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最終話
「……」
「でも、そういうのは全部僕の幻想で、何も起こらないかもしれない。ただ僕が最近寝不足で過労気味だから、おかしなことを考えているだけなのかもしれない。信じる信じないは自由です。強制するつもりはありません」
「なんで私にそんな話を」
「僕にもよくわかりません。誰にも言うつもりはなかった。言っても頭がおかしいと思われるだけだから。でも、きっと消えていく前に、誰かに言ってみたかったんだ。それにあなたは、僕の写真を気に入ってくれたから」
彼の表情が、一瞬ささやかな風を受けた水面のように揺らいだ気がした。
「身近な人には、こんな話できないですからね。あっという間に噂が広まるでしょうし、心配されたり、騒がれたり、そういうのに巻き込まれたくないですから」
椅子を引く大きな音がした。隣の席のカップルが、席を立ったのだった。
「あの、先生は都心にはよく来られるんですか?」
「はい、月に何回かは。普段住んでいるのが田舎なので、休日はたまに都会に来たくなるんです」
「じゃあ一月後、来月の第三土曜日、ここで待ち合わせしましょう」
「生きていたらね」
「悪い冗談はやめて下さい」
二人のコーヒーカップはかなり前に空になっていた。いつの間にか、外には順番待ちの列ができていた。
「そろそろ出ましょう」
彼は、伝票を手に取ると立ち上がった。
一月後の第三土曜日、祥子は祈るような思いでその店へ行った。待ち合わせの時間の三十分前に店に入り、コーヒーを三杯お替りしたが、彼はやってこなかった。
あの時と同じ席に座り、一月前の会話を思い出していた。
厚い窓ガラスの外の音など聞こえるわけはないのに、何か音がした気がして外を見ると、雨が降り始めたところだった。
彼を待つ間、彼女は無言で雨を見続けていた。
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