ろくなオトコじゃありません

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 あたしと『彼女』の前に置かれた紅茶とコーヒーは完全に冷え切ってしまっていた。 「別れれば?」  あたしは4本目のタバコに火をつけて、ため息混じりに煙を吐き出した。軽いメンソールの香りが漂う白いカーテンが、テーブルを挟んで私の前に座る彼女と私の前を隔てる。お茶時のファミレスには不似合いなほど落ち込んだ彼女は、泣き腫らした目で俯いたまま時折鼻をすする以外は何も答えない。自分でもわかっているのだろう。パートナーとの喧嘩、というより一方的な暴力の訴えはこれで5度目で、あたしがいい加減うんざりしてしまっている事を。  その小さくてかわいい口元と、小動物のようにくりっとした目の端には、見るも無残な青い痣ができている。今日は長袖を着ているからわからないが、きっと体中に同じような痣があるに違いない。夏場の半そでだったときは、不健康なほど白い肌に、見るに耐えないほど無数の痣や火傷の跡があった。一番酷いときは肋骨を2本ほど折られて、病院の白いベッドで寝たきりだったこともある。私は病院に駆けつけた時初めて彼女のパートナーを見た。確かにちょっと気が強そうな感じがしたが、その時は点滴を受けるその傍らで謝罪し、ぼろぼろ泣いていた。それを許す顔が反吐が出そうなほど幸せそうだったのを思い出す。 「それ、世間でなんていうか知ってる? ドメスティックバイオレンスっていうの。配偶者間暴力。DV。前も言ったじゃないの」  あたしは聞き分けのない子供に訴えるように、一つ一つ語彙を区切って伝える。でも彼女には逆効果だったようで、身をすくめてまたぽろぽろと涙を流してしまう。こうなると泣き止むまで話なんてできないから、私はまた今のタバコを吸いきって、次のタバコに火をつけなきゃならない羽目になる。 「……あんた、趣味が悪いわよ」  5本目のタバコに火をつけたところで、あたしは独り言のように呟く。言っても彼女には届かない事を知っているからだ。実は出会うたびに口をすっぱくして毎回同じ事を言っているんである。 「でも、あたしがいないと、あの子、本当に駄目だから……今度こそ、駄目になってしまうから」 「『あたしがいないと駄目な人は、あたしがいたって駄目』よ。人間は自立しなきゃだめなの。あんただってわかるでしょう? あたしと一緒に心理学の学士とってんだから。人間はね、自分の自助能力を鍛えなきゃ駄目なのよ。それが苦しいことでもね」 「でも、『彼女』は、自分で自分を助けてあげられないよ」 「そう思ってるのは、あんたの自己満足じゃないの? え?! 武広!」  もういい加減いらいらして、思わずあたしは彼女を『本名』で呼んでしまった。もうその名前で彼女、いや彼を呼ぶ人間はそう多くないはずだ。『彼』が『彼女』になった日に両親から勘当を言い渡されていたし、殴られても蹴られても恋人についていく情けなさに愛想をつかせた旧友たちは櫛歯が抜け落ちるように彼の元を去ってしまったから。昔の彼を知っているのは、もう、あたしくらいなのだ。  あたしと武広の付き合いは、武広とその彼女の付き合いなんかよりずっと長い。幼稚園のときからクラスが違ったことがないのだ。その腐れ縁は彼が大学院をやめてしまうその時まで続いていた。  昔からセンチメンタルで、泣き虫で、痛々しいほど優しい男だった。彼女が「性転換したら付き合ってあげてもいい」と言ったから、下半身を『工事』してるかはともかく、外見だけは誰もが振り向くようなかわいい女になった。彼女が「稼いで来い」といったから、大学院を辞めて夜の2丁目で働くようになった。  いい加減気づけ。  それは愛じゃない。  明らかに彼女の行き過ぎた甘えだ。  そうは思うけれども、あたしはそれをはっきりと口に出したことはない。彼を介してだが、私は彼女の事情を知っているからだ。  彼女はかわいそうな人だった。実の両親に酷い虐待を受け、その心の傷を抱えたまま自滅的な生活をし、何度も自分の体を傷つけるような行為を続けていた。そんな彼女は確かに武広が言うように彼女自身で自分を助けてはあげられなかった。それだけの心理的基盤も、精神的強さも、そして知識も持ち合わせていないからだ。  武広は優しすぎて、彼女を放っておけなかった。昔からおとなしくて、あまり自発的に何事かをする男ではなかったが、高校になって初めて「カウンセラーになります」と自己主張した。頭だけは非常に良くって『末はノーベル科学者か?』 などと先生方が期待していただけに、その不可解かつ突拍子もないような進路選択は多少なりとも彼の周囲を困惑させた。彼を突き動かしたものが、彼女への愛だと知っているのもあたしぐらいなものだ。  だが、武広はカウンセラーにはなれなかった。盲目な彼の愛情は、彼女の甘えと癒着して、膿んでしまっていた。客観的に現実や自分たちを認識する力は二人にはなく、「あの人がいなければ駄目」というお互いの馴れ合いにどっぷりと漬かりこんでいた。それが双方を互いに食い合って、社会的には何も発展しないまま安定してしまっていることに、本人たちが恐れなくなってしまっていた。  そんな人間がどうなるか、先は見えている。  それはカウンセラーとして最も避けなくてはならない事態だった。 「そうかもしれない……でも、好きだから、いいんだ」  そう言って武広は少し微笑んでいた。かわいい口の端をきゅっと吊り上げて、少し嬉しそうに見えた。また自分の『どうしようもなさ』を諦めているようでもあり、抜けだせない地獄を悲しんでいるようにも見えた。  携帯電話が鳴った。ネズミ王国の電気パレードによく使われる例のやつだ。武広の携帯だった。武広はかわいいハンドバックからあわてて携帯を取り出すと、通話ボタンを押す。あたしを気遣うようにして小声で何かを話していた。相手が誰なのかなんて、聞かなくても判る。その一言一言たびに、武広の顔が花咲くようにかわいらしくなっていくからだ。  きっと相手は電話口の向こうで叫んだり、泣いたり、謝ったりしているのだろう。あたしならそんな相手は願い下げだが、武広は違う。大きくて、ねっとりとした母親の愛で、それら全てを許してしまうのだ。 「じゃあ、行くね」  携帯をたたんだ武広が席を立つ。彼が伝票を手にしようとするより早く、あたしは伝票を内ポケットにしまった。 「……葬式には、でっかい花輪をあげるわよ。愛に殉じた男、って賛辞をつけてね」  あたしの最大限の嫌味にも、困った顔だけして武広は去っていった。  あたしは6本目のタバコに火をつけて、深いため息と同時に煙を吐き出す。  武広、あんたはろくな男じゃない。 「……でも、それに30年近く惚れてるあたしが、一番ろくでなしよね……」  自分の馬鹿さかげんに、またため息が出る。  冷え切ったコーヒーを口にしたら、ひどく苦かった。
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