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ついムキになって言ってしまった。
あんなことがあったのに浅田は想像以上にいつも通りで、俺のことなんて意識すらしていないんじゃないか。もう少し困らせてみたい。
あんなに無防備なのは俺が男としての魅力がないからだろうか。
そもそも俺がモテるように手伝いをしてもらい、その結果得意先にも俺のことを気に入ってくれた人もいる。
それに、影山さんだって。
俺は何がしたいんだ。グルグルと考えても仕方ない。
眠くて仕方ない。欠伸を噛み殺して廊下を歩いていると、ガラス張りの部屋の中に見覚えのある後ろ姿があった。
なんとなく気になって軽く中を覗いてみる。
春川係長の部屋に浅田がいた。
「そういえば、この間の話なんだけど」
聞くつもりはなかったが、給湯室が隣にあって珈琲を入れている間に聞いてしまった。
「おいくつですか」
珈琲をタンブラーに入れて給湯室を出た。
「出来れば早く子供が欲しいです」
思わず手に持った珈琲を溢しそうになった。
「まだ早いんじゃないのか」
春川係長、何を言っているのですか。いや、俺も係長だけど。浅田に実は婚約者がいたのか。
いや、春川係長と付き合っているのか。
「退職前にいいお話をいただけてうれしいです」
浅田が退職なんて聞いていない。
「なかなかいいですね」
春川係長とではないんだな。ひとまず胸を撫で下ろす。携帯の画面を覗いて二人は和気あいあいと話している。
気にはなるが、それより昼休みが終わる前に食堂に行かないと。
昔馴染みの新井さんと食堂で会った
。他愛もない会話をしていると、ある話を持ちかけられた。
「そろそろ相沢も独りは寂しいんじゃないか。いい人は見つかったか」
確かに最近、同期が次々と結婚していっている。
「いいや」
「彼女はいたよな?」
俺は首を横に振った。
「そうか。いいこがいるから紹介してあげる」
「うーん、俺を好いてくれている部下がいてな」
「相沢はその娘のことが好きなのか」
「いいや、分かんないな。可愛いとは思うけど」
新井さんは定食を食べ進めながら言った。
「一回会ってみなって。しかも、美人の秘書と社長の娘なんだよ。25と27で丁度いいだろう。相沢はみてくれは悪くないし、紳士的だし十分だと思うけど」
俺は苦笑いをした。
「ありがとう。一度会ってみる」
「そうこないと」
俺はなんだかんだあってその二人とそれぞれ会うことになった。
その後「どうしたんです」と浅田にとうとう聞かれてしまった。
「体調悪いんですか。それとも、何か企んでいるんですか」
「何でもない。俺を何だと思ってる」
彼女の顔をまともに見られない。
「なんか変です。いつもと違ってぎこちないっていうか」
「そんなことないだろう」
春川係長とのこと家に帰ったら聞いてみるか。
悶々としていてその日は仕事に身が入らなかった。
食事の途中でそれとなく切り出してみる。
「プライベートを詮索するのは誉められたことではない。答えたくなければいいが」
肉じゃがを口に運ぶ。
「あの、あーつまり」
「歯切れが悪いですね。はっきり言って下さい」
食事の際に口に出しにくい。
「あまり複数の男とそういう関係になるのはよくない。俺がとやかく言う立場ではないと重々承知しているが」
「なに言ってるんですか」
浅田が呆れた顔を向ける。
「俺は真剣に言っているんだ」
浅田は何も言わない。
「まぁいい。食事が冷めてしまう」
そのまま気まずい雰囲気が次の日も続いた。
「相沢係長がこの間、秘書課の杉山さんと歩いてたの見ましたよ」
「私も。とても仲良さそうだったよね」
昼食の時、隣のテーブルの後輩の言葉が耳に入る。
最近、家に帰っても妙に余所余所しくて変だった。
やっぱりそうだったんだ。相手がいたのに。
「お待たせしました」
影山ちゃんが目の前に座る。
影山ちゃんに話を聞かせないように私は僅かに大きな声で話した。
影山ちゃんは気にせずに一人でペラペラ話してくれた。
「ここのカレー美味しいですよね。個人的にはもっと辛くてもいいと思うんですよー」
小動物が嬉しそうにカレーに食いついている。
「こう見えて激辛いけるんです。カレーとか絶対に辛口ですもん。チゲ鍋とかキムチとか韓国料理なんかは特に。今度、新しく出来たビビンバ屋さん行きません?」
「いいね。私ちょっと辛いの苦手だけどビビンバは食べれる。冷麺とか美味しいよね」
彼女は嬉しそうに頷く。
「決まりですね。来週の土曜日に相沢さんと美術館に行くんです。ずっと好きだったルノワールの作品が日本に来るんです」
「楽しみだね」
私はグラグラと揺れている。影山ちゃんを応援してるのに、正直に言ってあげていいのか、本当に応援してるのか分からなくなってきた。
これは確めなくては。二人のために。
帰ると先に帰っていた相沢さんがお風呂を洗って、ハンバーグを作っていた。
「見た目によらず料理出来るんですね」
「大学でてからずっと一人暮らしだから長いが、料理はもっぱら出来ない。最近、調べて作るようになった」
フライパンの上でハンバーグが音を立てている。
部屋着に着替え戻るとテーブルには料理が並んでいた。
向かい合って黙々と食事を食べる。この前の気まずさが抜けず空気が悪い。
「彼女がいたのに、どうして言ってくれなかったんですか」
彼はふと顔を上げ眉間に皺を寄せた。
「仮にいたとして言う必要があるのか」
そんな言い方ある。
「彼女さんがいたならもっと慎重にすべきです。
私と同居なんてしていたら浮気になって、喧嘩になりかねないですし」
「第一君に報告する義務はない。ただの、同居人だからな。心配ご無用」
頭に血が上がってくる。
「そーですね。私はあくまでも他人で同居人ですからプライベートを詮索するのはおかしいですよね。ご馳走さまでした」
相沢さんもムスッとしている。
「それより、浅田に聞きたいことがあって。もしかして退職するのか」
どこからその話を聞いたんだろう。まだ春川係長にしか言ってないのに。
「貴方には関係ないですよね」
相沢さんは口をつぐんだ。私はお皿を洗うとそのまま風呂に入った。
どうしてあんなにムキになってしまったんだろう。
私のこと部下以上友人以上恋人未満くらいに思ってくれていると過信していた。
信頼されてないどころか、突っぱねられた。
風呂から出ると顔も見ず部屋に向かった。すると、扉の前で立ち塞がれた。
「ちょっと待ってくれ。冷静になれ。俺はそんなに気に障ることを言ったか」
真剣な眼差しが見下ろしている。
「ええ、私のあんな姿やこんな姿を見たことあるんですよね。あんなことしちゃった後で今更。最低」
押し退けて扉を開け部屋に入ると鍵を閉めた。
次の日に帰宅すると先に帰ったはずの浅田がいなかった。
一人で夕食をとったが、時計が十時を過ぎた頃になっても帰ってこない。もしかして家出か。
「ったくどこに行ったんだ」
友達の家か実家にでも帰ったんだろう。
「難しいやつだな」
同棲はしたことがないから分からなかったが、女性と生活するのってこんな感じなのか。
小さなため息が部屋に響く。
会社につくといつものままでちゃんと出勤をしている。
顔を合わせても事務的にしか話をしないし、顔も上げない。焦れったい。
おまけに五日間も家に帰っていない。
なんだか腹が立ってきた。
「彼女さんの浮気ですか」
部下の佐伯が笑っている。
「すごい不景気面ですよ」
「ん、分かってる。佐伯に聞いていいものか悩むんだが。部下であれ上司であれ女性が気難しいと思う。この前ちょっと怒られてさ、俺の何が悪かったんだろうと思って。」
珈琲を飲みながら頷く。
「相沢さんは言葉が足りないんですよ。ほら、いっつも簡潔すぎて伝わらないんですよ。基本はいつ、どこで、だれが、どうしたですよ。何をどうしてほしいのかを具体的に言うんです」
「そうなのか」
「例えば、雨が降ってる日だとしますね。何か会話をしたときに、相沢さんは『雨が降ってるだろう』みたいに言うんです。
それは答えにならないんです。
『雨が降ってるから早く帰ろう』とか『雨が降ってるから洗濯物を取り込んでほしい』とか「雨が降ってるから出掛けるのはやめよう」って言うんです。
愛してるも女性にとっては言ってもらわないといけないんです。言わなくても伝わってるは大間違いなんです」
さすがモテ男の佐伯 良幸。
「なるほど。ありがとう。参考にする」
そして今日も一人の部屋に帰る。
顔を洗って部屋に入ると出勤前と何か違う。テーブルの上のものが動いていたり、閉まっていたカーテンが僅かに開いていたり、浅田の部屋の扉に隙間が開いている。俺のいない間に荷物を持っていっている。
テレビを見ると今から大雨の予報が出ていた。
窓を見るとガラスに大粒の雨粒が当たる。寒くないだろうか。
ちょっとドライブに行こう。
キーを持って下に降りた。
車を走らせていると公園のベンチに座っている人影を見た。
そのまま通りすぎようとしたが気になって見た。
俯いている顔が上がった。浅田だった。
近くに車を止めて駆け寄った。なんて声をかけていいか分からず、横に立った。
「浅田、どうした」
髪と服が濡れている。顔を上げた瞳に涙が浮かんでいた。
「心配だった。本当に。こんな暗闇で危険だろう。寒くないか」
肩に上着をかけた。
「ほら帰ろう」
浅田は俺の手をとって立ち上がった。
家に帰る間も無言で部屋に入ると鍵をしっかりと閉めてしまった。
何で泣いていたのかは聞かないでおこう。
すぐに出てくると思ったが中々出てこない。
着替えているにしては時間がかかっている。部屋の扉の前に立った。
ノックの音がする。ベッドから立ち上がろうとすると「そのままでいい」と制止された。
扉の向こうから声がする。
「そんなに俺の顔が見たくないか」
いつもの強気なのとはうってかわって穏やかな声だ。
「なぁ。聞こえてるか分からないが、聞こえてたら少しだけ聞いてくれ」
耳を澄ませてみる。
「言い訳かもしれないが。君がいない間に気がついたことがあってだな。
俺は言葉が少ないかもしれない。伝えたいことを上手く伝えられなくて、いつもすれ違ってしまう。
ごめん」
そっちから謝ってくるなんて。
「こちらこそすみませんでした。私も意地を張ってしまって」
扉を開くと、肩を落とした相沢さんがいた。
私の顔を見ると気まずそうな顔を上げた。
「お腹がすきました。ご飯を食べましょう。話はそれからです」
二人で食卓を囲むのは一週間ぶりだった。
「浅田に言わなくてはいけないことがあってだな」
わざとらしい咳払いをした。
「きっと勘違いしていると思うが、俺と浅田の間には何もなかった。
あの朝、勘違いしてるのがわかって笑いを隠すのに必死で。
ちょっと意地悪をしたくなったんだ。
意識してドギマギしていた浅田を見ると正直、我慢できそうになかった」
目を伏せている。
「えっ、ひどい。考えすぎて損した」
睨み付けると相沢さんは笑った。
「浅田はその方がらしくていいぞ」
らしいって何よ。
「それより、相沢さんは影山ちゃんとご令嬢とどちらかはっきりして下さい。そんな態度は影山ちゃんに失礼ですよ」
「それは、今度のデートではっきりさせる。そんなことより」
「そんなこと?女の子にとっては大事なんですから」
「分かってる。ちゃんとする」
相沢さんは面倒くさそうに手を振った。
「退職するんだってな」
やっぱり何処かで聞いたのか。ビールをあおった。
「退職はしません」
相沢さんは動きを止めた。
「しないのか」
「ええ、副業として同時並行の方が効率も金銭面もいいからです」
心なしか安心したように見える。
「それとお見合いの話なんだが。決まりそうか。相手が見つかったら出ていくつもりなんだろう。子供がなんとかって」
お見合い?何の話か分からない。
「それは知りません」
面食らった様子だ。
「いや、だって春川係長と話をしていただろう。
聞くつもりはなかったんだが、子供がほしいとか、いい人ですねって」
「それですか。うちのショコラのお相手を探してるんですよ」
「ショコラ?」
首を捻っている。
「ずっと隠してたんですけど、ネコを飼ってるんです」
私は部屋の隅で寝ているショコラを抱き上げて連れてきた。
彼は猫を前に表情をほころばせた。
「お前は美人さんだな。ショコラっていうのか。一緒に生活しているのに気がつかなかった」
「ショコラはお利口さんだからですよ。ここのマンションはペット可ですから」
よしよしと猫を甘やかすいつもと違う顔を見る。
「猫好きなんですか」
「あぁ」
相沢さんになついて早速、膝の上で眠りだしたショコラを撫でる。
「ショコラ宜しくな」
ショコラはにゃーと小さく返事をした。
「えらいなショコラは。にゃー」
私を見てハッと顔を赤くした。萌えるじゃん。
俺にとって激動の一週間だった。
浅田は家出するし、浅田が猫を飼っていたと知った。
俺が勿論悪いのだけれど、勧められるまま令嬢とデートしたりして浅田に咎められた。
その間は影山夏実と1日一緒に居たわけだけれど。
その時のことを思い出していた。
カフェで珈琲を飲んでいた。そこが中々美味しい。
彼女は頬を染めて机の下から物を取り出した。
「相沢さんに似合うと思って」
それはマフラーだった。俺は受けとると礼を言った。
「ありがとう」
「気に入りましたか?」
彼女はキラキラとした瞳で見ている。確かに色もセンスも悪くない。
「うん」
「よかった」
彼女はその後、ペラペラと今週の予定を言った。
「ってことで。都合が悪いところは言ってくださいね。
それと、最後は私のお家デートはどうですか。本当は相沢さんの家に行きたいんですけど、浅田先輩と住んでいるらしいですからね」
彼女の口から皮肉が出てくるとは思わなかった。
元カノの上原は置いておいて、付き合って早々部屋に男を呼ぶのはいかがなものだろう。
「でも、俺を家に呼ぶのは早くないか」
「いいんです。お試しの一週間なんで。それと」
顔を見返すと彼女は首を振った。
「なんでもないです」
陰のある表情が気になったが、彼女はやっぱりいつもの笑顔で目の前のケーキを頬張った。
それから毎日、映画や遊園地、ショッピングに付き合いカフェで仕事の話をしたり、バーでお酒を飲んだ。
彼女は九時になるとキッチリと時間通りに帰った。
シンデレラのような何故だかそれにモヤモヤしていた。
彼女は毎日会いたいって言うのに別れるときはあっさりと踵を返す。
それが気になって、まるで俺が手玉に取られているみたいじゃないか。
明日で約束の一週間だ。
職場の帰りに一緒にスーパーで材料を買ってきて、家に帰る。
「お邪魔します」
「汚いですけど、どうぞ」
彼女はパンプスを脱ぐとスリッパを用意してくれた。
部屋に入ってみると綺麗にしていてベッドやソファ、カーテンなどの家具がピンクに統一されている。いかにも女の子の家だ。浅田とは大違い。
「まず、ご飯をつくりましょう」
キッチンに二人で立つと、以外にも影山さんが家庭的なんだと気づかされる。調味料は小分けにされていて、口はそれぞれ縛ってある。
髪を上に束ねると、いつもと印象が違う。
「料理得意なんです。あーん」
戸惑ってちょっと後ろに下がってしまう。
彼女は再度あーんを促した。今度は俺も食べた。
恥ずかしいような気まずい雰囲気になる。
「美味しいですか?」
彼女は照れながら聞いた。
「あ、うん。とっても」
「もうちょっと醤油を足しましょうか」
「このくらいでいいんじゃないか」
彼女は鍋に向かって聞こえるか聞こえないかくらいの声で一人呟いた。
「薄味が好き、と。これからは薄味で」
夕食を作り終えて二人でテーブルを囲む。
「いただきます」
野菜を切るのは手伝ったが、殆ど影山さんがやってくれた。思いの外家庭的だ。
「美味しい。料理が上手だな」
彼女は嬉しそうに頷いた。
「そう言ってくれて嬉しい」
他愛もない話をする。
「この間言っていた映画、この後見ましょう」
俺がこの間の昼におすすめしたホラー映画だ。
「いいけど、怖いよ」
彼女はちょっとだけ怯んだ。
「本当ですか。私、怖いの本当はとても苦手なんです」
「夜眠れなくなるかも。俺でも一週間不眠で」
彼女の顔が青ざめた。
「やっぱりやめましょうか」
どちらかと言えばB級かもしれない。ちょっとからかったのだけれど、彼女は真に受けた。
「嘘だよ。怖いとこは言ってあげるから。心配だな、隙が多すぎて変な男に捕まらないか。それに、すぐに騙されそうで」
「そんなことないですよ」
口を尖らせるのが不覚にも胸にドキリときた。
彼女が食べ終わった頃を見計らって言う。
「ご馳走様でした。お腹いっぱい。片付けは俺がやるからシンクに置いておいて」
彼女はモジモジとして言った。
「それなら、一緒にやりましょう」
一緒にってどうやるのか。首を傾げてシンクの前に立つと、腕とシンクの間に入った。
「このままお皿を洗って下さい。バックハグになるんで」
ふた回りは小柄な影山さんが入っても邪魔にならず、すっぽりとはまる。
「あったかい」
「そうだな」
彼女は遠慮がちに口ごもった。
「夏実って呼んで」
俺は決めかねていたというか、俺が部下に手を出してもいいものか悩んでいた。気持ちが分からない。嫌いかといえば、嫌いじゃないし。
好きかと言えば好きでもない。でも、女性として可愛いと思う。
理想の彼女ではある。職場では比較できるような社員がおらず断トツ。
でも、何だろうこれは。
「夏実、俺といてどうだった。正直に言ってくれて構わないから。結構ガッカリしただろう」
彼女はゆっくりと首を横に振った。
「そんなまさか。むしろ、もっと好きになりました。優しくて紳士的で」
「俺はそんな出来た奴ではないと分かっただろう。理想像とは程遠い」
お皿を洗う音が響く。
「自分が思っているよりずっと素敵です。さぁ、洗い物も終わったことだし映画見ますか」
二人で狭いソファに腰かけ、今流行りの動画配信サービスをつける。
隣にいると相手の息づかいまでもが聞こえてくる。
ふいに肩に頭が寄りかかった。
「やっぱり…言ってしまって」
映画のクライマックスシーンで音量が上がり、声がかき消される。
「重い女になりたくないんです」
ギュッと背中から抱き締められて、背中に顔が埋められている。
「やっぱり常に頭に浅田先輩がいて、浅田さんといると考えたら嫉妬しちゃって。付き合ってないのは知ってるんですが」
女の子の涙には弱い。
「嘘でもいいので愛してると言って下さい」
辺りを静寂が包み込む。
俺は口を開きかけてやめた。期待させるだけ残酷だ。
俺の中では答えが決まってきていた。
手が伸びてきて目を隠した。ひんやりとした小さな手が目を隠す。
心臓の音が聞こえる。
「こんなにドキドキしてるんです。心臓の音が聞こえますか」
「あぁ、確かに」
イケないことをしているみたいだ。
熱い息が耳にかかる。
「一つ先に進みましょう」
どさりと上に覆い被さられ、彼女が俺の上でぼんやりと見える。
テレビの音は単調でムードも何もない。
「その気で来ていない」
ここは非情だが、少し強気にでる。
「嘘」
日中のおしとやかで活発な印象とは違い妖艶だ。
「こういうのは良くない。後に戻れなくなる」
「いいんです。私は今日に懸けているんです」
俺は見上げてじっと見る。
「君は一夜の関係でいいのか」
彼女はちょっと考えた。俺は彼女の性質を薄々感づいていた。
首を傾げて様子を伺っている。
「影山さん本当は俺のことが好きじゃないんじゃない?」
「どういう意味ですか。私はこんなに好きなのに」
不服そうに頬を膨らませた。
「じゃあ、俺と付き合って後々プロポーズされたとして受け入れるか?風呂も一緒に入れるか?」
彼女は目に見えて狼狽えた。
「それとこれはっ」
「俺は影山さんのことは部下としか思っていない。気持ちは嬉しいけど付き合えない」
彼女は人のものが欲しくなる。
大方、うぶな浅田が俺のことを(いいか悪いか)話していてその輪の中に入って三角関係になりたかったんだろう。
俺と浅田が恋すると思えないから一か八かだけど。
「それが答えですか」
「うん。ごめん」
彼女はあっさりと頷いた。
「そうだろうと分かってました」
高いプライドが彼女を可愛くさせている。甘えている自分が可愛いと客観的に見ている。
「それでも、やっぱり一週間一緒にいると私のこと好きになると思ってた」
彼女は俺から降りると、ソファに座った。
肩を落とした姿を見ると少し胸が痛い。
「帰るよ。ご馳走さまでした」
気持ちばかりの材料費を置いていく。
「楽しかった。部下に逆戻りかぁ」
何故か彼女は笑っていた。
「その足で帰るんですね。私の家に来たことは浅田さんには内緒にするんですか」
「どっちでもいい。聞かれたら言う。やましいことは何もない」
重い扉を押して外に出た。
天気予報は雨、何故だか不穏な香りがした。
星占いも最下位で「新たな境地に立つとき。落ち込むことなく新しい恋を見つけるべし」
なによそれ。嫌な感じ。
出勤するといつも通りスーツを着こなし、年配の女性社員が手渡してきたお菓子を受け取る。
「猫の毛ついてますよ」
「最近、猫カフェにはまってて」
「猫好きなんですか」
「まぁ、ちょっと通ってるとこがあって。
その猫が本当に気ままで。怒ったり泣いたり、雨の日に逃げ出したり」
ショコラはいいこだから、そんなわけない。
「へぇお店の人も大変ですね。見つかったんですか」
「あぁ、見つかった。それはもう、いつも目が離せないな。
危なっかしくて、いついなくなるか。
手を焼かせるよ」
「やだー、本当にその猫ちゃんのこと好きなんですね。過保護なんだから」
彼は少し照れていた。
「そんなわけじゃないですから」
昨日は影山ちゃんとどうだったんだろう。
腹の底が重い。
朝から妙な胸騒ぎを覚えていた。
お母さんから急に連絡が来た。
おばあちゃんがもう長くないらしい。
明日には実家に戻らなければならない。
夕食のときに相澤さんに声をかけた。
「明日、外に一泊してきます。2日ぐらい帰れません」
「そうか。気を付けてな」
私は実家に住んでいた時は近くに住んでいたおばあちゃん家によく行っていて、とてもおばあちゃんが好きだった。小学生の時は毎日おばあちゃんの家でおやつを食べていた。
「車で送ろうか」
優しさが不自然に心を揺らす。
「本当ですか」
この優しさにすがりたいと思った。
「いいよ。どうせ明日は何もないし。
もし友人や相手に迷惑じゃないなら夕食も外で食べるか」
「ええ、ただの用事なので終われば夕食は帰りに一緒に食べましょう。運転の手間賃として夕食はおごりますから」
そして翌日、朝から車に乗せてもらい仕事以外では初めてのドライブだ。
「ここすごく景色がいいな」
理由は聞かないでいてくれるのか。
二人でレストランで昼食をとって片道二時間経過した。一つだけ心残りがあった。
「あの、不躾で申し訳ありませんが」
「なんだ、いつも不躾だろう」
彼は横目で私を見た。
「祖母が危篤なんです。今から祖母の家に行くんです」
相沢さんはゆっくりとした動きで珈琲を飲んだ。
「そんなことだろうと思っていた。ずっと浮かない顔していたから」
そんな私をみかねて車を出してくれたのか。
「それで」
「彼氏のふりをしてください」
相沢さんは苦い顔をした。
「俺がやったら嘘になるだろうが」
「優しい嘘はいいんです」
ふざけるなという目線を向けた。
「おばあちゃんを安心させたいんです」
「俺が行く意味はあるのか。それに、俺と恋人の設定にしてどこまで本当の俺でいいのか」
「恋人ってとこだけ嘘でいいです。
出身も仕事も全部本当のことなら嘘じゃないでしょ」
彼はやれやれと手を振った。
「それでお婆さんは喜ぶのか」
確かにおばあちゃんは喜んでくれるだろうか。黙り込んだ私の手を取った。
「わかった。嘘がばれてまずいことになったら全ての責任はお前がとれよ、いいな?」
私達はそれからおばあちゃんの家に向かった。
インターホンを押すと、先に来ていたお母さんが出迎えた。
「いらっしゃい。お隣は…ええと」
母は目を丸くした。それもそのはず、母に彼氏を連れてきたことはなかった。
「おばあちゃんはこっちよ」
挨拶もほとんど交わさず奥に入った。
「おばあちゃん、由佳が来たよ」
相沢さんはおばあちゃんを見るなり腰を下ろした。
「初めまして相沢渉です。由佳さんとお付き合いさせて頂いております」
「いい人だねえ、男前だししっかりしてるし。
どこで知り合ったんだいこんないい人」
おばあちゃんは微笑んだ。
「ええと、それは」
「会社の同僚なんです」
相沢さんが言って照れるまもなくおばあちゃんは話し始める。
「由佳もいい人がいてくれて良かった。結婚式に呼んでね」
お母さんも私の目にも涙が浮かぶ。
「もう、気が早いよ」
おばあちゃんに見せたくなくて、お茶をいれにいく。
「美味しいお菓子も持ってきたからお茶にしよう」
ポットでお湯を沸かしていると背後に立たれて、慌てて鼻水をすする。
「大丈夫か」
「大丈夫です。昼食一緒に食べたら帰りましょうか」
四人で昼食を食べた。別れ際おばあちゃんが言った。
「由佳を宜しくねぇ」
「はい。俺が由佳さんを幸せにします」
彼の横顔を眺めていた。
「由佳、ちょっといい」
お母さんに呼ばれて近所や親戚からもらった野菜や、家に置き忘れていた物を引き取った。
「おばあちゃんまた今度、遊びにくるからね」
「そうかい。また待ってるよ」
そういって部屋を出た。玄関までお母さんが見送ってくれた。
「また連絡してね。たまには貴方の様子も知りたいし」
「分かったよ、じゃあね」
相沢さんが会釈をしてお母さんにお礼を言った。
「今日はありがとうございました。また来ます」
それから車に向かう途中、暫く沈黙していたが思わず言葉が口からこぼれた。
「もう最期かもしれないんだ」
自然と私の視界がぼやけていく。
目の前に歩いていた相沢さんが振り返り、肩を貸してくれた。
「今日だけは泣いてもいい」
「こんな恥ずかしい姿見せたくありません」
「恥ずかしくなんてない」
遠慮がちに背中に手を伸ばされる。
「お婆さんお前に心配かけたくなくて、病気のことは内緒にしてずっと元気だって言っていたそうだ。
お前のことを悲しませたくなくて」
私が何か言おうとすると彼は頭をゆっくりと撫でた。
「優しい嘘はいいんだろう」
そうだった。私は暫く肩を借りて泣いた。
ひとしきり泣いて、夕食を食べに行くと彼はいつも通りだった。
「奢ってくれるんだったな。俺はお好み焼きがいいな」
「そういうところはちゃっかり覚えてるんですから」
部屋に帰ると、実家から帰省して未だに横にいることに新婚の気分だ。なんだか変な感じがする。
目の前に黄色いプリンが置かれる。
「これ」
「さっきサービスエリアで休憩した時に美味しそうだったから買った。長旅だったことだし、少し休憩するか」
こういう優しさがしみる。
「それより、もしばれてたらどうしたんです」
「あぁ、んーそうだな。例えば、結婚式挙げるか」
私が驚いて声をあげると、相沢さんはプリンを食べながら笑っていた。
「そんなに嫌なのか。地味に傷つく。冗談だ。
挙げるって言っても本気じゃないぞ」
「じゃなくて、責任とれって言ってたじゃないですか。それって」
「あぁ。失敗してたら、どうしてもらおうか」
ニヤニヤ笑う横顔を見ていた。
数日後、お母さんから連絡があった。
「由佳、この間はありがとね」
「どうしたの連絡なんて」
お母さんは少し躊躇いがちに言った。
「あれからおばあちゃんすっかり元気になっちゃって。診察のミスだったみたいでね、本当は何ともなかったのよ」
安堵のため息が漏れる。
「なんだ、良かった。安心した」
「それと実は彼氏じゃないんでしょ」
「お母さん知ってたの」
「そうよ。私を誰だと思ってるの」
「白状するけど、実は上司で」
「あら、やるわね。上司をこき使うとは。
お母さんも見たときにあれって思ったもの。
貴方の好みとはちょっと違うかなって。
しかもよそよそしい感じがして。
おばあちゃんもね、彼に「あの子は寝相が悪いから大変でしょう」って言ってみて反応を見たって言ってたわよ。
そしたら彼は困ったように笑ったみたいで、あれは付き合ってないなって分かった。
でも彼は貴方に好意はあるみたいよ」
お茶を吹き出した。
「なんでそうなるのよ」
「だって、彼は本当に貴方のこと考えて大切にしてるなって分かるもの。
慈愛とはちょっと違うわね。やっぱり好きなのよ」
紅潮する頬を押さえた。
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