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「たまや~、ふきたまや~。
ふき玉、さぼん玉、吹けば五色の虹がでる」
現代でも知られるしゃぼん玉は、江戸時代にはすでに子供が気軽に楽しめる遊びだった。しゃぼん売は、唐傘をさし、首から下げた籠の中に葦の茎を使った吹き棒と、無患子の実で作ったしゃぼん液を入れて、しゃぼん玉を吹きながら行商する。
その声が聞こえると、子供たちは我先にとしゃぼん売の周りに集まるのだ。
「治助のしゃぼん売だ、江戸の町一番のしゃぼん玉だ」
通りで遊んでいた子供たちが、橋を渡ってくるしゃぼん売を見つけて群がった。握った銭を差し出して、しゃぼん液と吹き棒を買い求める。
吹き棒を咥えて、途中でしゃぼんが割れないよう注意しながら…ふぅーと。できあがったしゃぼん玉は、その内側に美しい虹を湛えて宙を舞う。それを叩いたり、誰が一番高くまで飛ぶか競ったり、純粋に美しさを楽しんだりもする。
治助の売るしゃぼん液で作ったしゃぼん玉は、他のしゃぼん売のものより長持ちで、虹も美しいと評判だった。
ただ、治助を初めて見る者はまずその風貌に驚くだろう。顔の左はさして特徴のない三十路男。だが右の頬は抉れたように削げている。そうなったのは一年前からだが、町の者たちはよほど恐ろしい事件に巻き込まれたのではと、一時期彼と距離を置いていた。
もっとも、子供たちはすぐ気にしないことにしたらしい。変わらず治助のしゃぼん玉は美しい。恐ろしい風貌になっても、治助の子供たちへの態度が変わらない。お金のない裏長屋の子供相手に、こっそり値段のおまけをしてくれることもあれば、親と喧嘩して落ち込む子の相談に乗ってくれたりもする。治助は子供たちに好かれていた。
ふわり、ふわ。
治助が吹いたしゃぼん玉が、青空を透かしてきらきらと。美しい虹をたたえながら、空へ天へとのぼっていく。子供たちはそれを、歓声をあげて見送った。
「よう、治助」
だが、突然飛んできた声に、子供たちは慌てて蜘蛛の子を散らすように逃げだした。
「銀次親分のせいで、子供たちが逃げちゃいましたよ」
「おぉ、悪いことをした」
がはは、と銅鑼声で笑う男が、十手をこれ見よがしに振りながら治助の前までやってくる。この辺りを仕切る岡っ引きの親分で、名を銀次。顔が強面なら、性格も強引と、町人から恐れられていた。
「なに、そろそろお前さんの顔の傷…その事情を話しちゃあもらえねぇかと思ってな」
「夜道でこけて、その場所にちょうど鋭利な石が突き出ていたんです。何度も説明したでしょう」
「そりゃあ運が悪いなぁ」
ちっとも信用していない、ニタニタ笑いを銀次は浮かべていた。
一年前、日本橋の大店で押し込み強盗があった。店は用心棒を雇っていて、賊と用心棒で派手な斬り合いになったという。結果的に店は金銭こそ守れたものの、用心棒の他、奉公人にまで被害が出た。逃げた賊も手傷を負ったと聞いている。
治助の怪我は、明らかに尋常でついたものではなく、怪我をした時期も重なるものだから、銀次はすっかり治助を疑っているのである。治助の家が日本橋に近い、中橋広小路にあるのだからなおのこと。
しかし、この傷はどだい刀傷には見えないだろう。と、治助は己の削げた頬を撫でた。
件の大店が賊に懸賞金をかけたので、銀次は俄然張り切っているのだ。
銀次のしつこさは有名である。噂では冤罪もあるとか。
こう頻繁にやってこられては、せっかく持ち直したしゃぼん玉の売り上げが下がってしまう。
「わかりました、事情をお話いたします。ただ、こんな往来じゃ人の邪魔になりますので、あそこの茶屋ででも」
「おぉ、俺が奢ってやる」
銀次が舌なめずりをしてみせたので、治助は溜息を吐いた。銀次は意気揚々と茶屋の方へと治助を引っ張る。そうして先に治助の着席を促すと己も隣に腰を下ろした。奢ってくれるのは本当らしく、茶屋娘を呼んで茶と団子までちゃかちゃか注文してしまう。その上機嫌ぶりに治助は苦笑して…そうして改めて口を開いた。
「とはいえ、信じていただけるかはわかりません」
「おうおう」
「実は私、誘拐犯なんです」
「おぅ」
思ったことと全く違う話が飛び出たので、銀次が首を傾げる。とはいえ誘拐も立派な犯罪だ。彼は自分の十手を持て余すように揺らした。
「しかも攫ってきた赤子は、龍神様の子だったのです」
「おぉ」
「親分もご存じかと思いますが、私のしゃぼん玉は他より長持ちで、虹も美しいと評判をいただいています。
…虹は、龍の眷族なのだとか。私のしゃぼん玉には、龍神の力が宿っているのです」
銀次が所在なさげに尻を蠢かす。その様がおかしかった。
「この傷についてお話いたします。
そもそもの始まりは十三年前のことです」
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