同棲契約

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今日は待ちに待った引っ越しの日。 荷物は纏めてある。 賃貸契約の書類を持ってマンションに向かった。 会社から片道一時間以上かけて通勤していた実家から、夢の一人暮らしを始める。 値段のわりに綺麗で、独り暮らしの女子にもってこいのスーパー、コンビニ、駅に近く安全。 部屋数も通常より一つ多い。 安いのは若干駅から遠く、田舎だかららしい。 まずは、手荷物を部屋に入れてから大屋さんに挨拶に行かないと。 「確かこの辺だったかな」 自分の扉の前に誰かが立っている。隣人さんだろう。 背後から声をかけた。 「こんにちは、今日からここに引っ越してきた浅田といいます」 振り返った男性は見覚えのある顔だった。 「相沢さん」 「浅田か。どういうことだ」 クールというより鬼上司。一瞬で血の気が引いた。 今一番会いたくない人だ。 昨日は書類の作成ミスで説教された。 「俺も今日からここに越してくる予定なんだが、鍵が開かなくてな」 「私もこの205号室に引っ越してくる予定です」 「賃貸契約の紙を見せてくれ」 契約を見ると同じ部屋になっていた。 「管理会社に電話をかけてみる」 相沢さんは電話をかけて、みるみる顔色がいつもの仏頂面に戻っていく。 「あっちの手違いだと。 申し訳ございません、と謝られただけだ。ここのマンションはもう空きがないようだから、どこか別の場所を同じ値段で用意しますとのことだ。 どうする。どちらか片方がまた別のマンションに行くしかないようだな」 早々に気分が滅入ってきた。 「立ち話もなんだ、部屋に入れてくれ。お前が正しい方の鍵を持っているんだろう。俺のは差し込んでも開かなかった。多分押し入れのじゃないか」 楽しい引っ越しのはずだったのに。 鍵を開けて向かい合って座った。 「それで、どうする。 ここは職場から近いし安い割には綺麗で便利だ。 お前は勿論、俺もここに住むつもりでいたからそう簡単に納得は出来ん。 確かに俺は男で五才以上も年上だが、ここでレディーファースト、大人の対応とはいかない」 つらつらと並べられていく。 このままではどちらかが出ていかないといけない。 「私も嫌です。起こったことは仕方がないので、話し合いをしましょう」 「勿論だ。だがしかし、妥協点を探さなければならない」 二人でいくら話し合っても埒が開かない。 それから何時間か経過した。 その時、相沢さんが顔をあげた。 「わかった。じゃあ、俺とここで住まないか。 どちらかがよりいい物件を見つけたらすぐに出ていくことにしよう」 「ええ!相沢さんとですか」 まじまじと顔を見返す。 「嫌なのか。俺も会社の部下と同じ部屋に住むなんて、仮の住まいとはいえ不本意だが。 どちらかが結婚をして広い部屋に相手と住む為に引っ越すかもしれんしな。もっとも結婚出来ればの話だが」 私は顔をしかめていた。 「相手なんていないですよ。それに結婚するまで家に呼べないじゃないですか」 「生憎俺もだ」 睨み合って更に話が進まない。 「とりあえず、二人ともここに泊まるしか仕方がない。諦めろ。明日、明後日も家賃は出るのにホテルで泊まるわけにはいかないだろう」 「分かりました。じゃあ、私があの部屋に行きます」 部屋に入ってみると思いの外大きかった。 数時間後、呼び声に部屋を出た。 「どうしました」 相沢さんはダイニングに座っていた。向かい合うように、紅茶が置いてある。 「俺が持ってきた紅茶だ。飲みながら話そう」 相沢さんが紙を机に置いた。 「明日からどちらかが出ていくまでのルールを作った」 よく見る恋愛漫画の序盤みたいになってきたな、と思いつつ紙をのぞいた。 家賃光熱費は折半、俺の物に触るななど。 「相沢さんの方が倍くらいお給料高いじゃないですか。ちょっとくらいまけてくれても」 「それは出来ない。あくまで他人と住んでる訳だからな。給料なんて考慮出来ない」 一度は夢見た勘違いでのイケメンとの同居。 私は現実を突きつけられてうちひしがれた。 ラブラブになるわけないが、あまりにもかけ離れている。 さらに、細かいことが全て書かれている。 お風呂は毎日六時半~七時が俺。 俺の入浴後に、お湯を抜いてから再度お湯を張ること。 門限は十時半。それ以降は帰ってくるな。 「なんで門限がこんなに早いんですか。飲み会を途中で抜けないと駄目じゃないですか」 「俺が十一時に寝るからだ。寝る間際にごちゃごちゃされてはかなわん」 部屋の鍵はいるときもいないときもずっと閉めておくこと。洗濯は交互にし、自分の部屋に干すこと。 ご飯は各自で作ること。 これって全くの家庭内別居状態じゃない。 「ここまでとは。分かりました」 「しかし、お手洗いが一つしかない。 こればかりは仕方ない。 会社のお手洗いとさほどは変わらないだろう。 まだ、誰が使ってるかわかるだけマシだ。マンションに一つの共用トイレと比べてもいい」 「それもそうですね」 ごみ捨ては朝早く出る方がやる。 共用スペースの掃除は週替わりでやる。新婚かよ。 冷蔵庫に入れるものには名前を書いておく。 レンジやトースター、その他の家電は共用。 テレビのみ引っ越しで持ってきたものを部屋に置くこと。家具が壊れたら二人で折半。 最後に、お互いのプライベートについて守秘義務を守ること。 「会社でペラペラとお互いのプライベートの話をされたくないからな。 しっかりと決めておくことで、トラブルを防げる。 20点から減点式でゼロになったら有無を言わさず転居だ。確認したらここに印鑑を押してくれ」 私が印鑑を押したこの日からギクシャクした同居人との生活が始まった。 恋なんてもうしない。彼氏に振られて私はそう決めていた。 つい先月別れたばかりだった。婚約破棄をされた。 あぁ、またあの夢か。 目が覚めると、隣のキッチンで音がした。 薄く扉を開けるとスーツを着ている時とは違うTシャツ一枚の相沢さんがいる。 コンビニで買ったパンと珈琲を飲んでいる。 ノーメイク、そして昨晩も話し合いの後以来部屋にとじ込もっていて、顔を合わせていない。 お風呂には彼が出た後に入ったが、彼の部屋が閉まる音がしてからお風呂に向かった。 全く生活リズムを合わせない。 キッチンとは別方向の洗面台で顔を洗い、部屋でメイクと着替えを済ませた。 その頃、玄関が閉まる音がした。 そろそろ出勤時間だ。 彼が出ていったのを確認してから家を出た。 鍵はお互いに持っているから、後に出た私が閉めなければならない。 どうせ向こうでも会うのかと思うと気持ちが重い。 「おはようございます」 机の上には相沢さんから返ってきた書類の束があった。 付箋が貼られていて、細かいところまでビッシリと書き込まれている。 付箋には午前中までに再提出と書かれていた。 パソコン越しににらみつける。 「何か用か」 「いえ」 この上司と同棲なんて有り得ない。 ちょっとの出来心だった。 たまたま共用スペースの棚を掃除した。 ゴミ出しを終えて帰ってくると、棚にあった腕時計が見当たらない。 「あれ、ここにあったはずなんだけど」 いくら探しても見つからない。 かなりのごみを捨てたから、確か雑誌の上に置いていた。さーっと血の気が引いていく。 そのときに間違えて一緒に捨ててしまったのだろう。 焼却炉に持っていかれてしまった。 「ただいま」 彼は机の上をみて顔をしかめた。 「あれ、ここにあった時計は」 「すいませんでした。時計を失くしてしまいました。代わりの物を弁償します」 彼はいつも通りだったが、かなり怒らせてしまった。 「今後は一切俺の物に触るな。弁償出来るようなものじゃない。だから時計のことはもういい」 「そんなわけには」 「もういいって言ってるだろう」 そのまま何も言えなかった。 暫く黙っていたが彼は部屋に戻ってしまった。 数日後、初めてのごみ捨て当番が回ってきた。 ごみ袋を纏めているとコンビニ弁当の箱とカップラーメン、お惣菜コーナーのトレーしかないことに気がついた。 「焼き鳥、サラダ、炒め物、冷奴、から揚げ、パスタ。枝豆、春雨。ビール。健康的ではない…よね」 相沢さんよりも先に出勤して、ごみを捨てた。 食事代もそれぞれが出すことにしている。 私は相沢さんが部屋に籠っているときに簡単に作る。 ご飯は炊いても食べきれないから、パックのご飯を電子レンジで温めている。 相沢さんの机の上にはコンビニのおにぎりとパンがある。 「お昼ご飯はコンビニか外食で、牛丼やカレー。たまに和食か」 デスクの上を眺めていた。 その日は久しぶりに長い時間買い物に寄ってから帰った。 私よりも飲みの付き合いが多く、部下の残業を手伝わされ、いつも私の方が早い。 暑くて汗でびしょびしょになった。 今日は相沢さんが残業で帰るのが遅そうだったからお風呂に入ってしまおう。 私は買い物した食材を冷蔵庫に入れ、シャワーをした。 あと十分やそこらでは帰ってこなそう。 お風呂から上がり着替えていると突然、扉が開いた。 「何をしている。この時間は俺だろう」 「すみません、すぐに出ます」 咄嗟に扉を締めた。 「この時間以外はいつ入ってもいいと妥協してやってるのに、それぐらい配慮をしろ、馬鹿。違反でマイナス一点」 扉越しに声がする。 「馬鹿って。そんなに言うことないじゃないですか」 絶対に見られた。 ムッとすれ違い様に開けたシャツの首筋に痕が見えた気がした。 相手がいないとか言ってたくせに何の痕何だろう。 冷蔵庫を開けると今晩の夕食であろうスーパーの惣菜が少し入っていた。 同棲?しているのに今日も会社以外で顔を合わせたのはほんの一瞬だけだ。 私は机に煮物や味噌汁、魚を焼いて、買ってきたお漬物を少し盛った。 五キロのお米を買って二人分を炊いた。 すると丁度相沢さんが出てきた。 顔を合わせると、隣人のような他人行儀な挨拶をした。 彼は一瞬目を合わせただけで、すぐにビールをとり惣菜を片手に隣の部屋に引っ込もうとする。 「ちょっ、ちょっと待って下さい」 半分身体をこちらに向けた。 「なんだ?電球を変えるくらいならやる」 「いや、そうじゃなくて。あの、ご飯作ったんです。これ、食べて下さい。お口に合うか保証出来ませんが」 机の上を見て二人ぶん用意されているのに目を丸くした。 「これ、お前が作ったのか」 「毎日買ったものをたべていたら体に悪いですよ」 「悪いな、感謝する」 彼は目の前に座ると、惣菜を置いた。今日は手羽先。 「これも一緒に食べよう」 初めて会話らしい会話をした。 「「頂きます」」 二人で手を合わせた。彼が口に運び終わるまで見ていた。 「うん、うまい」 ほっと胸を撫で下ろした。 「味がちゃんとついている。味噌汁も具沢山で美味しい。手作りの夕食は久しぶりだ」 「明日からご飯は一緒に食べませんか」 彼はむせた。 「本当か。んん、迷惑でないなら嬉しいが」 「花嫁修業になりますから」 「そうか。食事代は七割出すことにする。皿洗いは俺も週の半分はやる」 あれ、少したった二割だけ多い。 「二割は買い物と作ってくれる手間の代金だ」 「そうですか」 いつもはネクタイとシャツの堅苦しい格好だけど、やっぱり家では違うんだなぁ。 Tシャツにズボン。鎖骨が見えている。 一瞬変な気分になったことは内緒だ。 いつもとは違う姿を一人占めしている感覚。 「買い物は言ってくれれば帰りにいくから」 「はい。どうも」 「いい加減、その堅苦しいしゃべり方を止めたらどうだ。未だに職場にいる気さえする」 「すみません」 「すぐに謝るな。家では対等なんだから俺に口答えしてみろ」 「出来ません」 彼は変な顔をした。 「なんか居心地が悪い。ごちそうさま。美味しかった」 腕を掴んでいた。ガッシリと筋肉質でやっぱり男の人だなと感心していた。 「少しだけ、ゆっくりしましょう。これくらいの我が儘ならきいてくれますよね」 目を僅かに開いて頷いた。 リビングにあるソファに腰かけた。間を開けて隣に座った。 「私、彼氏と最近別れたんです。 お前って重いんだよ、それに好きな人が出来た、といわれまして。 重いって分かりませんね、どこからなのか。 自分では自覚がないんです」 自虐的な笑みを浮かべた。 「辛いなら無理に笑わなくていい」 優しいような突き放すような感じだった。 「俺は『私のこと好きじゃないの。仕事仕事で相手にしてくれない。大事に一番に思ってくれてないのはわかってる。あなたとの結婚のビジョンが見えない。別れよう』と言われた。大人げなく情けなかったな」 見るからに落ち込んでいる。二人で感傷的な気分になった。 「写真が消せないんです。最新の写真はこれです」 元彼のSNSを見せると目をすぐに背けた。 聞き取りにくい低い声で言った。 「隣にいるの俺の元カノ」 「え」 変な雰囲気になった。 「もう、あいつの写真なんて一枚も残さずに消した。お前も早く消した方がいい。落ち込むだけだ」 知りたくなかったな。美人なお姉さんという感じだ。 「振られた同士頑張りましょう」 「お前も酒を飲め。すっきりするぞ」 「お酒にはそんなに強くなくて」 「今日から始めたらいい。 このまま、どちらかが出ていくまで何もないなんて面白くないだろう。毎日、ゲームをしよう。負けたら言うことを聞く。勿論、ハンデ付きで」 「面白いとか面白くないとか関係ないです」 私はビールを飲み干した。 「カードゲームなら平等だろうし、五目並べでもいいぞ」 「神経衰弱なら負けません」 部屋からトランプを持ってきた。 カードを並べて黙々と神経衰弱をやっていく。 「今回は三枚ルールにしよう。中の二枚が揃えばいい。先にどうぞ」 言われて三枚めくると、早速一枚も当たらない。 相沢さんがめくると私の一枚と被っていた。 一ターン目でとられた。 残りの一枚だけ覚えておこう。 相沢さんがもう三枚引くが当たらない。 私が次に引くと、またさらに三枚出てきた。 相沢さんの引いたカードと被らない。 次に相沢さんが引くと当たった。 「なんてクソ記憶力。もしかして、先に引かせたのも三枚ずつってわざとですか」 「わざととは誤解を招く。うまく行けば一度に六枚もひっくり返せるんだ。効率的だろう」 「そんなの三枚一度に覚えられませんよ。もう混乱してきました」 私がイライラしているのを横目で笑っている。 結局速攻で負けた。 「で、何にします。変なのはやめてくださいね」 私が身を引くと相沢さんはわざとらしく眉間に皺を寄せた。 「んー、興味ない。俺のお弁当を作る。 女子力が上がって早く彼氏ができるってことでいいだろう」 「うわー私がお弁当作るの嫌いだと知ってて、ドS」 彼は楽しそうにこちらを見ている。 「じゃあ、明日の対戦も考えておけよ」 二人で飲み明かした。最後の方の記憶がない。 目が覚めると、リビングで二人で寝転んでいた。 酔いつぶれてしまったんだ。 横にいる相沢さんの顔をみた。 「気の抜けた寝顔。いつも私を怒るときとは全く違う」 鼻をつんつんとしてみたり、さらさらの髪の毛を触ってみる。 無防備な寝顔を見せてくれて少し嬉しい。 起こさないようにシャツの首筋を捲ってみた。 やっぱり赤い痕がついている。心臓にバクバクしてきた。 これは、キスマーク。誰とだろう。 そろそろ目覚めてしまうかもしれない。 立ち上がろうとすると腕をガシッと掴まれた。 「麻奈」 知らない女の名前を呼んでいた。彼はもう一度眠りについた。 手を振り払おうとすると、また何か話し出した。 「なぁ、男の寝込みを襲うとはいい度胸だな」 「起きてたんですか」 「起きてたも何も寝てない。休憩してたんだ」 ぐいっと腕を掴まれたまま静止していると、徐に起き上がった。 唇に柔らかい感触がする。 「ん、んー」 ゆっくりと優しい感じだけど、離してくれない。 もう少しで舌を入れられるところだった。 抗議の目を向けたが、目を細めて笑っただけだった。 「もう降参か」 「何してるんですか。私達そんな関係じゃ」 「頬が真っ赤だぞ麻奈」 完全に寝ぼけている。 きちんと翌日は弁当を作った。 「それ、彼女さんの手作りですかっていいにくることな。俺がモテるように手伝うこと」 昨日の晩の言葉が甦る。 お昼休みになりお弁当を開く。 チラリとみるとまだパソコンを叩いていた。 気が気でない。 ご飯を食べ終えた頃、やっとお弁当を開いた。 そのタイミングを見計らいコーヒーを片手に近づく。 「そ、そのお弁当彼女さんの手作りですか」 彼は違う、俺が作ったんだよと言った。 「へぇ、すごいな」 大嶋さんが肩を掴んだ。 大嶋さんは相沢さんの同期で一番仲がいい。 「まぁな」 「どんな風の吹きまわしだか。元々料理なんてしない癖に」 「相沢係長の手作り食べてみたいですぅ」 近くの女子が色めき立つ。 「食べさせられるようなものじゃない」 私がムッとすると少しだけこちらを見た。 大嶋さんが去って二人きりになった。 彼は食べ終わったお弁当の蓋を閉めた。 味付けはどうだっただろう。 飲み物を買いに自動販売機に向かう。 何にしようか迷っていると後ろに人の気配がした。 「よければ、お先にどうぞ」 振り向く前に小銭を入れてボタンを押した。 「とても美味しかった、ありがとう」 私の耳元に囁いた。 壁ドンならぬ背後から自動販売機に挟まれて後ろを向けない。 頬に冷たい感触がして、思わず声が出た。 「ほら、これ」 冷たいミルクティーを受け取り、彼が離れてから振り返る。 肩頬は冷たいのにもう肩頬は熱い。 オフィスに向かう後ろ姿をただ見つめていた。 出る時間をずらして、会社にいくと相沢さんが大嶋さんと話していた。 というか一方的に話されていた。 「相沢、引っ越した部屋にどうして呼んでくれないんだよ。まさかお前」 「違うって」 相沢さんは面倒くさそうに顔をパソコンに向けた。 「じゃあ、明日行くから」 おいっ、引き留めようとしたが大嶋さんは笑いながら去っていった。 相沢さんはチラリと私を見た。 案の定、家に帰ると 「というわけでだ、浅田には大変申し訳ないが今週の土曜日は大嶋が家に来るから誤魔化してくれ。この通り」 手を合わせている。 「何を出します?」 彼は顔を上げた。 「は?」 「だから、何を差し出すか聞いてるんです」 彼は鳩が豆鉄砲を食ったようになった。 「はぁ、交換条件だな。何が望みだ」 「そんな悪役みたいに言わないで下さいよ。考えておくので、今度お願い聞いてください」 「分かった。ただし、家を買うとか世界一周の旅とかテーマパークが欲しいとか無理だぞ」 「私をなんだと思って。いいです、分かりました。 その日は友達と出掛けるんで大丈夫です。くれぐれも私の部屋に立ち入らないで下さいね」 「心配無用」 次の土曜日までに部屋を掃除しておかないと。 当日、朝から私の歯磨きやタオルなどの私物を部屋の中に入れた。 「それでは、行ってきます。夜には帰りますね」 玄関でお見送りをしてくれた。 「じゃあ」 少し心配は残るけれど、上手くやってくれると信じて扉を閉めた。 浅田が出ると、念入りにチェックをしてあとは昼御飯を用意して待つ。 暫くしてインターホンが鳴った。モニターを確認して中に招き入れた。 「おお、綺麗な家だな。お邪魔します」 大嶋も手土産を持って部屋に入ってきた。 「うんうん、いい部屋だ」 満足そうにソファに座った。 「昼間だけど、パーッと飲もう」 手に持っていたビニールから缶ビールを取り出す。 「おっと、その前に生活ぶりをチェック」 立ち上がると部屋の中をウロウロ歩き始めた。 目の先に固定電話がある。受話器の横にヒヨコの置物がある。首をかしげて見ていた。 「相沢って鳥が苦手じゃなかったっけ」 「いや?ヒヨコは別なんだよ」 冷や汗が背中を伝る。 確かに鳥は苦手でしかし、キャラクターのヒヨコは大丈夫だ。 それからキッチンに行き、ダイニングとベランダを見て回った。 浅田の部屋の前についた。 「ここは倉庫だから開かないんだよ」 「じゃあ、開けて」 大嶋は口を結んだまま仁王立ちでいる。 「いや、ここは何にもないから。 鍵はどっかに亡くしたし。 それにプライベートだからさ。な?ビール飲もう」 彼は怪訝な顔で渋々ソファに戻った。おつまみを開け、ビールを乾杯した。 ふと目の端のクローゼットを見ると、ピンクのものがはみ出ていた。 あれって、浅田の下着じゃ。気が気でない。 別の意味での誤解を生みたくない。 「しっかし、昼間っからのビールは格別だな」 上機嫌になった大嶋と暫く会話をした。 「本当に面白かったよな。笑いを堪えるので必死。 高橋なんかほぼ笑ってたぞ」 腹を抱えて笑った。すると、涙目を拭いながら妙に真面目なトーンで言った。 「これは女を連れ込んでるな?隠さなくていいぞ」 俺は出来る限り自然に否定した。 「彼女もいねぇよ。お前も知ってるだろ、随分前に別れた」 彼は電灯を見上げた。 「いやさぁ、冷蔵庫の中身がやけに綺麗に整理してあってさ。それに牛乳やオレンジジュースがあって相沢の好みじゃないなと。 あんなに自炊が嫌いだった相沢が料理してるし」 キッチンは全て浅田に任せてあるんだった。 「それに、洗面所の櫛とドライヤーに長い髪の毛。 部屋の中は甘い芳香剤か柔軟剤の匂いで。お泊まりデートをしてるとしか」 「本当に何でもないんだよ」 本当は心臓がバクバクしていた。 「シャンプーは女性もんだし、そうゆう趣味があるのかと。 そういうことなら、正式に言ってくれるの待ってるから。一番目は俺にだぞ」 俺は何でこんなに必死になっているのかは分からんが、何とか誤魔化せたと思う。胸を撫で下ろした。 「分かった。それとまた、誰かと進展があったら教える」 夕食の時間になると、彼は帰っていった。 流石に甘かったな。シャンプーや冷蔵庫の中身までは手をつけて無かった。 大嶋のことだから完全に疑っていたようだけれど、証拠がないから確信はもってない。 次の日。私は絶対に負けないものを持っていた。 「この番組のイントロ早押しで勝負」 相沢さんは頭をかいた。 「俺、あんまり曲知らないんだよな。ハンデつけてくれ」 「嫌です。後半の古い曲は逆に相沢さんが有利じゃないですか」 渋々、相沢さんはテレビの前に座り、二人でテレビに釘付けになった。 イントロが流れて早速一点とり、また一点と連続で得点を取った。 「10点勝負です」 相沢さんは相手にならないほど弱かった。 「よっしゃー完全勝利」 頭を抱えて恨みがましく私を見た。 「勝ちは勝ちだからな。それで」 私の棚の少女漫画を見つけた。 「このキャラクターやってくださいよ」 「はぁ?」 相沢さんは呆れたように首を振った。 「私の推しなんです。ほら、何でもやってくれるんですよね」 相沢さんは一冊手に持った。 「俺に惚れるなよ」 「だれが貴方みたいなドSなんかに」 「惚れたら同棲は解消で、この勝負は負けだからな。負けた方が出ていくんだぞ」 悪い顔をしている。 後ろに回ったかと思うと腕が前に伸びてきた。 「あったかいな。貴様の側にいると落ち着く。ほら、力を抜いて」 あぐらの上に座るとすっぽりと収まる。 ヒロインと騎士の恋愛物語で騎士が優しくヒロインを抱き締めるシーンだ。 耳元で声がしてくすぐったい。 「なんだ、照れているのか」 耳に息を吹き掛けられる。 「や、駄目です」 「こら逃げるなって」 腕で強く抱き締められる。 「相利共生って知ってるか」 私が顔を上げると彼は微笑んだ。 こんな台詞無かったはずだけど。 「俺がモテる為に女性側の意見を聞かせてくれ。その代わり君の婚活の手伝いをしよう。 これでウィンウィンだろう」 「確かに、そうですけど」 「俺に料理を作れば、アドバイスをするから腕が上がるぞ」 私は彼の腕をやんわり外した。 「はぁ、ルーク様が台無しですよ」 「すまない」 苦笑して相沢さんはグラスをあおる。 屈辱的だけど私がふと呟くと相沢さんは低く聞き返した。 「もう一度言ってくれ」 「だから、そのままでも十分じゃないですか」 彼はいつもの真顔で頷く。 「そうか」 「強いて言えばもうちょっと取っつきやすくなることですね」 「なるほど、話しやすい上司だな」 満足そうに彼はつまみを口に運んだ。 それから相沢さんには直した方がいいところを、細かく伝えた。 すると早速、成果が出たらしい 「君の言うとおり、意識して笑うようにしたり他人行儀ではなく、もう少し親しみやすくした。 ネクタイも赤色に変えた。 デスクで寝たふりしてたら面白いくらいに声をかけられたりする」 「それは良かったですね」 「クールで怖いイメージだったようだが、飲みにも誘われるようになってな」 何か面白くないな。 「言われたとおり眉間のシワを意識して伸ばしてみた」 前髪もおろして少し若く見える。 確かに最近、手のひらを返したように女子社員からの人気が急上昇している。 私の友人たちも話題に出していた。 それに対して私は特に何も浮ついた話はない。 「選び放題でよかったですね。これで早く結婚して部屋から出られますね」 嫌味を言うつもりはなかったのに。 洗濯したものを綺麗に糊付けし、アイロンをかけて、クローゼットに干す。その一連の作業を面倒がりもせず毎日行う人はいるのだろうか。 電車の窓から街を見下ろした。 玄関に入ると疲れたなぁとヒールを脱ぎ捨てた。 喉が乾いたけど、何を飲もうか。 「おい、綺麗に並べてくれと言わなかったか」 中からガミガミと声がした。 「申し訳ありませんでしたー」 ほんの二時間前に別れ、今は家で会う。 ヒールを揃えて靴箱に入れた。 ちらりと目を移すと自分の部屋で作業をしているのが見えた。 こいつだ。毎日忘れずにやるなんて面倒くさくないのかな。 「風呂沸いてる。それと、飯は炊いておいたからな」 「ありがとうございます」 私が自動炊飯タイマーをセットし忘れたせいなのだが、ここまで皮肉を言うか。 根性の悪さが滲み出ている。 私は背中に向かってべーと舌を出した。 「見えてるぞ」 窓ガラス越しに睨まれた。 そのまま風呂に入ると、出た頃にはご飯が炊き上がっていた。 買ってきた惣菜と、朝に作っておいたおかずを並べて食べた。 そんな何もない日の翌日の夜。 すっと部屋に入ったのを見届けていると、いつもはそんなへまをやらかさない相沢さんが、ワイシャツを掛け忘れている。 ヨレヨレになったワイシャツがソファにそのままになっていた。 シワになるって嫌がるはずなのに珍しいな。 それを手にとってみると僅かにこの間リビングで嗅いだにおいがする。 何のにおいだろう。ほのかに香る。顔を近づけて吸い込んでみた。 汗の…におい。彼の体臭。 甘いような、多分男の…においがする。 サイズも大きい。やっぱり、体格差がある。 なんだか落ち着くにおい。 ふと顔をあげると目前に足があった。 「何してるんだ」 ぽかんと呆気にとられているのと、顔に手を当てている。 「俺としたことが、失態だ。干し忘れているところを見られるなんて」 そこかと驚いた。 「じゃなくて、それ俺の1日着ていたワイシャツだ。綺麗でもないだろう」 やっぱり見られた。 「お前、そういう趣味があるのか。まったく、解せん。 あのな、仮にも一緒に住んでる身なんだからこのような行動は慎んでくれ。 間違えがおこったらどうする。 いや、浅田とは間違えは起こさない。 こちらから願い下げだ。それ以前に、そこまで飢えてない」 流石に言い過ぎ。腹が立ってきた。 「それにその格好はなんだ」 私の好きなバンドのライブTシャツに短パンだった。 「異性と住んでいるんだ。もう少し危機感を持て。 俺だって男だからな」 そんなに言わなくてもいいじゃない。 自分のことを恥じる以上に、爆発しそうだ。 「相沢さんは…に」 「なんて言ったんだ」 その余裕ぶった顔が憎い。 自分がまるで上にいるようだ。 「だから、相沢さんはキスしたくせに」 はっと口が滑ってしまったことに気がついた。 「いまキスしたと言ったな。俺が浅田にか。あり得ない」 「麻奈って誰です」 痛いところを突かれたように少し表情を固くした。 「誰でもない」 「麻奈って呼びながら、私にキスしたじゃないですか。その人に未練があるんでしょう」 「その名を言うな」 手で口を塞がれた。 「それ以上言ったら…本気で怒るぞ」 威圧感のある真面目な顔に怯んだ。 手首を強く掴まれた。 「わかりました。離して下さい」 かなり力を入れてしまっていたようで、手首がヒリヒリと痛い。 それに、赤くなっている。 怖い、何がそんなにトラウマで言われたくないんだろう。 私の眼差しにはっと気がついた相沢さんはその場で腰を折って謝った。 「すまない。女性に乱暴をするなんて。このとおりだ、だから泣きそうな顔をしないでくれ。女の涙には弱いんだ」 取り乱している相沢さんを横目にリビングに向かった。 「俺を好きなだけ力一杯殴り付けてくれ」 この人は大真面目にこんなことを言うから、吹き出してしまった。 「それじゃ、私より酷いじゃないですか。そんな趣味があったんですか」 「な、わけない」 少し赤面した顔が面白い。 「じゃあ、ちょっとだけリビングでお茶飲みましょう。いいですよね」 「あぁ、お茶だけなら」 やかんでお湯を沸かして、その間カップとポットを準備して向かい合って座っていた。沈黙が続く。 「あ、あの。相沢さんにフェチズムってありますか」 「なんだ、自分で掘り返して。そんなに墓穴を掘ったら登ってこれなくなるぞ。ていうのは冗談だが」 中々の仏頂面でよく言う。 「それ、冗談に聞こえないですよ」 やかんの音がした。 キッチンに戻りやかんを持ってリビングに行き、マグカップに注いだ。 そのとき、バランスを崩してお湯が僅かに手に溢れた。 「熱っ」 手を引っ込めて考えていると「おい、何してるんだ」と私の腕を掴み、すぐに洗面所に連れていった。 一気に水で冷やしたからか、僅かにやけどはしていたが痕は残らない程度ですんだ。 「まったく、不器用なやつ」 軟膏を塗りガーゼを巻いてくれた。 「嫁入り前が怪我でもしたら親が泣くぞ。 箱入り娘なんだから、気を付けろよ」 「ありがとうございます。気を付けます」 「腫れはないようだな」 私の手を取ると、まじまじと見つめている。 「痛みは…多分ありません」 しゃがんでいるから上目遣いに見える。 「多分か」 徐々に手に顔が近づいてきた。 「確かめてやろうか」 私が返事をするよりも早く、手の甲に口づけられた。 次に指先、手首を順番に熱い舌が這う。 「んっ」 私の反応を見て楽しんでいる。 じっくりゆっくりと柔らかい感触が指と指の間にくる。 なんか芯が熱くなってきた。 「や、ん。ちょっと待って」 息が上がってきた。 「もう片方の手で口を押さえても無駄だ。 かわいい声ならちゃんと聞こえてる」 こんな声聞かせたくない。 「おい、何をボケッとしてる。お茶を入れるときに他のことを考えるな。危ないだろう」 カップにお湯が注がれていない。 周りを見渡すと怪訝な顔で相沢さんが見ている。 お湯を入れるところから、妄想だった。 妄想が度を過ぎた。いけない妄想が膨らみすぎて、プシューと空気が抜けた。 「大丈夫か。顔が真っ赤だ。体調でも悪いんじゃないか」 「お気遣いなく」 二人でお茶を飲んで別れた。 あんな妄想をしてしまうなんて。 しかも、嗅いでいるのを見られた。 布団に頭を埋めて眠りについた。 ショッピングモールで店を梯子していると、背後から声をかけられた。振り返ると相沢さんがいた。 「どうした、こんなところで。 今日は休みじゃなかったか」 スーツをパリっと着込みこの場に不似合いだ。 「いえ、今度のブライダル企画の出張で」 「朝から見ないなと思ってた」 その程度かよと心の中で突っ込みながら笑顔を張り付けた。昨日、報告したけど。 「あぁ、その企画のことだが担当は俺もだろう。 丁度、取引先に行ってきてオフィスに戻るところだった。俺も視察に付き合おう」 気楽で良かったのに断れない。 「浅田のセンスに頼れないし。男目線も必要だろう」 予定が台無しだ。将来のシュミレーションのために、せっかく楽しみにしてたのに。 ぶすっとむくれながら店に入った。 いらっしゃいませと声をかけられた。 中にはちらほら人がいる。 ウェディングドレスの雑誌やマネキンを見ていたり、会場予約やパンフレットを眺めているカップルがいる。うわー完全アウェーじゃん。 こんないかにもビジネススーツの男女なんて。 「これ、今のトレンドみたいですよ」 「んー、色がな。男にとっては派手すぎる。 こっちなんかどうだ」 「いやー人生で一回しかない結婚式でこれは地味ですよ」 相沢さんが首を傾げる。 「それと、引出物は定番はお皿とかだがあえて便利グッズとかは?」 「それなんか結婚式じゃないような」 難しい顔をしたまま固まっている。 「葬式なんかお菓子やお茶、珈琲とか果物もらうよな。タオルとかも助かるし」 「んー記念品みたいなのでいいんですよ」 「二人の写真のものなんていらないだろう。かろうじてペアカップとかなら」 スタッフの人が声をかけたがっているのが分かる。 服屋でも私はいつも話しかけるなオーラを出している。 「白スーツが定番なんでしょうか」 会場の花やウェディング衣装の展示エリアにきた。 「形は色々ありますね、ちょっと羽織ってみては」 なんで俺がと言いつつ渋々、羽織ってみるとスタッフが近づいてきた。 「とてもお似合いですね。旦那さん素敵です」 「いや」 咄嗟に誰がだよ、違いますと言いかけたが相沢さんがパッと手を掴んだから何も言えなかった。 「どうもありがとうございます。今一番売れてるのってどちらですか」 「こちらなんか人気ですよ」 少し遠くから眺めていると、ハッとする程白スーツが似合っていた。何なのよ。 「へぇ、お得ですね。それとここだけの話、会場の広さなんですがこちらはバージンロードが短いですけど、こちらは長いですよね。これって」 スタッフさんは笑顔で相沢さんと話していた。 なんか疎外感。 ふと、私の顔を見ると腕を組んで囁いた。 「ちゃんと聞いてろ。重要な話を聞けるから嫌でも俺と夫婦のふりをしてくれ」 「えぇ」 組まれた腕をほどけずにスタッフの前に立った。 「どんな感じでお考えでしょうか。純白なオーソドックスなものか、奥さまの方は」 「ええ、特にまだイメージ沸いてないんです。 オススメなどはどういった」 これって本当に結婚式準備じゃん。奥様だなんて。 「ちょっとお疲れですね。結婚式の前ってとても楽しみですけど、マリッジブルーにもなる方が多いんですよ。お茶どうぞ」 ちょっとふて腐れてるのはいい意味で捉えてくれたみたいだ。 「すいません妻が機嫌悪くて」 横目で見るとニヤリと笑っている。 とりあえず言葉を飲み込む。 そのまま何時間か細かい打ち合わせなんかをした。 「熱心な旦那様ですね」 流石に物の材質やプランの話をここまで詳しくしてくる客はいないだろう。 「ええ、心配事が多いんでしょうか」 「わが社はウェディングプランの他にお見合いや婚活パーティー、会員制アプリを制作しているのですが、もし良ければ馴初めを聞かせて頂けると参考になります」 うげ、最悪な質問が来た。 「ええと、会社の上司と部下で一緒に仕事をしているうちに…でしょうか」 「素敵ですね。オフィス婚ですか。周りの方は喜んでくれましたか」 相沢さんが営業スマイルで「ええ、とても。同僚なんかは私共が結婚すると知ってかなり驚いていましたが」という。 ずるい。いつもその笑顔でいてくれたらいいのに。 「予算は平均どれくらいかかっているものなんでしょうか」 正直、顔と誠実さ頭の良さで言うと右に出るものはいないだろう。性格さえ良ければ。 お嫁さんになる人は愛されて幸せだろうな。 「ありがとうございました。また、妻と家でゆっくりと考えます」 店を出ると組んでいた腕を外した。 「誰が妻になんか、無茶苦茶です。普通に企画の為にって言ってくれれば良かったのに」 「誰が嫁にもらうか。それによく考えてみろ、産業スパイみたいなのに売れ行きやオススメなんて教えてくれるか」 そんなこと分かっているけど。 「腕を組むことはなかったじゃないですか」 「なんだうぶだな」 わざと軽蔑した目をこちらに向けた。 「からかわないで下さい。自分じゃ料理も出来ないくせに」 彼は笑いながら手を振った。 「今は浅田が作ってくれるし、後々結婚したら奥さんに作ってもらうから作れなくてもいいんだよ。 今どきコンビニ飯も美味しいし」 「モテない男の項目の一つが家事が出来ないですからね。そんなんじゃ結婚できませんよ。 一生独身ならどうするんですか」 「それか、君が俺に死ぬまで料理を作ってくれるのか」 「は?」 それって昔のプロポーズじゃん。お味噌汁を作ってほしいだっけ。 「私はすぐに結婚しますから。そして相沢さんよりも先に出ていきます」 「ふうん、都合よくもらってくれたらいいな」 余裕綽々で鼻につく。女には困ったことないってか。 直帰の為、家につくとソファに腰を下ろした。 「ごはんは簡単に済ませちゃいましょうか」 「ほら、この日本酒は取引先からもらったんだ」 お猪口に注がれる。 「綺麗」 透明でほんのり甘く澄んだ香りがする。 「滅多に日本酒は飲まないんですけど、勧められたら飲めるんですよ」 「あまり飲みすぎるなよ」 「大丈夫です」 空きっ腹に飲んだせいか、すぐに目の前が霞んできた。 「ほら言っただろう。寄りかかってもいいぞ」 肩に頭を乗せる。薄っすらと目を開くとすぐそこに顔があった。 ネクタイと腕時計を外す仕草に不覚にも心臓が跳ねる。 「こんなところで寝たら身体に悪いぞ」 本を読む横顔を眺めた。意識が朦朧としてきた。 「仕方ないな」 ふわりと身体が浮いた。力が入らない。 そのまま薄暗い自分の寝室のベッドに寝かされた。 「スーツが皺になるだろう。ジャケットは掛けとく」 ジャケットだけ脱がせると、布団を被せてくれた。 途切れゆく意識の中で声が響いていた。 「据え膳食わぬは男の恥、か。誰が言ったものか」 部屋の電気は消え、扉が閉まる気配がした。
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