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「我らが主、龍神の子を攫い育てた者よ。主様がお呼びです」
見知らぬ童に声をかけられたのが、一年前。時代錯誤な水干姿の童は、仕事帰りの治助を呼び止め、有無を言わさず先に進む。
慌てて治助が後を追えば、たどり着いたのはいつか利二を拾った葦の原。いつの間にか童の姿は消え、代わりに見事な巨躯、黄金の角を生やした狩衣姿の美丈夫が目の前に立っていた。
その顔立ちは、利二と瓜二つ。
『大義である』
尊大に言い放たれたその声は、治助の体を震わせた。だが治助の口に浮かんだのは苦笑である。利二も尊大な頃があった。親子とは離れていても似るらしい。
『よくぞ人の身で今日まで我が子を育て上げた。
しかし我が子の角を折り、砕いたことは許しがたい。しかしてその行為が我が子を見つけるに至ったとなれば――貴様の不遜は不問といたす』
いつの間にか雨が降っていた。治助は唐傘をさしているが、目の前の男はなにもないのに濡れる様子がない。
『とく、返すがよい』
誰が、誰に、とも言わない。命じ慣れた言葉は、一瞬の内に治助の心臓をわし掴んだ。
「お聞きしたいことがあります」
それでも思ったより滑らかに、治助の唇は言葉を紡いだ。
「赤子はなぜ、ここに捨てられていたのですか」
『天の務めを果たすおり、我が背より落ちた
そして捨てたのではない、お前が我が子が落ちた場所より攫ったのである』
治助の片眉が、ぴくんと震えた。
「天の御方は万物を見通せるものと聞きます。見つけるのに十二年もかかったのはなぜですか」
『人の年月の尺度で、我らを語るな』
「なぜですか」
『見つけたのは昨年。しかして我が子を育てし者が悪しき者であってはならぬ。その影響を我が子が受けていればなお、ならぬ。
貴様の人となりを見極め、我が子の成長を観察せねばらなぬ。また、長く天の座から離れていた子を天に戻すには、天帝の伺いも必要である』
一拍、男が間を置く。
『天帝の許可は下った。――とく、返すがよい』
また一拍。
『人では我が子を持て余す日が必ずやってくる。寿命一つ、お前とは違うのだ。我が子が孤独になる日も来る』
一転…今度は少し宥めるような声だった。尊大な言葉の向こうに映る心配と気遣い。少し安心した。この男もまた親なのだ。利二の実親。
それを理解できたからこそ治助は…。
「あのしゃぼん玉は、利二が生きて地上にいるってことを、天にいるだろう親御さんに知らせたくて飛ばしたものです。
けれどもそれは『どうぞ、こちらがあなた様の御子です』と、ほいほい差し出すためじゃあありません」
『?』
「落ちた、と言いましたが…落としたの間違いでは?」
『……』
「あれから十二年です。そして一年前からあの子を見つけていた」
『然り』
治助は唐傘を折りたたむ。雨が直接肌に落ちて冷たく、寒い。緊張も相まって、全身が凍り付くようだった。
「あなた様は、私など及びもつかぬほど素晴らしい方なのでしょう。私よりよほど正しくあの子を育てられるのでしょう――それでも、利二を育ててきたのは私です」
『我は、実親である』
「そうです。そして私は養親です」
目の前の男から圧を感じる。喉はからからで、気を抜いたら足元から崩れ落ちてしまいそうだ。
それでも生唾飲み込んで、たたんだ傘を眼前に構える。
「確かにあの子の親を探さず、勝手に我が子にしてしまった私も悪い
そうだとしても、あなた様が実親だというのならば。あの子を引き取りたいと言うのならば。」
深呼吸、一つ。
「言うべき言葉はそうじゃねえだろう!
いっそこの場で地面に頭こすりつけてでも『どうか我が子を返してください』と懇願することじゃねえのかい!!」
一瞬、男の顔がくしゃりと歪んだ。
「天帝がなんだ、育ての親の良し悪しがなんだ、子の成長がなんだっ!
あんたはちゃんとあの子を探して、去年には見つけてた。
――なら、なりふり構う必要がどこにあった!」
すぐに、それは尊大な顔に戻った。辺りの空気が震える。轟々と風がとぐろを巻いて、足元の葦の葉が、恐れ慄くように首を垂れる。
雨がだんだん激しくなってきた。
きっとこの男は、治助の言いたいことをわかっている。
童たちは主を龍神と呼んだ。神様などという大層な存在だ。治助など無視して、さっさと利二を攫うことだってできただろう。それをわざわざ治助に直接言いに来たのは…この男もまた、親だからだ。
同じ、利二の父親だから。だから、わかっている。
――だから、治助も容赦なく叩き付ける。
「あのしゃぼん玉はただの報せじゃねえ。
養親から実親への――果たし状だ」
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