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「この傷は、そのときに負いました」
一通り話し終えて、治助は茶をすすり喉を潤した。
隣の銀次の顔色は悪い。そわそわと視線を彷徨わせて、落ち着きもなかった。治助が意味ありげに笑って彼の頭を眺めれば…銀次はさっと頭を押さえる。
…例のたんこぶは、もう治ったのだろうか。
「にわかに信じられる話じゃありませんですよね」
「そ、そうだな」
銀次の声は上ずって、完全に裏返っている。巷で恐れられる大親分の慌てぶりに、他の客たちが不思議そうにこちらを見ていた。
「一応、証拠もありまして」
治助は袂を緩める。胸から腹まで前合わせを大きく開くと、ついに銀次が悲鳴を上げた。
治助の胸から腹にかけて、深々と大きな爪痕が残っていたのだ。その跡をみるに、爪一つでも子供の腕ほどはありそうだった。
「こちらも頬の傷同様、なかなか治らなくて。実はまだ痛むのですよ」
「はあ? だったらまだ家で寝てろよ」
「ひょわっ!?」
突然割って入った少年の声。
銀次が床机から飛び上がり、そのまま地面に直立した。治助の後ろには、腕を組んで不機嫌全開の少年が一人。恐ろしいほど美しい顔立ちの少年である。
「利二、修行はどうした? 今日の課題は与えておいただろう」
「俺は鋳掛屋になるつもりはねぇ、親父と同じしゃぼん売になるんだ」
「しかし、決して実入りのいい商売とはいえんしなぁ」
少年の顔立ちは治助と全く似ていない。
だが「い~や~だ~」と我儘坊主全開で治助に絡む利二と、それを宥める治助。それはとても自然な父子の姿である。
しかし、それを微笑ましく見られない男が一人。銀次は顔をひきつらせたまま、後ろ足に二人から一歩二歩と離れていく。そうしてある程度の距離ができると、一目散に逃げだした。
「なんだあれ」
利二が眉を寄せる。
「お前、銀次親分に付きまとわれて、思いっきり殴り飛ばしたんだって?」
「誰だ、親父にチクったヤツ。
つか、人の親犯罪者呼ばわりするヤツに遠慮はいらねえだろ」
やれやれ、こういうところが子育ての難しさだなぁ…と治助は肩を竦めた。とはいえ、今回は多めに見ようと決めている。治助だけならともかく、息子にまでちょっかいを出そうとしたのだから――うん。
「で、なんで来たんだ?」
「雨が降りそうだから、迎え」
確かに東の空に分厚い雲が見える。「大降りになりそうだ」と利二。この子が言うのなら、そうなのだろう。
仕事道具の唐傘もある、わざわざ迎えに来なくてもいいと思うが。どうやら一年前の大雨の日、治助が顔と腹に大層な傷をつけて瀕死で帰ったのが尾を引いているらしい。ちょっと不安そうな息子の頭を、治助は安心させるようにぽんぽんと叩いてやった。
そうして、雨雲の方に向けてしゃぼん玉を一つ飛ばす。
「?」
「挑戦は、いつでも受け付けているぞってな」
治助は利二の親だ。あの男もそうだ。ならば、何度だって利二を取り返す権利がある。素直に負けてはやれないけれども。
これは、治助の心の問題なのだ。それを、身勝手と断じるのは容易い。あの男の言う通り、利二と治助の差が明確にでてくる日は必ずやってくるだろう。いずれ、利二が自らの正体を悟る日だってくる。
ただ、今はまだ。
「しかし、昔お前とさんざんやった取っ組み合いの経験が役立つとは思わなかったなぁ」
「なんだそれ」
治助は、空に向かって呵々大笑。
そろそろ、雨が降りそうだ。
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