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第一話【美少年】
黒いマントを羽織り、頭はすっぽりフードの中に収まっていた。顔はまったく見えないが、その美しさは、ほんの少し覗いている顎のラインや、透き通るような白い肌、細くて長く、そして、きちんと爪の手入れがされている指先から容易に想像できた。
何かから逃れているのか、終始、俯き加減で綺麗な指先を無意味に絡めたり解いたりを繰り返している。
「圭吾」
その声にはっとして、圭吾と呼ばれた少年は、一人の青年を振り返った。その青年の手には、あんこがたっぷりとからまった串団子が3本乗っている白い皿が持たれていた。ちらりと見えた手の平の皮膚が青く変色している。
「今日は、この辺の宿を借りるからゆっくり食べていいよ。圭吾」
少年の隣に腰を下ろし、皿を受け取り串団子を口にしようとした少年の頭から、優しい手つきでフードを下ろす。
艶やかな黒髪がかすかに揺れて、やはり少年は美しかった。透き通るような白い肌があらわになった首筋は切りそろえられた襟足の黒と対比して、息を飲む程、妖艶で、漆黒の瞳は煌めく銀河を彷彿とさせる。ふっくらとした唇は、少女のように赤く可憐で、青年に向けてはにかんでみせた白い歯は百合のように清々しかった。
しかし、それは左側だけ。
青年に、「痛むかい?」と、訊ねられ、右側の頬を撫でられる。その少年の右頬には、そこだけ呪いでもかけられているような無惨な傷跡があった。
「痛いと言ったら先生、あなたはずっとそうしていてくれる? 僕の傷を優しく撫でていてくれる?」
呪い等どこ吹く風と言わんばかりに、少年は鈴のような笑い声を上げた。顎を撫でられ喉を鳴らす子猫のように目を細め、青年をじっと見つめる。
「馬鹿な事を言っていないで食べてしまいなさい。ずっと食べたいと騒いでいたじゃないか」
「先生は?」
「僕は遠慮しておく。直に夕餉だ。団子で腹を膨らませてはもったいない」
「え……、そんな事を言われたら……」
少年は、膝に乗せた団子の皿をじっと見た。しばらく何か考えて、「僕は食べよう。夕餉よりお団子の方がいいや」と、言って、にっこり笑った。
❇︎ ❇︎ ❇︎ ❇︎ ❇︎
藤間康成は、暮れなずむ空を仰いで小さくため息をついた。その顔は全くの困り顔である。右手に持ったメモ用紙に視線を落とし、また、小さくため息をつく。どうやら彼は道に迷っているようだ。
困り顔のまま辺りを見回すが、緑が深くよくわからない。途方に暮れた目をして背後を見ると、一台の馬車がこちらへ向けて走って来る。
乗せてもらえるかも知れない。
胸に少しの期待を抱いて康成は馬車を待った。やわらかなオレンジ色の灯りをともしたランタンが、車の屋根に揺らめいている。その灯りが、序所にこちらへ近づいてくる。それと共に、馬の弾む息づかい車輪が小石を跳ね上げる音、回る音。あらゆる音が康成の耳へと入ってきた。
駄目で元々。右手を軽く上げてみる。
御者は深くかぶった黒い帽子のつばを上げ、チラリと康成を見た。それなのに、康成の前で止まる事なく無慈悲に走り過ぎてしまった。
……駄目か。
また、ため息。
約束の時間はとっくに過ぎてしまった。連絡を取ろうにも、この辺りに電話を借してもらえそうな家など一軒もない。久しぶりに得た、高額報酬の仕事だったのに……。
また、ため息。
「青年よ!」
声に驚き、そちらを見る。去ったとばかり思っていたあの馬車は、ずいぶん先を行った所で止まっていた。
「お困りなら、どうぞ乗っていきなさい」
主人がそう言っている。と、御者は言った。
康成は、礼を言って小走りに馬車へと近づいた。薄いカーテンの引かれた窓へ向けて、「助かります」と、頭を下げた。すると、酷く緩慢な動きで扉は開き見るからに品の良さそうな、年は30程の男が穏やかな笑みを浮かべて康成を招き入れた。
「どちらへおいでですか?」
男は、穏やかに訊ねてくる。
「ええ、実は、ここへ……」康成は、メモ用紙を男に差し出した。
「ああ、薔薇屋敷ですか。ここへ行くには少し戻らねばなりませんね。右へ曲がる道は1キロ程過ぎていますから」
「あぁ……、そうでしたか……」
一旦は、安堵した康成だったが、道が違うと言われ、また、ため息をついた。
「……それでは、僕は降りる他ありませんね……」と、苦笑する。
「いえいえ。乗っていて下さい。どうせ、あの道は土砂崩れで通行止めになっているのですから」
「……では、どのようにして行けば?」
困り顔で訊ねると、男は胸に手を入れて、銀のケースを取り出した。そこから一枚カードを抜き出す。
「初めまして。私は藤崎です。あなたがなかなか姿を現さないものだから、お迎えにあがりました」
「では、あなたが……?」
「ええ。あなたの雇い主です。藤間康成君」
藤崎氏に連れられて到着したその場所は、赤い野ばらに囲まれた、古くて大きな屋敷だった。左右の景色を交互に見ながら藤崎氏の後をついて歩く。野ばらもこれだけ群生すると、綺麗と言うより恐ろしい。
敷地内には小さな噴水まであって、それをめぐって玄関へと辿り着く。木製の大きな扉を開くと、正面に赤い絨毯のしかれた幅の広い階段がのびていて、突き当たりで左右に分かれ、また伸びる。階段の手すりなどは、遠目からでもよくわかる程、精巧な彫り物が施されていて、藤崎と言う男が、どれほどの資産の持ち主であるのかは、それだけで容易に想像できた。これなら、あの高額報酬にも納得がいく。
階段を上る事はせず、康成は1階の居間へと通された。待ち構えていた一人の老執事が、「お帰りなさいませ」と、頭を下げる。
「何か飲み物を、お出しして下さい」
藤崎氏は、使用人であるところの老紳士に丁寧な言葉を使い、目下の康成にも親切な態度でソファに座るようにと促した。
「あの、時間、だいぶ遅れてしまい、申し訳ありませんでした。探しにまで来ていただいて……」
恐縮して言うと、藤崎氏は、「いいんですよ。わかりにくいですから、この屋敷は」と、軽く笑った。
「ところで、条件はご理解して頂いているものと考えてよろしいのでしょうか?」
「はい。お子様の……、圭吾君の家庭教師と言う事ですよね? それから、身の回りのお世話を少し……」
「ええ。その通りです。身の回りのお世話と言っても、それは大した事ではありません。あの子は、夜、眠っている間に呼吸が止まってしまったり、ひどく咳き込んでしまう事がありまして、呼吸器官に何らかの障害があるのです。だから、そう言った時、眠る彼を揺り起こしたり、または、息を吹き込んで頂きたいと、ただ、それだけなのです」
「ただ、それだけ」とは、軽く言う。
呼吸が止まるなんて一大事じゃないか。内心、そんな事を思いながら、「まぁ、滅多にある事ではないので大丈夫だとは思いますが」と、付け加えた藤崎氏の言葉に何となく納得させられたような気になった。
「契約期間は、今日を含めて一ヶ月。再来週から、私は出張で一週間程、屋敷を留守にします。家の者も、この斉藤一人を残して全て出払ってしまいます。その間、食事等の準備は通いの者が行いますので、夜だけ、どうか圭吾を見守ってやって下さい。そして、昼間は勉強を」
藤崎氏が、斉藤と名を出した者は、先程の老執事の事だ。老執事と言っても、背筋はまっすぐと伸び、歩きは軽やか、身のこなしは完璧で、執事の誇りのようなものさえ感じられる。
ただ一つ。
康成が気になった事は、斉藤の目つきである。注意深く見なければ、或は、気づかないかもしれない。右目が義眼のようで、左目と連動して動く事をしなかった。
見るからに高級そうなティーカップをテーブルに置き、そこへ香り高い紅茶を注いでいく。一礼をして一歩下がった斉藤に、康成も軽く頭を下げた。それから、藤崎氏を見て返事をした。
「はい。承知しました」
「では、契約書にサインを」
ガラスの万年筆と黒インクを差し出され、康成は契約書にサインした。
「圭吾、そんなところに立っていないで、きちんと挨拶をしなさい」
藤崎氏の言葉に背後を振り返ってみる。いつからそこにいたのか、壁に背をもたせかけた綺麗な少年が、口元に笑みを浮かべて立っていた。康成と目が合うと、黒めがちな瞳がきらきらと煌めきながら、しっとり笑った。
「はじめまして。圭吾です。あなたが藤間先生?」
「あぁ、そうだよ。はじめまして。これから、よろしく」
康成が笑みを返すと、圭吾はゆっくりとした足取りで、康成の元まで歩いて来た。父である藤崎氏に目を向けて、「先生の隣へ座ってもいい?」と、訊ねる。
「いけないよ。失礼じゃないか」
言われて、今度は康成を見る。困ったような笑顔に康成は負けた。
「あぁ、結構ですよ。僕の隣でよければどうぞ」
藤崎氏の苦笑いを横目に見ながら、圭吾は康成の隣に腰を下ろした。康成の腿に細く美しい指先が、当然のように乗せられる。それに、幾分、驚いた康成だったが、笑みを浮かべて見上げてくる圭吾に、純粋さを見い出して、その手を払う事をしなかった。
それにしても、30程にしか見えない藤崎氏に、14才の子供とは……。康成は、自分の年よりもっと若い年頃に、既に子持ちであったはずの藤崎氏が信じられなかった。それほど幼いつもりはないけれど、かと言って、結婚をし、子供を養っていくとなると……。自分にはとても無理だ。と、そう思うのだった。
その日は、夕餉を楽しんで、風呂を借り、これから過ごす圭吾の部屋へと通された。部屋には、既に二つのベッドが用意されていて、それは、ぴたりと隙間なく側面が合わさっている。圭吾に何かあった時に、少しでも時間を短縮する為の処置だろう。
「先生、藤間先生」
康成がやって来た事が余程嬉しいのか、圭吾は康成を呼び、「これが先生の為のタンスですよ」とか、「この窓からは月の光がよく入るんです」とか、とにかく康成の手を握って放さなかった。その様子が、いくら14才と言えども幼すぎるように思える。体が弱い為に学校へは通わせてやれないのだと、藤崎氏は言った。だから、友達の一人もできず、淋しい思いを圭吾はしている。そうとも、言った。
自分を振り返り、微笑を浮かべる、手を握り、放さない。話をしたくて、動き続ける赤い唇。圭吾の様子に、康成は、少しの淋しさを覚えた。
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