《110》

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 生前、信康が居館として使っていた屋敷である。岡崎城の城代となった、石川数正を初めとした岡崎衆、浜松からも酒井忠次、本多忠勝ら、家臣のほぼ全員が顔を揃えている。板戸が開け放たれ、廊下にまで人が溢れている。広間はかなり窮屈に感じられた。  徳川家康は厳かな気持ちで正面をじっと見据えた。四角い桐箱が板床の上に置かれている。安土に出向いていた信康が帰還したのだ。 織田の使者が恭しい手つきで桐箱の蓋を開けた。中から白い布の包みが取り出され、板の上に置かれた。布が解かれる。首だけになった信康が姿を現した。家臣の人溜まりからいくつもの呻きとすすり泣く声が聞こえてきた。  小さくなってしまったな、信康。家康は内心で信康に語りかけた。信康は穏やかな表情を浮かべている。少し、笑っているようにも見える。 信康が腹を切った日から何度涙を堪えただろう。数えきれない。危なかったのだ。織田と戦おうと家康を含めた皆で声高に言い合った。高揚の中に気をごまかしていたが、本当に危なかった。今、織田信長と敵対などしていたら、徳川家は間違いなく滅んでいた。それを信康が救った。自らの腹を切る事で徳川織田同盟の崩壊を阻止したのだ。命を張って家を守った信康の事を家康は誇りに思う。  信康の絶命後、家康は自らの手でその首を落とし、信長に送った。使者が信長の書状を読み上げている。嫡男を失った家康への哀悼の言葉、これから先、より絆を深めていこうという口上などが並べられている。家康の全身に憤怒が駆け巡る。織田の使者に斬りかかりたい衝動を堪えていた。信康の死を犬死にするわけにはいかない。
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