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過去の男3
駅の階段を降りていた時だった。気付いたときには、階段から落ちていた。
落ちる前、強く誰かに背中を押されたのを感じていた。
救急車で運ばれ、手術しそのまま入院した。打ちどころが良かったのか、それなりの段数があったのにも関わらず左腕と鎖骨の骨折で済んだのは幸運だった。
突き落としたのは柳田の妻と分かったのは数日後だった。
「別居を5年くらいしていて、もう別れる予定だった」
入院している病院に来て、そう言い訳をする柳田を罵る言葉は出なかった。
裏切られたと思う気持ちと、見ないように無理矢理目を逸していた現実が同時に襲ってきて、声が出なかったのが正直なところだ。
黙り込んでいる千尋を横に、見舞いに来ていた俊樹が怒鳴りつけた。
「ふざけんなよ!お前っ!」
「俊樹!」
柳田に掴みかかるのをベッドの上から声で止める。想像していたよりも鋭い声が出た。
ひと呼吸置き、俊樹に指示を出す。
「俊樹、一旦廊下にいて」
「イヤだ」
「お願い」
いつもより強情な千尋の声に、俊樹は苛つきながらもしぶしぶ出る。
せめてもの抵抗とばかりに個室のドアは開けっ放しだった。
ベッドの上から見上げる柳田は普段通りだった。
いつもどおり皮肉そうな顔をしていて、冷静だった。
この顔で平気で嘘をつく…。
千尋の性格上、不倫はしないと理解していたからこそ、黙っていたのだろう。
そして、今も千尋から別れの言葉を言い出すのを待っている。
(2年も一緒に居たのに、気付かないなんて)
自分の鈍感さに呆れ、自嘲気味に笑う。
でも、上手く笑えなかった。
「…もう会いません」
必死の思いで絞り出すように伝えた言葉は一言で返された。
「そうか」
それで終わりだった。
結婚していたことを知らなかったため、慰謝料は求められなかった。
治療費は負担してもらい、代わりにもう柳田と会わないという覚書にサインをした。
仕事には穴を開けた。
柳田と一緒にするはずの仕事も無くなり、元の会社から委託されていた仕事も一部は出来なかった。
社長にはお詫びしても足りなかった。
俊樹と智史が見舞いに来てくれていた時だった。
「足だったら仕事出来たのにね。片手だから打ちにくい」
これ以上仕事に穴を開けたくない。渋る俊樹に無理矢理持ってこさせたパソコンの前で零れた本音。
千尋の言葉を聞くと俊樹が顔を歪めた。
「もっと、体を大事にしろよっ!もう二人きりなんだぞ…」
そう言って片手で顔を覆う俊樹を見ても、千尋の心は冷めたままだった。
智史は俊樹を慰めるように背中を2回ほど叩き、ついでに千尋の頭も撫でた。
次の日、見舞いに来た敏子にこの町に来ることを提案された。
「それでこの町に来たの。東京から離れて遠くに来たかった。誰も私のことを知らないところに。
俊樹に一人暮らしは反対されたから、敏子おばちゃんに甘えちゃった」
そこで初めて武史の顔を見た。
「私の都合でタケちゃんを利用しているの。ごめんなさい」
千尋は武史に頭を下げる。
「止めや、そんなこと。別に構わんよ、大したことやない」
2本目のタバコを咥え、吸い始める。
黙々とタバコを吸う武史を横目に見ながら千尋は遠い目で海を見つめていた。
吸い終わった武史は、アホやなぁと呟く。
「ほんまにアホや。昔と全然変わっとらん。今ですら自分の気持ちに蓋をしとるやないか」
「そんなことないよ」
「嘘つけ。まだ好きなんやろ、柳田のこと」
「…そんなことない」
少し言い淀むが、泣きもせず淡々と話す千尋が痛々しかった。
「苦しいやろ、そんな生き方。感情抑えていたらいつか壊れるぞ。きちんと吐き出さんと」
武史のその言葉に千尋は遠い昔に似たような言葉を言われたことを思い出す。
そして、思い出した。
「昔、タケちゃんのおじいちゃんにも同じようなこと言われた。やっぱり似るんだねぇ」
そう言って泣きそうな表情て苦しそうに笑う千尋。
武史は祖父も同じことを指摘していたことに少し驚いたような表情をする。そして千尋を見つめる。
「今じいちゃんが千尋に言った意味がよう分かるわ」
ため息と共に千尋に伝える。
「ここには俺以外おらん。泣いてもええんやで」
今にも崩れそうな癖に頑なに首を振る千尋。
(俊樹が言っていたな、面倒くさい性格って。ホンマに面倒くさいわ。…それでも)
それでも、の先の気持ちからは敢えて目を逸らした。
左腕を軽く引っ張り千尋を胸に抱きしめると、耳元で囁く。
「こうしたら、俺にも見えんやろ。親戚のよしみやけん、胸貸したるわ」
抱きしめられた瞬間、ふわりと柳田と同じタバコの匂いがした。
その香りを嗅いだ瞬間、ギリギリで保っていた均衡が崩れた。
「…っつ。…会いたい。…柳田さんのこと好きなの。忘れられないっ…」
「そうか」
泣いているのに、それでも嗚咽を堪えながら泣く千尋をしっかりと抱きしめる。
「なんで…奥さんと別れてから来てくれなかったの?…なんで、バツイチって…。こんなに好きになってから、っつ…」
「それでもキチンと自分で終わらせた千尋は偉いわ。よう頑張った。もう肩の力抜いてええよ。…俺が支えたる」
その言葉に抑えきれなかった。
武史にしがみつき、子どものように泣きじゃくる。そんな千尋の背中をあやすようにリズムをつけポンポンと叩きながら、泣き止むまで抱き止めていた。
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