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第10話
万葉が気持ちを整理しようとしているのを、師匠はじっと待っている。いつだって、師匠は万葉のことを優先してくれるのだ。
万葉は苺をさらにフォークに突き刺してから、食べられずにじっと赤い果実を見つめた。状況は理解できている、自分がしでかしたことも理解した。ただ、気持ちの整理がいきなりつくわけではない。
「いきなりすぎて、頭が追い付きません。まさか、名前も知らない人と、自分が結婚しているなんて、フィクションみたいです」
万葉はこういう時、嘘をつけない。それは師匠も重々承知している。変に取り繕うよりも、ありのままの感想を述べるのが正解だった。そんな万葉のあけすけな感想を聞いて、師匠はほっとしたようにほほ笑む。
「名前は結婚するときに重要ではありませんよ。大事なのは中身、心と心の問題だと思うのですが」
「そうなんですけど。師匠のそれは正論なんですけど」
何か他に気がかりなことが?とでも言いたそうに、師匠が首をかしげた。
「やっぱりよく分かりません。紙に名前を書いただけでいきなり夫婦って、実感が湧きません」
今まで他人だった人が、名前を書いただけで家族になる。それは、まるで魔法のようだ。他人じゃなくなったとなると、法律や責任が伴い、そして色々な事が変わってしまう。それがたった一筆、名前を紙にかいただけで、世界が百八十度変わってしまうのだ。
魔法か何かのように思えて、仕方がない。現に、法律上はすでに万葉は恵ではなくなったのだから。一昨日まで、悩まされていたものが、一瞬で消えていく不思議に、万葉は首をかしげずにいられない。
「じゃあ、離婚しますか? 戸籍上は一度結婚して離婚したというだけ、結婚なんて元々は他人同士でするものですから、紙を提出すれば、また元の何もしがらみが無い他人に戻れます」
師匠のまたもや正論の返しに、万葉は困ってしまって、眉根をしかめた。
「だからといって、そう安易に離婚する気はないです……バツがつくのが嫌だからとか、怖くなったとかでもないんです。そんなことしたら、せっかく私のわがままを聞いて、結婚してくれた師匠に申し訳ないです」
万葉は苺を食べてから、いったん言葉を切った。苺の酸味が、万葉の脳を刺激してスッキリさせてくれるようだ。
「そもそも、結婚自体が私にとってはまやかしみたいなもので、自分の身に起こると思っていなかったことだから」
「だから、狐に化かされたような気持ちっていうことですか?」
それに万葉は盛大に頷く。結婚どころか、彼氏でさえいらないと思える三年間だった。それは、仕事も楽しくて、プライベートも充実していたからだ。
そのプライベートを充実させてくれたのは、他でもない目の前にいる師匠なのだが、だからといって恋愛感情が万葉にあったわけではない。
鑑賞するには最高の美形で、そして大事な大事な飲み友達だった。恋愛感情などという面倒なものと結び付けて、大事なものを失いたくは無かった。
「では万葉さん。化かされたと思って、実感できるまで試してみたらいいじゃないですか、新婚生活」
僕はそれで構いませんよと、師匠は二杯目のコーヒーをカップに注いだ。
「やってみないと分からないことってたくさんありますからね、世の中には。ちょっと突拍子もない結婚でしたけど、でもそれくらいじゃないと、万葉さんは結婚しなそうですし、僕だってそうです」
「それは言えています……ちゃんと恋愛とかして来なかったですし」
ノリじゃなければ、万葉は自分が結婚とは程遠い存在であるということは認識していた。それに、何でもやってみないとわからないという意見には、大いに同意できる。
「じゃあ、もうしばらく結婚していましょう。困ることだって特にはありませんし」
食べ終わると、師匠は食器を片付けてくれた。万葉は一度頭を冷やそうと思い、着替えて家へと帰ることにする。昨日と同じ服に袖を通して、これをあの美しい人に脱がされたのかと思うと、頭が真っ白になった。
「あの、師匠。帰る前に電話番号とか……連絡先」
玄関先まで万葉を送りながら、師匠はああそうだったと言わんばかりに携帯電話を取り出してくる。番号を手動で追加し、名前の欄の空白に万葉は指先を置く。
「師匠、名前は……?」
なぜかドキドキしてしまい、万葉はまともに顔が見られなくて携帯に集中する振りをした。すっと万葉の手から携帯を取り上げて、師匠はそこに文字を打ち込む。
「はい、僕の名前」
そこには、田中紫龍という文字が打たれていた。
「結構、古風な名前でしょう?」
ニコニコと食えない優男は笑う。万葉はその不思議な人物を見つめて、それから初めて知った旦那の名前に照れてほほ笑んだ。
これから、この人との新しい何かが始まるのだ。師匠の笑顔を見ると、万葉はそれも悪くないかもと思えてしまうのだった。
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