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番外編〜秋の月、雲隠れ〜
最近夫の様子がおかしい。
夕飯もいらないことが多いし、帰りはいつも遅い。一緒にいても私ではなく、私の奥にある誰か別の女の人の影を見ているようだ。
「ただいまー」
「おかえり。今日も遅かったね」
夫の一翔が帰ってきたのは、今日も日付が変わる頃だった。
「今担任してるのが3年生だからな。進路とかで色々忙しくて……けど、生徒も頑張ってるから、俺も頑張らないと」
一翔はちょっと熱血っぽいところがあるけれど、誰よりも生徒思いで優しい。そんなところに惹かれたし、今もそういうところが好きだ。
「月乃はどう?」
スーツのジャケットを脱いで、ネクタイを緩めながら一翔が訊いてくる。
ハンガーに掛けたジャケットから知らない匂いがした。
女子高生が使う、制汗剤のような甘い花の香り……。
「うーん、今は副担だし、2年生だからそんなに忙しくはないよ」
「そっか……体調とか大丈夫?」
「大丈夫、今の職場の先生たちも皆いい人だし、生徒はちょっとヤンチャが多いけど……素直な子たちだよ」
「そっか、でも本当に無理はしないで」
一翔は優しく笑って言った。
「うん……わかった、ありがと」
「よし、いい子」
一翔は私の頭を撫でる。
その撫で方は私ではなく、別のもっと愛おしい人を撫でるみたいだった。
「もう、子供扱いはやめて」
私は少し照れたフリをして、彼から離れる。
「あはは、そういえば生徒にも最近よくそんなことを言われるんだよ。俺が構いすぎてるのかなぁ……」
……やっぱり生徒にもしてるんだよね。
「まぁ高校生なんてそんな時期じゃない。大人でも子供でもない、みたいな」
「うーん難しいよな、あの年頃の子達は」
「そうだね。あ、お風呂できてるよ。入って入って」
「おっ、ありがとう! 行ってくるよ」
一翔はそう言って脱衣所に入っていく。
その時、テーブルに置いた彼のスマホがバイブ音を鳴らした。
嫌な予感が的中していないことを祈りながら、そっと画面を覗いてしまう。
その文字を見て時間が止まったように、動けなくなった。
知っている名前だった。去年現代文を教えていた子の名前。いつも満点を取ってくる優等生の女子生徒の名前。
……天沢花音。
夫の携帯の画面にはその名前が映し出されていた。
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