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第1章 それを言うなら
昨夜降った雨の湿り気が取れ、雲の一欠片も見つけられない青空が広がっていた。
周囲には、3階建てのこの校舎より高い建物はない。
どこまでも広がる青空が見放題だ。
千晴は眺望をひとしきり堪能すると、教室の自分の席で、大き過ぎる制服のブレザーの袖を抜き、その中に首を引っ込めた。
こうすると、衣服の中の空気が冷えた首筋を温めて何とも言えない心地よさになる。
「あ〜ねむ…」
欠伸交じりに呟くと、伸ばした右腕を枕に机に突っ伏した。
「宵山!宵山 千晴!」
自分を呼んでいるのは分かっているのに、瞼が上がらない。
パコ〜ン、
その軽い音に見合った衝撃を後頭部に感じると同時に、どっと笑い声が上がる。
「何すんだ!」
千晴は、頭を大げさに摩りながら、目だけを出して遥か頭上にいる担任教師の顔を見上げた。
「その亀の甲羅みたいなのいい加減やめろ。
早く出てこないと、テストの結果公開するぞ。」
担任の手元を見ると、二つに折ったA4大の紙をヒラヒラさせている。
「ぎゃーっ、」
千晴は慌てて袖に腕を戻すと、すぐさまその紙を奪い取った。
あまりに素早い動きのせいで担任は自分の手を見たまま唖然としている。
「出た!千晴スティール。」
廊下側の一番遠い席から、バスケ部の横田 桐の囃し声が聞こえ、それを皮切りにヒソヒソ声が教室中に広がった。
「スティール?」
「バスケの技。相手チームのボールを奪うプレーの事なんだけど、千晴、超絶早いんで有名なんだぜ。」
「でも、宵山くん、バスケ部どころか、どこにも入部してないって…」
「それな…」
「ハイハイハイハイ!」
我に返った担任がパシパシと手を叩くとその声は止んだ。
のろのろと上半身を起こし、教壇に上がった担任に視線を移す。
そこで、チャイムが鳴った。
どうやら担任の小原は、午後の一時間目のロングホームルームの流れで、担当教科である英語の授業にスライドしてしまっていたようだ。
「今のが始業のベルっしょ。さっき、寝てても良かったんじゃね?」
ジト目で呟く千晴に、小原はヒラっと掌を振る。
「んーんん!宵山 千晴君を貴重な睡眠時間を中断していただいてまで、お呼び立てした理由は、彼の素晴らしい解答にあるんだが、」
言い終わるか否や、千晴の前の席の倉田 勇太が答案を覗き込んだ。周りも次々立ち上がって頭を寄せて来る。
千晴は、倉田 勇太の顔を手の平で力いっぱい押し戻した。周りがブサイクに歪んだ倉田の顔の方に気を取られ、笑い始めた隙に千晴は机に覆い被さり、身体ごとで答案を守った。
「せんせー、ひどいよ。すぐに起きたのにぃー、」
くぐもった声で抗議すると、また周りはどっと沸いた。
「心配するな。点数は公開しない。ほらほら、席に着く。皆んなも答案出せ。」
周りから一人一人離れ、ガタガタ椅子を引く音が続きやがて収まると、千晴はやっと顔を上げた。
「第1問。以下のカッコを埋めて、日本語の意味にあたる慣用句を作りなさい。
①油を売る。無駄口を叩く。
( ) the ( ).」
ここまで読み上げた小原が黒板に書いた。
「角田。解答書けるか?」
「あ、はい。」
最前列に座ったクラス一の秀才、角田 薫は徐に立ち上がると、サクサクと答えを書いていく。
( shoot )the ( breeze ).
小原は頷いた。
「そうだな。直訳すると、そよ風を撃つ。
一方、宵山氏の解答では…」
千晴は頭を抱えた。
コツコツ、
( shoot )the( breath ) .
「これだと、息を撃つ。になる。」
「てか、無駄口って口から出るんだから、息を撃つの方が近くね?」
隣の席の松本 杏だ。人の答案を覗き見た罪滅ぼしのつもりか援護射撃のつもりか、
「んー、近くても遠くても、慣用句は慣用句だ。単語の意味としては違っても、経験的に使われているその意味で覚えるしかない。だから、無駄口を叩くという意味では、shoot the breeze.が正解だ。」
コッコッ、
小原が手にしたチョークで、黒板をつっ突く。
「日本語でもそうだろ?油を売るって、道草を食うって、どう説明するよ?ため息が出るだろ?ちなみに、ため息が出るは、宵山氏の、breathが使えるぞ。take my breath away.だ。」
「俺、なんでこんなサラシナモンにされてんの…」
「サラシナって…蕎麦か!それを言うなら晒しもんだろ!」
教室の向こう側から、横田が勢いよく突っ込みを入れると、教室中がどっとさざめいた。
「ま、お前が間違えてくれたおかげで、改めて慣用句の説明ができたし、breathの使い方も覚えられた。油を売っただけじゃなく、無駄口を叩いただけでもない。有意義な時間を持てたっていうことだ。」
机と机の間を歩いて来た小原が、バシバシと千晴の背中を叩いた。
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