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十三年前、治助は妻と子を亡くした。死産だった。
冷たくなった妻と堅くなった我が子。その日の晩は嵐だったが、その一晩丸々苦しみぬいたあげくの結末だった。
治助は二人の死を理解すると、妻子も産婆も家に残して、幽鬼のごとくふらふらと家を出ていったらしい。その辺りの記憶は治助にはない。はっきりと意識を取り戻したのは、家からそう遠くない川沿いにある葦の原だった。
昨晩降り続いていた雨は、朝靄の中でその気配だけを残している。思い思いに伸びあがった葦の葉は濡れていて、治助の着物を腰まで湿らせていた。おそらくその冷たさが気付けになったのだろう。意識がはっきりしてくると、寒さと、葦で切った素足の痛み、そして泣き声が聞こえてきた。
――…あー、ぁあー。
治助が声の元を辿ると、葦の根元でおくるみに包まれた赤子が泣いていた。
我が子がかえったのかと思った。
抱き上げておくるみを解けば、男の子だ。死んだ我が子も男の子だった。これは天からの贈り物だと思った。
治助は赤子をおくるみで大事に包み直し、周りを確認もせずその場を走り去ってしまったのである。
治助が赤子を連れ帰ると、家に残っていた産婆は驚いた。諫めもし、叱りもした。それでも治助が畳に頭を擦りつけ――どうか、この子を自分の子ということにして欲しい。生まれた赤子だけは助かったのだと、そういうことにしてほしいと頼み込めば…最後には折れた。おそらく、そのときの治助の顔がよほど追い詰められたものだったのだろう。
赤子は利二と名付けた。龍を訛らせて、利二。
産婆に見せるときはおくるみで隠したが、赤子の頭には二本の小さな角が生えていた。金色に輝くそれは、祭りの出し物などで見るはりぼての龍の角と似ていた。
角は、産婆が家を去ったあと密かに切り落とした。
妻と、そして我が子をこっそりと弔って、治助と利二の生活が始まった。
当時の治助の生業は鋳掛屋である。これは鉄瓶や鍋など鉄器を修繕する仕事で、同じ長屋に住む者たちから重宝されていた。長屋の者たちは利二が男手一つで子を育てるのだと知ると、こぞって手を貸してくれた。
乳飲み子を抱える女衆が交代で利二に乳を与え、男たちは利二の玩具や乳母車を作ってくれた。治助が仕事に出ている間は、子供たちが利二の面倒を見てくれる。
とはいえ、家に帰ればあとは治助の役目だ。赤子の世話は想像以上に大変だった。
とにかく泣く。なぜ泣いているかわからず、あやしても乳を貰いにいっても泣き止まない。夜中でも構わず泣くので、すっかり治助は寝不足になった。
女たちはよく抱いてやれと言うが、ふにゃふにゃした体が怖かった。体がしっかりしてくると、今度は腕の中で突然のけぞったりする。勢いよくやるので、取り落とすかと思った。心臓が冷えた。
夜中に鼻が曲がるような臭いで目が覚めれば、利二がぱんぱんに膨れ上がったおしめを治助の顔に押し付けていたこともある。
正直に言えば、なぜ赤子など拾ってきたのかと思ったこともあった。
だが、笑うのだ。
治助が利二のために悩み、試しながら一つ一つ理解していった成果を、利二は全身で笑って応えてくれるのである。
また当たり前のことだが、成長する。治助が稼いできた金で飯を食い、治助が買ってきた服を着て、治助が教えてやった言葉を覚える。
利二の成長に――ああ、この子は自分の子だと思えた。
無論、死んだ妻子を忘れたことはない。朝晩、位牌に手を合わせた。
南無阿弥陀仏と毎日念仏を唱えていたせいか、利二の最初の言葉は「なみゅあみゅだぶし」だった。ちょっと脱力した。
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