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振り払えない手
それから一カ月余りが過ぎた。
私は、心のどこかに一年も前に別れた耀のことがひっかかり、樹のことを想うと胸が痛む日々が続いていた。
樹は相変わらず優しい。
彼の暖かい腕に抱かれながら、心は耀のことを考えている自分を私は持て余すだけだった。
そんなクリスマスも近い十二月の或る夕暮れ。
華やかなイルミネーション煌く大通りを心浮き立つこのホリディシーズン彩る服や雑貨など何気にウィンドウショッピングを楽しみながら歩いていたら、突然、背後から大きなクラクションが鳴った。
ビックリして振り返る。
すると──────
「響子」
「……よ、耀」
そこには、真っ赤なマツダロードスターに乗った紛れもない、あの耀が窓から顔を覗かせていたのだ……!
あれは……去年の夏、耀と一緒によくドライブしていたあの赤いオープンカー……。
一瞬にして、様々な記憶が蘇る。
灼熱の夏、南の海辺での出逢い。
海より青いサファイヤののピアスを身に着けて耀に抱かれた初めての夜。
そして訪れた突然の別れ……。
そんな忌まわしい記憶にふるふると頭を振る私に、
「久しぶりじゃないか。ぞくぞくする美人ぶりは変わらないな」
と、耀の軽口こそ相変わらずだった。
私は、とっさに踵を返した。
「そうつれなくしなくてもいいだろ」
「は、離して!」
車から降りてきた耀に後ろ手を取られたのだ。
「飯でもどう?」
「ごめんだわ」
「あの時は悪かったよ」
耀は、口調を柔らかくして言った。
「積もる話もあるじゃないか」
「私は何もない」
「そうとがるなよ。とりま飯、行こう」
付き合っていた頃と同じように、耀は有無を言わせなかった。
樹と同じか、やや高い長身。
まるで無駄のない薄い筋肉質の躰。
流行を押さえたファッションとそれが絶妙によく似合う雰囲気。
どこか男の色香を感じさせるその甘い表情。
何より、そのフェイスで笑いかけられると私は、視線が釘付けになる。
どれもこれも一年前のあの頃と変わらない。
私は……。
過去の想い出の幻影に眩みながら、私は知らず耀に従っていた。
◇◆◇
耀とよく通っていたイタリアンリストランテ「ルカ・ラッセ」での私の盛り上がらない気分とは裏腹に、耀は終始機嫌が良かった。
「君と一年ぶりに逢ったんだ。車でないならドンペリニョン空けてるんだけどな」
不承不承という感じで耀は、ペリエのグラスに口をつける。
モッツァレラチーズとトマトのサラダの前菜カプレーゼが済み、バジルの葉やオリーブオイルを混ぜて作られる緑色のソースで和えたジェノベーゼのパスタを前に、私はまるで一年前のあの頃に戻ったような錯覚にすら囚われている。
違う。
違う。
耀とは、もう……!
ぐるぐると渦巻く思考の波に記憶の破片を馳せながら、私はただ翻弄され苛まされる。
「響子、どうした?」
耀がようやく私の異変に気付き、ナイフとフォークの手を止め、訝しんだ。
「もう出ましょう……」
食後のドルチェもエスプレッソも待たずに、メインの私の好きな仔牛の煮込み肉料理にすらほとんど手をつけないまま、私はふらつきながら席を立った。
「おい。響子! 待てよ」
一人先に店を出た私を、慌ただしく支払いを済ませ追いかけてきた耀が、脇から支える。
しかし──────
「このまま帰る気はないよな?」
「え……?」
耀は私の右腕をぐいと強引に掴むと、横道へと一筋逸れ、入り組んだ暗い裏路地へと入っていく。
「ちょ、ちょっと! どこ行くのよ?」
「決まってるだろ、いつものコースさ」
そうして、耀はラブホへと私を連れ込んだのだ。
「冗談じゃないわ!」
私は、必死で耀の手を振り払おうとした。
しかし、男の耀の力は強く、その言葉も抱き方も手練手管は実に巧妙だった。
「響子。俺、今、一人なんだよ。淋しいんだよ。思えば、君と付き合ってた頃は楽しかったって後悔してるよ」
耀が耳元で囁いてくる。
その甘く鼻にかかるようなハスキーボイス。
またくらくらと過去の甘い陶酔に誘われそうになりながら私は、尚必死で最後の理性に自分を呼び戻そうとする。
全部、全部嘘っぱちだ。
耀の言うことなんて!
わかっているのに……。
でも、私は結局、耀の手を振り払えなかった。
そうして私は、奈落への扉を自ら開けたのだ。
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