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午後6時30分。まだ学校にいるのは県内では強豪と言われるサッカー部と、一部の教師だけだった。
暗い廊下を歩いていると、ふと昨晩見た携帯の着信画面が頭をよぎる。
家に帰っても一翔はまだいないだろう。
スーパーで買い物でもして帰ろう、なんて考えながら靴を履くと、職員玄関の前で不意に声をかけられた。
「楠山先生」
見ると男子生徒が玄関の前に座り込んでいる。
彼は氷山 祐介。私が副担をしている2年3組の生徒だ。クラスでも大人しくて不思議な雰囲気を持っている。
「氷山くん、こんなところで何してるの?」
「楠山先生のこと、待ってた」
「こんな時間まで? 授業で分からないところでもあった?」
「そうじゃなくて……先生、旦那さんとあんまり上手くいってないんじゃない?」
彼は立ち上がり私の前に立つ。
息が止まりそうになった。
「そんなことない」と笑えない自分が悔しい。
私より背の高い彼の視線は、見下ろすように私を捉えた。
その瞳はまるで全てを見透かしているようで、彼の瞳に吸い込まれてしまうような不思議な感覚に陥る。
「ど、どうしてそんなこと聞くの?」
「……俺さ、先生のこと、好きになっちゃったんだよね」
真っ直ぐに私を貫くようなその言葉に、視線に、私は動揺してしまった。
……だめだ、大人なんだから、教師なんだから……既婚者、なんだから……私がここで、ちゃんと断らないと。
「何も言えないってことは、やっぱり旦那さんと何かあったんでしょう? ねぇ、そんな男より俺にしなよ。俺なら、楠山先生のこと、もっと大事にするし……泣かせたりしない」
そう言って彼は私の目元を優しく指で拭う。
濡れた彼の指先を見て、自分が泣いていることに気がついた。
「……やめて。大人の事情に、踏み込んでこないで……子供のくせに」
私は彼を睨め上げ、振り切るように早足で歩き出す。
後ろは振り返らなかったけれど、彼が追いかけて来る気配はない。
「最低だ……」
子供なのは私の方だ。自分のことだけで精一杯で、余裕がなくて、最終的には生徒に当たるなんて。
彼を拒絶した瞬間の、心配そうな、けれど傷ついたような黒く澄んだ瞳が私の脳裏にこびりついて離れない。
どうしたらいいのかなんて、歩いても歩いても分からなかった。いつも生徒には「考えれば必ず答えは見えてくる」なんて言っているくせに……。
「……答えなんてどこにもないじゃない」
どうしようもなくやり場のない感情を吐き出すように、私はそう小さく呟いた。
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