第5話

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第5話

 しかも、と万葉は熱燗を口に含んだ。 「新海が見せてきた中間成績で、この間まで私が首位だったのに、後輩にまた抜かれそうで……あああ、もう考えないで飲もう!」 「それはまた辛いですね」 「苗字変えたくなったら結婚してやる!だなんて新海にからかわれて、こっちとしては何とも言えない複雑な気持ちです」  両肘をついて手の間に顎を乗せると、万葉は肺ごと出てしまうかのような深いため息を吐いた。 「嫌いじゃないんですよ、苗字。でも、やっぱり苗字変えたいですよ、この仕事している限りは。だけど、下の名前は変えられても、苗字って変えられないし……よっぽどのことか、結婚以外は」  万葉はぶり大根の大根を箸先で割って、口へと運んだ。じわっと濃いめの味が口の中に広がる。 「私だって普通の名字になりたいです、でも結婚しかないから難しいです。相手がそうそう見つかるわけでもなくて、仕事の方が好きで、恋愛すらまともにしていませんし……彼氏みたいなのがいたの、三年も前ですよ。もはや師匠よりも私の方が枯れていますよ」  あーあ、と万葉は落胆して、日本酒のおかわりを頼んだ。 「万葉さん、いつもよりペース早いです。それくらいにしておかないと、明日の仕事に障りが出ますよ?」 「いいんですよ、まだ若いんで、内臓もピッチピチなんです」 「ピチピチは死語ですよ、万葉さん」  万葉は言われて師匠をじっとりと見つめた。隣に座る食えない男は、始終穏やかな笑みをたたえたような表情をしているが、これが師匠の通常の顔だ。 「はあああああ……とりあえず、今から恋愛とか面倒だし、すっ飛ばしたいです。そんな感じで良ければ、誰か私と結婚してくれないですかね?」  万葉は行儀悪く肘をつきながら、おちょこを摘まんで中身を揺らした。熱燗のいい香りが、ふわりと鼻孔をくすぐる。師匠が口にした言葉に、万葉は思わずおちょこを落っことしそうになった。 「――僕と結婚しますか、万葉さん?」  喧騒が一気に万葉の耳からすっ飛んでいって、その場にまるで二人しかいないかと思うほどに耳が痛くなる。言われた言葉が理解できずに、万葉は固まった。 「ん? ……えっと。師匠、つまりは?」  思わず怪訝な顔になりながら師匠の方を振り返る。すると、いつもと何の変哲もない、笑顔の優男がいた。 「僕と結婚すれば、苗字を変えることができます。僕の名字は田中です。普通の名字になるのは嫌ですか?」  万葉は言っていることが理解できなくて、思考も時間も止まる。新海には冗談で言われ慣れているが、まさか自分よりも十四も年上の人から、何食わぬ顔で言われるとは予想だにしていない。  しかもそれが、連絡先も知らない飲み友達だとは。苗字でさえ、今知ったばかりで、本名さえ知らない男の人と結婚など、笑い話かドラマかマンガだ。 「嫌というか……理解できませんけど。私が……師匠の奥さんになる……?」 「そうです。嫌でしょうか?」 「嫌じゃないですけど……師匠、冗談ですよね?」  それに師匠はふとほほ笑んだが、目の奥が笑っていなかった。 「冗談で結婚するほど、僕は相手に困っているわけじゃないですよ?」  二人の会話を聞いていたマスターが、目を瞬かせて近寄ってきた。 「なになに、二人はついに結婚するの!? ちょっとやだ、ロマンチックね、アタシのお店で結婚の誓いが見られるなんて」 「マスター、まだ結婚すると決まったわけじゃ」  万葉の制止も聞かずに、そういえば雑誌の付録で婚姻届けがあったわよとマスターはバックルームへとものすごい速さで引き下がっていき、そして十秒も経たずに婚姻届を手に持ってにこやかに戻ってきた。 「マスター、ちょっとええっ!? なんで持って来てるの、本物の婚姻届!」 「あらいいじゃないの、こっちに万年筆もあるから……はい、万葉ちゃん!」  何を血迷ったことを言っているんだこの人たちは。驚いたのだが、自分でも気が付かないうちに、万葉はマスターからペンを受け取っていた。
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