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忘れられない恋人
耀…… 耀……?
誰、その娘?
別れる、て
遊びだった、てそんな……
私、私は……!!
よ、う……
「───こ。響子」
耀?!
「目、醒めたか?」
「樹……」
急に見開いた瞳の前に彼がいた。
「魘されてたぞ」
何も身につけてない肌がじっとりと汗ばんでいる。首筋にべったりと張り付いている緩いウエーブの長い栗色の髪の毛。
「大丈夫。大丈夫よ」
滲んだ涙を彼に見られないよう、私は慌てて顔を背ける。
「珈琲でも飲むか?」
そんな私の態度に気づいているのかいないのか、彼はいつもと変わらない言葉を私にかける。
「カフェ・オ・レがいいな」
「おまえ甘え過ぎ」
そう言いながらも、彼は冷蔵庫からミルクを取り出している。
牛乳嫌いという彼がどうして180㎝にも近い長身なのか、いつもながら不思議に思う。
その広い背中を私は見つめる。
黒い裏起毛のLサイズのスウェットを履いた上から、紺色《ネイビー》のフリースパーカーを無造作に羽織っただけの姿で彼は、南向きのワンルームの明るいキッチンでてきぱきと私の好きなオ・レを作る。
そんな朝をもう何度迎えただろうか。
それなのに……。
「美味しい。樹も上手になったじゃない」
温かいミルクと珈琲の苦みがほどよくブレンドされたカフェ・オ・レ。両手の指で抱えるマグは冷え性の私には程よく熱く、そしてそのオ・レの味わいは極上だ。
樹の部屋で樹とふたり迎える朝に、それはとても良くマッチしている。
元々珈琲好きの樹だが、アレンジティーやカフェ・オ・レの作り方を手ほどきしたのは私。
彼は私のこだわりの複雑なレシピに難色を示していたものだが、最近になってようやく珈琲とミルクの割合が7:3のオ・レや、シナモン香るあくまで甘過ぎないチャイの作り方などを覚えたようだ。
カップは、私がこの前買ったばかりのペアのモーニングマグ。
グレーとピンクの地に黒文時の笑顔が描かれている白い陶器のスプーン付きのそれは、ピンク色のハートのトレーの上に仲良く二つ並んで腕を組んでいる。
そういうモノは死ぬほど恥ずかしいと言っていた彼だからこそ、気遣いが嬉しい。
「彼女が筋金入りのワガママ娘だからな。俺も苦労するよ」
フッ…と笑った彼の端正な口許は口角を微かに上げ、その黒い眼鏡越しの両の瞳で樹は確かに私だけを見つめている。
「……樹は。やさしいね」
ピンクのマグを握りしめながら呟いていた。
そうよ。いつだって樹は優しかった。
耀に裏切られた時も、樹の信頼を踏みにじったあの夜さえも、樹は私を受け入れてくれた。
それなのに──────
「響子?」
「あ、うん。今日はもう帰る」
私は、オ・レを飲み干して淡いラヴェンダー色の下着を身につけ始めた。お揃いの上下とキャミソールで二万円近いそれは私の最近のお気に入りで、樹の部屋に泊まる時には好んでよく着ていく一枚。
80デニールの黒いタイツに、中学時代から硬式テニスで鍛え引き締めた脚を通す。グレーのシフォンプリーツスカートを履くと、オフホワイトのカシミヤのVネックセーターの首元から細面の顔を出した。
歯を磨き、顔を洗う。そして、手早くメイクを施す。
歯ブラシも基礎化粧品は勿論、簡単なメイク道具も置いているので、樹の部屋に泊まる時のストレスは少ない。
「朝飯食ってかないのか?」
樹が、焼けたばかりの四枚切りの厚切りトーストに彼の故郷の北海道バターを塗りながら、私に尋ねた。ほんの僅かなひとときの間に、ふんわり黄色のスクランブルエッグと赤いプチトマトが、色あい良く白いシンプルなプレートの上に乗っている。
「言ったでしょ、ダイエット中」
「お前、それ以上痩せてどうすんだよ」
樹が本気で心配している。
「綺麗でいたいのよ。樹の為に」
にっこりと艶やかに微笑むとその言葉を残して、私は樹の部屋を後にした。
◇◆◇
どうして、耀の夢なんか見るんだろう。
もうとっくに忘れた筈だ。
それは、痛ましいだけの過去の残骸。
でも。
でも、好きだった。
好きだった。好きだった。好きだった。
この想いを持て余している。
いつも最後に行き着く答は、そこだ。
理屈じゃない。
樹と結ばれて、癒されて、平穏な幸せな日々の狭間で、私は常に耀との過去を反芻している。
それは、咀嚼しても咀嚼しても噛み切ることのできない、極めて不味く質の悪い外国産の肉をずっと口の中に頬張っている感覚によく似ている。
ごめん、樹……。
それを思うと不意にこみ上げてくる。
パタパタと涙が音を立てて、落ちた。
身を吹き飛ばすかのように囂々と十一月の木枯らし吹き荒ぶ中、私は泣き濡れながらいつまでもその場に立ち尽くしていた。
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