いのちの責任者

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いのちの責任者

「やめてください! 誰かー、助けて……――」  仕事で疲れた体に鞭打って、自宅に向かって歩いていた彼女が異変に気が付いたのは周りにひと気のない公園前まで来た時だった。  後ろから羽交い絞めにされ自由を奪われた。そして口の中に何かの布切れを無理やり詰め込まれる。それから無理やり公園の茂みに連れ込まれる。あまりの怖さに体が強張る。 そして上着を脱がされ下半身を無理やり露わにされる。頭の中はパニックになっていて、体に対して逃げろの指示を出す事さえ忘れてしまい、男のされるがままになっていく――  行為が済んで男が去ったあと、女性は泥にまみれた下着を隠すようにしながらフラフラと公園を出て来るところを巡回中の警官に運よく発見された。  警官は直ぐに女性を保護し婦女暴行を専門とする医者に連れて行った――。  ◇◇◇ 「怖かったでしょう? 大変だったわね」  女医は被害者の両手をしっかりと握って顔をみながらゆっくりと話す。 「嫌な気分になるかもしれないけど、今から行う処置は貴女にとって一番大事な事だからね。だからガマンしてちょうだいね」  女医はそう言いながら彼女に下着を脱いでもらって婦人科で使用する検診台(内診台)に座らせる。そして安心させるように彼女の手をしっかりと握りながら内診台をゆっくりと仰向けに倒す。 「今から行うのは、貴女が暴行されて妊娠しないようにする処置だから。ちょっと冷たいけど我慢してね。それとPTSDに関しては精神科のお医者さんに後で来てもらうからね」  そう言いながら彼女の足をゆっくりと開かせる。そして犯人の証拠である精液を採取してから膣内の洗浄を丁寧に行う。 「色々と辛い思いをさせてごめんね。でもこの作業は犯人を特定するために必要なの。それに暴行を受けた結果の望まない妊娠を防ぐためにも出来る限り早い処置が大事なの。それは分かるわよね」 「はい大丈夫です――ちょっと恥ずかしいですけど我慢できますから」  彼女は内診台の上で切れ長の目をしっかりと閉じ唇をギリリと噛みしめる。両手は内診台の握り棒を壊れんばかりの力で握っている。  ――    全ての処置が終わった後で女医は内診台を元の位置に戻す。そして彼女に下着を履いてもらってから女医の前の患者用診察椅子に腰かけるように促す。それから暴行による妊娠を防ぐためにアフターピルをコップの水と共に手渡す。 「一応あなたの膣内の精液は洗浄したけれど100%完全ではないの。だから今すぐこの薬を飲んでね。この薬はもしも卵子が受精しても子宮内に着床しないようにするお薬よ」 「先生、今週は安全日なのですけど――」 「ごめんなさい、あなたの計算を疑っているわけではないの。だけど暴行されたショックで排卵が始まっちゃうのは悲しいけど良くある話なの。だから貴女自身の保険のためにこのお薬も飲んで欲しいの――」  女医は彼女の目を真正面から見ながらゆっくりと説明する。 「ピルってなんか怖いですよね」 「その点は大丈夫よ。このお薬は体を人工的に軽い妊娠状態にするだけだから。ほら妊婦は妊娠しないでしょう? あの原理と同じらしいから。それに人工的な妊娠状態だから妊娠マーカーにも反応しないそうよ。だから安心して飲んでね」  女性はアフターピルを飲んだ後に空のコップを女医に返す。女医はコップを受け取り備え付けの洗面台に戻すと机の上の電話機で誰かと話を交わす。 「PTSD専門医は今日は日程が合わないそうだけど出来る限り早く診察していただきましょうね。でも、とりあえず妊娠の危険性は回避できたから安心して良いわよ。後は傷口の消毒をしましょうか――」  そういって消毒液を使って暴行時に受けた顔や手の傷口を丁寧に治療し始める。 「先生――やっぱり暴行された女性は妊娠しちゃう事が多いんですか?」  女性は不安から逃れるように女医に話しかける。 「ええ――多くはないけどね。でもそれは誰も望まない妊娠だから本人だけでなく周りの人達も不幸にしてしまうのよ」  傷口の治療を終えたら女医は備え付けの机に向きなおってカルテに記入を始めた。 「でも貴女は運が良かったのよ、たまたま通りかかった警察官に保護されたんですもの――」  カルテの記入が終わってまた女性の方に向き直る女医。 「たいていは暴行を受けたこと自体を秘密にしてしまうの。そうすると暴行直後の避妊処理を行わず妊娠してしまう確率が大幅に上がってしまう。そして不幸にも妊娠してしまったら一人で悩み続ける事になる。そうこうする間に中絶も出来ない期間になってしまうのよ。そうすると暴行を受けて出来た子供を出産する事になる。多くの女性はその結果自分で命を絶ったり、人生を踏み外してしまうのよ」  女医はメガネを外して視線をレンズに向け、くもりのないレンズを丁寧に拭きながら静かに話し続ける。 「そうですね、学校の性教育では女性器と男性器の仕組みしか教えてもらえませんでした。暴行を受けたらどうしたらいいなんて話は聞いたこともありませんから――」 「そうなのよね。本当はそこまで教えるのが真の性教育だと思うけどね――新しい『いのち』を生み出す受精という最初の作業は男と女の共同作業だとしても、その後の妊娠という責任を女性だけに押し付ける、しかも女性の同意もなく押し付ける卑劣な暴行行為。これを止めさせる方法は無いのかしら――」  女医はそこで大きなため息をつき、天井を見ながらメガネをかけなおす。 「でも今は妊娠マーカーがあるから、本人が暴行の事実を隠しても妊娠してしまった事は早い段階で周りの人が気が付けるからね。そうすれば中絶手術が間に合うようになる。だから暴行による望まない妊娠で自殺する女性が減っているのは事実よ――」  女医は廊下の自販機からホットティーを買って来て女性に勧める。 「そうそう。最近では被妊娠マーカーがあるおかげで、暴行した犯人にもマーカーが現れるそうね。だから男性側にも自分が誰かを妊娠させたという事が分かるの。そうなると、暴行犯自身が黙っていても周りから噂が広まっていくから犯行を否認できなくなるらしいわね」  女医は一緒に買ったホットコーヒーのプルアップを上げてからグイっと一口飲む。――そして何かを思い出したように女性に喋る。 「これは噂だけど――暴行した犯人に現れるのは被妊娠マーカーだけじゃないの。急性の前立腺がんが発症するらしいわ。――前立腺がんは男性固有の臓器である前立腺ががん化する病気なんだけど、普通発症してから手遅れになるのに数十年かかる進行が遅い病気なの。だけど何故か、被妊娠マーカーと一緒に発症した場合は一年も経過しないうちに悪性化するらしいわ。前立腺がんは処置が間に合わなければ男性器も含めて前立腺と精嚢の全摘出になるから、暴行犯にとっては恐怖でしょうね。もしかしたら神様も粋なはからいを始めたのかもね――」  女医は女性に向きながら少し肩の力を抜く。 「でも――嫌がる女性に対して自分の快楽のために暴行を働いた男でしょう? それぐらいのバチが当たってくれないと私達だって納得できません」  診察室のリノリウムの床を見ながら女医の話を聞いていた女性は、視線を女医に向けてから残りのホットティーを飲み干した。
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