《131》

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 “で、あるか”。眼前の信長が言って白い歯を見せた。泰平の世。笑顔と笑い声に満ちた世。そんな世界を娘、珠と二人で歩いてみたかった。私の望みは、ただそれだけだったのだ。  光秀は覚醒した。辺りが暗い。夜になっていった。闇の中を自分の足で走っていた。両肩を徒に支えられている。自分の体を見た。所々、具足が割れ、ひどい状態だった。 「脱したのか」 光秀はぽつりと呟いた。前を走っていた秀満が振り返った。 「まだです」 秀満が言った。 「何度も追手に襲われております」  光秀は周囲を見た。回りに付き従う者の数は十人を少し越える程度になっていた。 「ここは、どの辺りだ」 光秀は左右に拡がる水田を眺め、秀満に訊いた。 「小栗栖まで来ました」 足を止めず、秀満が応える。 「朝になる頃には随分と坂本に近づけるかと思われます。決して、あきらめてはなりませんぞ。柴田勝家に備えている兵がまだ2万いるのです。あの一隊を坂本に集結させれば、充分秀吉と戦えます」 「まだ、戦いが続くのか」 力無い声で光秀が言うと、闇の中で秀満の頬が光った。 「もう、疲れ果ててしまわれたのか」 秀満の声が詰まった。光秀は秀満に掛ける言葉を無言のまま捜した。突如として、秀満の体が横に倒れた。光秀は立ち止まった。前方、竹藪の中から、ぞろりと人影が現れた。10人、20人と、影が増えていく。落武者狩りの農民たちだろう。手にはそれぞれ槍らしき得物が握られている。 「ここまでか」 光秀は人影を見回し、言った。足下、月明かりに蒼白く照らされた秀満の屍体が転がっている。ふいに、光秀の左の脇腹に何かが突き刺さってきた。農民の一人が槍を伸ばしてきたのだ。
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