第二話【鐘が鳴る】

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第二話【鐘が鳴る】

「ねぇ、先生?」  藤崎氏に呼ばれ一度は部屋を出て行った圭吾が戻って来、その後、ベッドに横になってからも圭吾の唇は動き続けた。 「お風呂どうでしたか? 気持ちよかったでしょう?」 「ああ、すごく気持ちよかったよ。あんなに豪華な風呂に入ったのは生まれてはじめてだ。あんなに広い湯船に毎日つかれるなんて、全く君がうらやましいよ」 「じゃぁ、先生? ずっとここにいたらいいよ。 僕から父に頼んであげる」  温まった掛け布団の中へ冷たい指先が侵入して来、その指先は康成の指先と絡まった。 「君の手はずいぶん冷たいねぇ」軽く笑って、ごまかすように手を引いた。 「うん。さっきまで父の部屋にいたから」 「? どういう意味?」  康成が顔を圭吾に向けると、圭吾は月光に瞳を煌めかせて、「秘密」と、言った。その表情に、何故だかひどく胸が痛んだ康成だった。  翌朝。  散々、道に迷った昨日の疲れが残っていたのだろう、康成が自然に目を覚ました時には、圭吾は机に向かって静かに本を読んでいた。はっとして慌てて飛び起きる。その様子に気がついて圭吾がこちらを振り向いた。腰を捻って椅子の背もたれに腕を置き、穏やかに微笑んでいる。 「お寝坊さんなんですね」と、圭吾は言った。 「……あぁ、すまない。まったく初日から寝坊とは……。藤崎氏は?」 「父なら仕事に出かけてしまいましたよ。今は10時を少し過ぎたところです」 「……あぁ、信じられない。家にいる時だって、こんな寝坊は……」 「お気になさらないで下さい。時間はたっぷりあるのだし。先生、顔を洗って着替えを済ませて、そうしたら朝餉をどうぞ」  椅子から立ち上がった圭吾はベッドに腰を下し、上体だけを起こした康成の腿に手を置いた。こちらを向いた康成の、寝ぼけた瞼に気持ちを込めて口づける。先生、どうか僕を……、と、気持ちを込めて。優しく口づける。 「あははっ、……一体、何のマネだい?」  軽く笑って顔を引く。腿に置かれている手を取って、それをベッドにそっと置く。 「……朝の、挨拶。口づけをするんです。それが、ここでの作法です」  嘘をついてしまった。胸がドキドキと鼓動を早める。嘘をついたらいけないのに。 「……先生も、僕に挨拶を……」  口が勝手に動き出す。 「口づけを……」  見つめる瞳が揺れている。  康成から見て圭吾は明らかに嘘をついていた。何故、こんな嘘をつくのだろう? 嘘をつき慣れていない証拠の揺れる瞳。これも、淋しさから来るものなのだろうか? だとしたら、邪見に扱ってはいけない気がする……。  康成は、圭吾の艶やかな黒髪に手を置くと、「おはよう」と言って、その髪に軽く口づけた。 「……これで、終わり?」と、圭吾が見上げてくる。 「口づけは口づけだろ? さぁ、寝坊しておいてアレだけど、勉強をしなくてはね」  ベッドから出る康成を圭吾は瞳で追いかけた。今までここへ来た何人もの「見張り」は、一目見るなり欲望で目をぎらつかせた。部屋へ入ると、その日のうちに自分を抱いた。その度、期待を抱くけど、いつもここへ残された。自分の未来を知って尚……。でも、藤間先生は……、藤間先生なら……或は。 「すまないが……、洗面所は?」  ドアノブを掴んだまま振り返り、照れくさそうに訊ねてくる康成に、圭吾は無邪気に微笑んだ。  「こっち。僕が案内してあげます」。  顔を洗い身支度を終えると、昨夜の夕餉とは別の日当りのよい部屋へと通された。圭吾が何かと世話を焼き、康成の朝餉を銀のトレーに乗せて運んで来た。驚いて慌てて椅子から立ち上がる。 「先生、座っていて」小さく笑われ、気恥ずかしさからため息が出た。これではどちらが先生なのか、わかりはしない……。 「君は……済ませたのだよね? 朝餉を」 「はい。とっくに」にっこり笑う。 「はぁ……、本当に、何と言えばよいものやら……、申し訳ない。寝坊など……」  言いながらトーストをかじる。康成の  情けない顔を見て、圭吾は、また笑った。 「先生?」 「うん?」 「先生には好きな人がいますか?」 「……うん?」  突飛な質問に寝ぼけた頭が追いつかない。首を傾げて圭吾を見つめる。圭吾が目を逸らし頬を薔薇色に染めた。 「……好きな人がいますか? 恋をしていますか?」  あぁ……。そう言う事か。学校へも行けず、屋敷からも出られない。だから、友達もいない。増してや恋などした事がないのだろう。かくいう自分も……、それほどは。 「まぁ、一度や二度なら恋をしたよ。今は全くだけど」 「どんな恋でしたか?」 「どんな恋って……うーん。まぁ、楽しい事もあったし、悲しい事もあったよ。怒ったり笑ったり、でも、一番、悩む事が多かったかな」 「何故? 悩むって何を?」  身を乗り出して、まともに瞳を覗かれる。そこまで、興味を引く程の恋をしてきたわけじゃない。嘘を教えているようで何となく気が引ける。 「まぁ、その内、君も経験するさ。年を重ねれば、きっと体も強くなるだろうしね」 「……年を重ねたら?」 「そうだよ。君はまだ14才だろ? 18になる頃には、もっと逞しくなっているさ」 「……そうですね」  少しの沈黙の後、微笑みを向けて来た圭吾の瞳は、先と同様、嘘に揺れていた。  朝餉を終え、部屋へ戻って圭吾の勉強を見た。読書はよくしているようで、少し難しい漢字でもつっかえる事なく読み上げる。自分の前にも家庭教師が来ていたと言う話は耳にしている。余程、優秀な家庭教師だったのではないだろうか? 康成が感心する程、圭吾はすらすらと見事に文字を読み上げた。 「じゃぁ、次は、書き取りかな」 「……書き取り」圭吾の声が沈む。康成は、にやりと笑った。 「ひょっとして、読めはするけど、書くのは苦手?」 「……ええ、まぁ」  照れくさそうに頬を染める。 「それじゃぁ、しばらくは書き取りの特訓でもしようか」 「えっ……そんなの……」  隣を見上げて息が止まる。  康成の微笑む瞳を、圭吾はあまりに間近に見つめてしまった。胸がドキドキと鼓動を早める。この人を逃してはならないと、得体の知れない命令が、頭いっぱいに広がって行く。康成の腿に手を置いて、その唇に自分の唇をそっと押し付けた。  時が止まって。  急速にそれを取り戻す。  動き出した康成は、動揺した目で圭吾を見ていた。 「先生、僕……」言いかけて、それを遮られる。 「いけないよ……圭吾。性的な事に興味があるのは解るけれど、僕は君の恋人ではないのだから」 「……でも、先生」 「圭吾」厳しい声で、名を呼ばれた。 「度が過ぎる」 「…………だって」 「だってじゃない」と言って、大きなため息をもらす。  圭吾は焦った。この人だけは絶対に逃してはいけないと、警鐘が鳴り響く。頭が痛くて割れそうな程、激しく早く鐘は鳴る。 「……ごめんなさい。嫌わないで」  俯いて身を縮めた。どうしていいのか、わからない。強く握った手の甲に、圭吾の涙がひと雫、ぽとりと落ちて、流れて消えた。  書き順がめちゃくちゃだ。読みこそできるが、書く事がままならない。これで、本当に14才なのだろうか……? 家庭教師に教わっていたのは、読みだけ……? 「……先生、これで、あっていますか?」  顔を上げずに、か細い声で圭吾は言った。まだ、康成が腹を立てているとでも思っているのか、書く文字も、途切れ途切れになる程、筆圧が弱い。 「あぁ、残念。圭吾?」 「……はい」 「この文字は、ここから始める。次に、ここを書いて」 「……ごめんなさい。藤間先生、ごめんなさい、本当に」  筆を持つ手が微かに震えている。何についてごめんなさい、と言っているのか、康成にはよく解らなかった。書き順を間違えた事について? それとも、先程の口づけについて? どちらにしても、康成は既に圭吾に腹を立ててはいなかった。落ち込む圭吾の俯く頭を見つめる。聞こえないように微かなため息をもらした。 「怒ってないよ」 「……僕を嫌いですか?」 「何故?」 「……さっき、失礼な事をしてしまったし、漢字も書けなくて頭が悪いから……」  随分、自分に対して否定的なんだな……。康成は、圭吾の態度を見てそう思った。 「さっきの事は反省してくれているのならそれでいい。漢字については、君は読みは習っていても、書きは習っていなかったんだ。知らない事を初めから出来る人間なんて然う然ういない。君は、頭が悪いわけじゃないよ」 「……じゃぁ、僕を?」 「嫌いなら勉強なんか見ていないよ。僕は君を嫌ってない」  そう言っているのに、圭吾は俯いたままこちらを見ない。康成は手に持った筆を置いて、圭吾の頭に手を置いた。 「少し、休憩をしようか? 庭に出るくらいなら問題はないのだろう?」  やっとこちらを見上げて、圭吾はこくりと頷いた。 「先生? 空を見上げて」  庭に出て、圭吾に言われて康成は空を仰いだ。一羽の鳥が、屋敷の上空を旋回している。 「あれは……何だろう? トンビかな?」  康成が眩しい日射しを遮る為に額に手をあて呟くと、圭吾は、「正解」と言って、喜んだ。 「あれね、あのトンビ。若鶏の時に屋敷の薔薇の棘にひっかかっちゃって。一番上の兄と一緒に、僕が助けてあげたんだよ。それから、時々、高くて綺麗な声を上げて、屋敷の上を旋回するようになったんだ。まるで、お礼を言っている見たいでしょう? 」  視線を下に向け、圭吾を見る。微笑む瞳に安心し、「そうだね。きっと、そうだよ」と、微笑み返した。 「……あれ? 一番上の兄って……、君には兄弟が?」  そんな情報は聞いていないと思い訊ねてみると、圭吾は曖昧に笑って話を逸らした。 「今日のお昼のメニューは何でしょうね? 先生、まだ、お腹空いてないでしょう? 朝寝坊して食べたばかりだから」 「……あぁ、それを言ってくれるなよ」  触れられたくない事なのだろうと思い、康成はそれを追求しなかった。
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