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吐き出す場所1
「千尋、今朝何時に起きたんや?」
武史との暮らしも一ヶ月が過ぎ、大体お互いのリズムを掴めてきた。
翻訳の仕事は日によって量が違うようだ。武史が帰ってくる頃に既に仕事の目処がついている日もあれば、夕飯後も仕事をしている日もある。
武史が帰ってくる頃に一旦休憩を取るようにしている千尋は、できるだけ仕事に目処をつけ、武史と共に買物に行くというルーティンが出来つつあった。
今朝は武史が家を出る頃に既に離れの電気がついていた。休憩をしている千尋も心無しか疲れている。
「急ぎの仕事があって、昨日からずっとしていたの。今やっと終わってホッとしているところ」
「寝とらんのか?」
「うん、今から仮眠させて。今日夕飯作れないと思う。ごめん」
「かまわんよ、そんなこと。それよりはよ寝えや。夕飯は俺が作るわ。簡単なもんやけどな」
「ありがとう」
時間になっても起きなかったら起こしてと言い残し、トラと共に離れに戻る千尋を見送る。
この一ヶ月でトラはすっかり千尋になつき、武史といるより千尋と一緒にいる時間の方が長かった。
武史は縁側に行き、タバコを咥えた。
変わったのはトラだけでない。武史の生活も変わった。
千尋の夕飯を食べるために夜は出歩かなくなった。
家で殆ど米を炊かなかったため、朝ご飯もパンだったのが白飯に変わった。
トラの遊び場だった庭の片隅に家庭菜園のスペースが出来た。
どこでも吸っていたタバコを基本的に部屋で吸うようになった。どうしても共有スペースで吸いたい時は縁側でなるべく吐いた煙が家に入らないようにしていた。
『電子タバコだからそこまで気にしなくていいよ』
そういう千尋だったが、非喫煙者の千尋に煙が当たるのも気になる。
それに、千尋は気づいていないだろうが、武史に付いているタバコの残り香で一瞬切なそうな表情を見せる。
ため息と共にタバコの煙を吐き出した武史は、誰に聞かれるともなく呟いた。
「一人で背負いすぎや。今にも潰れそうや」
武史の前では取り繕っているつもりなのか、明るく笑顔を見せているがふとした瞬間によぎる影。
一緒に住み始め、千尋はほとんど丸一日休みを取らずに仕事をしていた。
何かを振り払うように無我夢中で働いている千尋をこの一ヶ月何も言わずに見守って来た。
だが...
「話すまでは待つつもりやったけど、体壊すわ、このままやったら。…吐き出させんとな」
この数日悩んでいたが、今日の様子をみて心を決めた。
千尋の過去をキチンと聞くことを。
「え?一日休み?」
「そうや。ブログにもそろそろ近所以外のことも載せてほしいからな。ちょっと遠出したらおすすめの場所があるんや」
武志が作った夕飯を共に食べながら千尋へある提案をする。
武志にも見せているブログには、日常の生活の様子は載せていた。歩いて行けるくらいの距離の港の風景や、普段使っているスーパー、昼食や夕食で行けるくらいの飲食店。
半日くらいの場所なら共に行っていたが中々遠出は出来ていなかった。
それでも、いいところも苦労していることもありのまま書いている田舎生活のブログは少しずつ読者も増えていた。
「俺の休みに合わせて一日休み取れんか?」
千尋は少し考え込んでいた様子だったが、仕事の都合がつく算段がついたのか肯定の返事をする。
「わかった。次のタケちゃんの休みに合わせる。でも飛び込みの仕事が来たらごめんね」
「ありがとうな」
ホッとした表情で武志はお礼を言った。
夕飯の後も仕事があるから、と言い早々に離れに戻った千尋を見送り夕飯の片付けを済ませる。
おこぼれをねだるように武志にすり寄って来たトラに煮干しを与える。おとなしく煮干を食べているトラを撫でていると、本音がこぼれ落ちる。
「もっと甘えたらええのにな、お前みたいに。千尋一人くらい支えられるくらいの甲斐性はあるつもりやけどな」
にゃーん
トラは武志を慰めるように一鳴きした。
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