやかで、闇夜に吸い込まれる梟の鳴き声をおもわせる。
身廊と側廊に跳ね返った声は柱の間に染み入り、透明にまで濾過されていく。余韻に浸されて瞠目する一同の表情に安息が浮かぶ。
端正なリズムで聖書を吟じた神父は、迷える子羊を教え導く実直な使命感と、人の子の罪を許し浄める寛大な精神を表情に宿して結ぶ。
「自分のしたいことばかりではなくあなたの望まれることを行い、まわりの人たちのことを考えて生きる喜びを見いださせてください。アーメン」
皆がアーメンと唱和し、朝の礼拝はお開きになった。
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