英人の手紙

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英人の手紙

俺はシングルベッドに横になり、ボーッと部屋を眺めていた。 家具はシンプルなものでまとめられているが、棚の上と枕元には熊のぬいぐるみが置かれている。 他にも棚の上には、数本のネックレスが木の形をしたアクセサリー置きにかけられていて、キラキラと綺麗に光っていた。 もう何度も見ている、見慣れた風景。 「おまたせ」 シャワーを浴びた美香さんが、バスルームの方から現れる。 モコモコした手触りのいいパーカーに、同じ生地のショートパンツ姿。 肩まである髪は、ドライヤーが甘いのかまだしっとりと濡れているようだった。 これも見慣れた姿だ。 美香さんがベッドに近付くと、俺はその腕をそっと引き寄せた。 「…血が出てる」 「え?ああ…」 美香さんの右肘下には擦り傷があり、そこから血が滲んでいた。 「新しいね」 美香さんの傷は、そこだけではなかった。 他にも擦り傷や、紫から黄色っぽくなって治りかけているアザなんかが、手足だけでもいくつか見える。 「…昨日、ちょっとまたひどくて…」 美香さんは目を伏せて、でも少し笑っているような、困ったような顔を見せた。 「ちょっと待ってて」 ベッドに腰かけた美香さんの横をすり抜けて、俺はベッドから降りた。 部屋の端に置いたショルダーバックの中を、ガサガサと探る。 「あった」 俺は少しくたびれた絆創膏を取り出すと、紙を剥いて美香さんの隣に座った。 「…これでよし」 擦り傷に絆創膏を貼って、痛々しい赤をとりあえず隠し込む。 血は、見ているだけで人を辛い気持ちにさせる気がする。と、俺は思う。 「…ありがと。いつも絆創膏なんて持ち歩いてるの?」 「いや、この前バイトで火傷しちゃって。もう治ったけどね、その時の残り」 俺は手首に残った小さな火傷の痕を見せた。 「英人君、カフェでバイトしてるって言ってたもんね」 「うん。カフェというか喫茶店って感じだけどね。便箋や封筒がいっぱい置いてあって、手紙が書けるお店なんだ」 俺はアルバイトを二個掛け持ちしている。 一つは手紙喫茶つみきのウェイター。 もう一つは── 「へぇ。手紙なんて、今どき書く人いるのかなあ」 「それが案外、いるんだよ」 美香さんはたいして興味がなさそうに、へえ、ともう一度息を吐いた。 「でもカバンから絆創膏が出てくる男子なんて、モテそうだよね」 ふふ、と美香さんが笑う。 「だといいんだけど」 笑顔で返事をしながら、俺はベッドの奥、壁側に寝転んだ。 「寝よっか」 そう誘うと、美香さんはするりと俺の隣に滑り込んだ。 俺はその上から、掛け布団をふわりとかける。 お風呂上がりの美香さんの身体は、まるでカイロのように温かく心地良い。 それは美香さんも同じなようで、ふぅ、と気持ちよさそうに息を漏らした。 「…彼、また仕事で嫌なことがあったらしくてさ」 「うん」 美香さんは絆創膏の上からぎゅっと腕を握り締め、ポツリポツリと話はじめる。 「ストレスが多いんだよ、私たちと違って社会人だし」 「うん、そうだろうね」 (だからって暴力をふるう理由にはならないけど) 「それにね、普段は優しいところもあるの。この前なんてアニメ観て涙ぐんでたし」 「へえ、そうなんだ」 (アニメには共感できても、そばにいる女の子の痛みはわからないんだな) 「…暴力さえなければ、いい人なの」 「…うん」 それは、暴力がある地点でもういい人ではないんだよ。と思ったが、もちろん声には出さなかった。 「……」 美香さんが静かに目を閉じる。 「…おやすみ」 布団に包まれた柔らかな世界の中は、二人の体温で心地よい温かさを保っている。 小さな寝息を聴きながら、俺もゆっくり目を閉じた。 ────────────────── 「おはよう」 美香さんがゆっくり目を開けて、少し眠そうに目を細める。 俺は枕に肩肘をつきながら、その様子を眺めていた。 「…おはよ」 「今日もよく寝た…ほんと不思議なくらい眠れるんだよね、英人君の隣だと」 「それはよかった」 それは俺も同じだった。 ただ違うのは、俺の場合、相手が美香さんでなくても大丈夫ということだ。 美香さんは気怠そうに起き上がると、洗面所に向かいかけ、途中でくるりと振り返った。 「あ、そうだ。今週の土曜って、もう予約ある?」 「いや、土曜はフリーだよ」 「よかった。金曜の夜、彼と会うことになって…今週の土曜もお願い」 そう言って美香さんは、チェストの上に置いてある財布から500円玉を取り出し、俺に差し出した。 「先払いしとく」 「…どうも」 俺は500円を受け取り、パジャマ代わりに着ていたパーカーのポケットにしまう。 そう、これが俺のもう一つのアルバイト、『添い寝屋』だ。 添い寝屋のルールは三つだけ。 ①朝まで添い寝し、朝は相手より先にベッドを出ないこと ②スキンシップはハグまで ③一晩500円 このアルバイトを始めるときによく考え、シンプルなルールを設定した。 人がそばにいる。 それだけで、ぐっすり眠れることもある。 皆そうではないと思うけど、少なくとも俺はそうだし、一定数そういう人がいるからこのバイトが成り立っている。 俺は極度の不眠症だ。 朝まで眠れないことも少なくないし、眠っても眠りが浅く、たびたび目覚めてしまう。 そしてそういう時は、大抵嫌な夢を見るものだ。 過去に彼女ができたときに、彼女と一緒に眠る夜だけよく眠れることに気がついた。 その時は彼女のことが本気で好きだからだと思い、愛の力に感動した。 でもそのうちに、愛と睡眠は別物だということに気がついた。 泊まりにきた男友達でも、酔っ払いの雑魚寝でも、俺はとにかく誰かがいれば眠れるようだった。 だからといって男友達に毎晩一緒に眠ってくれとは言えないし、眠るために一晩限りの女の子を探すようなこともしたくない。 だから彼女と別れてからは、また不眠症に逆戻りだった。 そんな時、俺は瑞稀に出会った。 彼女は誰もいない大学の中庭で、空を見上げて泣いていた。 その日は雪が降っていて、涙なのか雪なのかわからず、俺は彼女の顔をしばらく眺めていた。 ただ、悲しんでいるということだけは明白だった。 女の人は笑っているほうがいい。 女の人は、幸せなほうがいい。 俺はいつもそう思う。 だから知ってしまった以上、彼女が負った傷を少しでも癒してやりたかった。 毎日中庭に通い、世間話や面白い話(多分面白かったと思う)をした。 スイーツが美味しいと噂のカフェに連れ出したりもしたけど、瑞稀が見せるのは「表向き」の綺麗な笑顔だけだった。 でも毎日のように同じ時間を過ごすうちに、俺たちは「なじんで」いた。 他人がそばにいるときに感じるちょっとした違和感や緊張感が、2人の間からはもう感じられなかった。 それはおそらく瑞稀も同じだったのだろう。 ある日、こんなことを言い出した。 「英人、今日一緒に寝てくれない?」 一瞬驚いて、言葉に詰まった。 顔に出してないつもりだったけど、もしかしたら間抜けな顔をしていたかもしれない。 恋愛感情─があるような顔に見えなかった。 驚くほどいつも通りの瑞稀で、淡々とした言い方だった。 心拍数なんて1ミリも上がっていないという顔をしていた。 でも瑞稀の真意がなんであれ、断る気は1ミリもなかった。 瑞稀が初めて俺にお願いをしてくれた。 それにはきっと意味があるし、応えてやりたいと思ったからだ。 「…いいよ」 その日俺は、初めて瑞稀の部屋へ行った。 イメージ通り、最低限のものしかないシンプルな部屋だった。 二人ともお風呂を済ませると、さすがに俺の方にも少し緊張感が走った。 (これは…どう振る舞うのが正解なんだ…?) 瑞稀を傷つけたくない。 それだけは一貫していた。 「さ、寝よう」 そんな俺の考えをよそに、瑞稀はすいっとベッドへ入った。 「おいでよ、隣」 「あ、うん」 隣にお邪魔すると、瑞稀はいつもと違ってシャンプーがボディソープの香りがした。 俺も同じのを借りたのだから、きっと俺からも同じ香りがしているのだろう、とどうでもいいことを考えた。 「私ね、夜あんまり眠れないの」 天井を見つめながら、瑞稀がつぶやいた。 「そうなの?」 「…でもなんか、英人とだったら眠れるかなって、ふと思ったんだ」 「いきなりごめんね」 「いや、全然いいよ。わかるよ、なんとなく」 そのときにはもう、変な緊張感は消えていた。 いつもの、当たり前にそばにいる「ふたり」だった。 次の朝、瑞稀はよく眠れた、といって笑った。 俺ももちろん同じだ。 それからは、瑞稀から誘われるたび、二人で眠るようになった。 眠る前の静かさの中で、瑞稀は少しずつ自分のことを話しはじめた。 自分にひどく依存する母親から逃げて、一人暮らしを始めたこと。 母親を捨てたことが、正しかったのかずっと迷っているということ… 「…家族って、なんなんだろうね」 「他人の英人と一緒にいる方が、こんなに安らぐなんてね」 そう言った瑞稀の言葉は、今も心に残っている。 家族が必ずしも、自分の癒しや力になってくれるとは限らない。 深い繋がりがあるからこそ、それだけ重い荷物にもなり得てしまうのだ。 一緒に眠るたび、瑞稀は元気を取り戻していくように見えた。 それは俺にとって、不思議な体験だった。 たくさん話したり、出かけたり、あの手この手で元気づけても、瑞稀の奥には響かなかった。 ただ隣で眠る。 その方が、よほど瑞稀の心に水を与えているようだった。 (…そうか。傷の中身を、無理矢理覗く必要なんてないんだ) そんなことをしなくても、心を癒す方法はある。 どんな形の傷かは関係ない。 よく食べ、よく眠り、朝を迎えれば、人の身体は元気になる。 体が元気になれば、心が健やかになる。 すっきりした心と頭で考えれば、きっと以前とは違った答えが導き出せるかもしれないのだ。 それから三ヶ月くらい経ったころには、瑞稀から添い寝の誘いがくることはなくなった。 中庭に一人でいる姿もなくなったある日、俺は偶然渡り廊下で瑞稀を見かけた。 女の子たちと話していた瑞稀の弾ける笑顔には、雪よりも太陽の輝く光がよく似合っていた。 (ほらやっぱり、女の子は笑ってる方がいい) 空を見上げると、絵の具で塗ったような青色だった。 瑞稀との日々がきっかけで、俺は「添い寝屋」を始めることにしたのだ。 アルバイトと言っても宣伝しているわけではないから、お客さんは口コミで来てくれた人だけだ。 美香さんも、瑞稀から聞いたようだった。 「じゃ、また土曜ね」 「うん、また土曜に 」 身支度を済ませた俺は、そう言って美香さんの家を後にした。 アパートの階段を降りながら、空を見上げる。 (今日も晴天!) よく眠った後の朝日は、気持ちがいい。 ふと、美香さんの右腕にあった傷を思い出す。 美香さんと初めて添い寝をしてから、もう4ヶ月ほどが過ぎた。 (…美香さんが、一人でもゆっくり眠れる日が来るといいのにな) でもお客さんが減ると、自分の睡眠が危ういのだけれど。 そう思って、ふ、と笑いがこみ上げ、でもやっぱり、彼女のモヤが晴れるといいと願った。 「いらっしゃいま…」 カランカラン、というドアの鐘を聴いて、そう言いかけた言葉を俺は飲み込んだ。 「美香さん」 「や!来ちゃった!」 美香さんは明るい声でそう言うと、俺に歩み寄った。 肩が出る寒そうなセーターに、メンズライクなジャケットを羽織っている。 コンパクトなミニスカートもオシャレだけど、やっばり寒そうだと思った。 どことなくおぼつかない足取りでカウンターまで来ると、笑顔で椅子に腰掛ける。 「いらっしゃいませ。英人君のお友達さん?」 カウンターの中にいた透子さんが、彼女と俺を交互に見て問う。 「あ、はい、同じ大学で」 「初めまして!ここいい雰囲気ですね〜!なんかレトロなかんじ!」 俺の言葉にかぶせる勢いでそう言うと、美香さんは店内を見回した。 「…お酒飲んでる?」 「ちょっとね!」 美香さんはいつも、どちらかといえば無口な方だ。 いや、無口、というよりは、余計なことを話さないと言った方がしっくりくる。 ユーモアもあるし話していて退屈はしないけど、言葉をきちんと選んで、必要なことだけ話している感じがある。 今日みたいな美香さんは、俺にとって初めてだった。 「遅くまで開いてるんだねえ、ここ」 「もう閉めるところだよ」 「だから誰もお客さんいないのかあ」 美香さんはアハハ、とおかしそうに笑う。 「もしよかったら、何か飲んで行ってください。外は寒かったでしょう」 透子さんがそう言うと、美香さんはほんの一瞬、泣きそうな顔をしたように見えた。 「じゃあお言葉に甘えて…ホットミルクティーください!」 「かしこまりました」 透子さんが茶葉の入った缶に手を伸ばし、俺はさっき片付けた角砂糖入りの陶器をカウンターに出した。 「あ、そうだ英人君!今日って予約空いてる?」 美香さんの一言で、俺はすっと息を飲んだ。 缶を開けようとした透子さんの手が、一瞬止まったのを俺は見逃さなかった。 「あ、えっと──」 「英人君、アッサムの茶葉が少ないみたい。補充してくるから、後お願いできる?」 「あ、はい!」 透子さんはそう言うと、店の裏へ姿を消した。 透子さんは、そういう人だ。 人の心に敏感で、でも不用意に踏み込んだりしない。 「…添い寝屋のバイトは、秘密だった?」 美香さんは、わざとらしく声を潜めた。 「…まあ、内容的におおっぴらにはしてないよ。変に思う人もいるだろうし」 でも透子さんは、きっと添い寝屋をしていることを知っても、悪い風にはとらないだろうと俺は思う。 (…でもなんとなく、知られたくない) つみきは、俺の聖域なのかもしれない。 ここに来れば、心が落ち着く。 ここに漂う、外の世界から取り残されたような空気が俺は好きだった。 「さっきの人って店長さん?綺麗な人だよね。狙ってたりするの?」 悪戯っぽく笑って、美香さんはそう言った。 「…だいぶ飲んでるね」 俺は茶葉の入ったポットにお湯を注ぎながら答える。 「そりゃあ飲んでるよ、二時間も待ちぼうけだったんだから」 「え?」 「…今日さ、夕方急に彼から連絡あって、今夜会おうって」 「なのに待ち合わせ場所に行っても、全然来ないの。一時間待っても、二時間待っても。スマホも繋がらなくてさー」 「…うん」 「で、目の前に居酒屋あったから、一人で入って飲んじゃった!だって寒いんだもん」 「結局さっき連絡きてさ、疲れて寝てたからまた今度、だってさ」 そう言って美香さんは、力なく笑った。 「…はい、ミルクティーお待たせしました。あたたまるよ」 俺は淹れたてのミルクティーを、美香さんの前に置いた。 イギリスで勉強した透子さんほどじゃないが、その透子さんに淹れ方を教えてもらった紅茶の味には、わりと自信があった。 でも美香さんはミルクティーから立ち上がる湯気を眺めるだけで、いっこうに口にしようとしない。 「…他に女でもいるのかな」 湯気の向こうで、美香さんの瞳がゆらりと揺れる。 熱い飲み物から立ち上がる湯気には、確かに目を奪われるものだ。 俺もよく、透子さんがサイフォンでコーヒーを淹れるときに、その湯気をじっと眺めていることがある。 ゆらりゆらりと形を変え、薄くなったり濃くなったりしながらうねり、登って、消える。 その様子は、いつまでも見ていられるような気さえする。 美香さんも、ぼーっとミルクティーの湯気に目をやっている。 (温かいうちに飲んでほしいとは思うけど…こういう紅茶の楽しみ方もアリかもな…?) でも今の美香さんには、立ち上がる湯気でさえ不安の象徴のように見えているのかもしれない。 「…美香さん、手紙書いてみたら?」 「え?」 現実に戻ったような顔で、美香さんはマヌケな声を出した。 「ここ、手紙喫茶だからさ。便箋と封筒はタダで配るくらいあるんだ。筆記用具もね」 俺は壁際の棚に並んだ、便箋たちを指差す。 「…手紙って、まさか彼に?そんなの、引かれるだけだよ」 「渡せたら一番いいけどさ、渡さなくてもいいんだよ」 「…どういうこと?」 「書くことに意味があるんだ。だからここには、出せない手紙を入れるブラックホールもある」 「……」 「…俺もたまに書くんだよね。ブラックホール行きだけど」 美香さんは何か考えるように黙り込み、もう消えかかっているミルクティーの湯気に目をやる。 「…英人君は、なんで眠れないの?手紙を出したい相手と相手と関係ある?」 突然の質問に、俺はほんの一瞬戸惑った。 やっぱり今日の美香さんは、だいぶ酔っている。 「俺、眠れないとか言ったことあったっけ?」 「ううん。でも大学で、いつも眠そうにしてたから。講義中も休み時間も、いっつもウトウトしてるでしょ」 「…よく見てるね」 そんなことを見られていると思っていなかったので、正直ちょっと驚いた。 「そりゃね、あの子の紹介だから信頼はしてたけど、一人暮らしの家に入れるわけだし…初めてお願いする前は、ちょっと観察してたの」 「眠そうな顔ばっかりだったけどね」 そう言って美香さんは、おかしそうに笑った。 「…なるほど」 「でも私と添い寝してくれた次の朝は、なんだかスッキリした顔してるからさ」 「……」 「添い寝屋のバイトも、500円が欲しいわけじゃないでしょ?そこまでお金に困ってなさそうだし」 美香さんは悪戯っぽく笑って、俺を見上げる。 俺も笑顔を返した。 美香さんの言う通りだ。 添い寝は俺にもメリットがあるから、別にお金なんてもらわなくてもかまわない。 それでもお金を取るのは、つまり俺が、健全な男子大学生だからだ。 可愛い女の子のショートパンツから伸びるスラリとした脚を見れば、それなりにドキッとする。 それがお風呂上がりの濡れ髪ときたら、なおさらだ。 わずかでもお金を取ることで、「お客さん」という線引きができる。 いわば500円は、俺への戒めだ。 「…ちょっと待ってて。店が冷えてきたね」 そういうと俺はその場を離れ、入り口近家のカゴに入ったブランケットを取ってきた。 「はい、掛けておいて」 美香さんはありがとう、と言ってそれを膝に広げる。 「いつも眠いのは、小説を書いてるからだよ。夜の方が捗るんだ。手紙の相手は内緒だけど、秘めた恋とかそういうロマンチックなことでもないよ」 ふ、と笑うと、美香さんもふふ、と笑った。 「手紙、書いてみる?」 「…うーん、手紙もいいけど、私はもっとわかりやすい温もりの方がいいな」 美香さんは甘えるように、俺を見上げた。 「…また、そうやって誤解を招くようなことを」 困ったように言うと、美香さんはアハハ!と声を出して笑った。 店に入ってきた時よりは、少し元気になっている気がする。 この店は、そういう店だ。 「閉店作業したら帰れるから、紅茶飲んで待っててよ。今日は予約空いてるから」 「よかった」 俺は台拭きを持って窓際の席に向かい、テーブルを吹き始めた。 「…あ」 視界の中で何かがはらりと落ち、顔を上げると、窓の外にはちらほら雪が舞っていた。 音もなくふらふらと揺れ落ちる雪は、少し湯気に似ているかもしれない。 それでいて、全然違う。 雪は俺にとって、冷たく、何か底知れない恐ろしさのあるものだった。 (…あの日は、もっと大雪だったな) 俺が7歳だったあの日の夜、突然、母さんが俺の布団に入ってきた。 最低限の衣食住は提供されていたが、いつも俺に関心がないようだった母さん。 俺が覚えている母さんの顔は、ほとんどが横顔だった。 母さんが俺と一緒に眠ることなんてなかったのに、その日はなぜか、俺の隣に寝転んだ。 母さんがそのまま何も言わないもんだから、俺も何も言えなかった。 何か一言でも言葉を発したら、この時間は終わってしまうんじゃないかと思った。 母さんの方を見ることもできず、ただ俺は天井を見つめながら、左隣から伝わってくる温かさに集中した。 なかなか眠れなかったし、妙に心臓がうるさかった。 今思えば俺はあの時、とても、とても、嬉しかったんだ。 そして次の朝、母さんはどこにもいなくなった。 冷えた布団をどけて起き上がると、窓の外は一面真っ白だった。 古い団地の一室は隙間風が多くて、部屋の空気はまるで、冷凍庫を開けた時みたいに冷たかった。 母さんは雪にのみこまれたのかもしれない、と、俺は思った。 それから俺はおばあちゃんに引き取られ、おばあちゃんが亡くなってからは施設で暮らした。 おばあちゃんと暮らした間は、いつもおばあちゃんが一緒に寝てくれたから、俺はぐっくり眠ることができた。 でも施設に入ってからは眠れない日が増え、今では立派な不眠症だ。 施設を出てからの一人暮らしも慣れたものだけれど、眠れなさだけは変わらなかった。 (…あの時、母さんは俺の隣でどんな顔をしていたんだろう) ほんの少しでも覗き見ればよかったと、少し後悔している。 「英人君」 「…透子さん」 呼ばれて振り向くと、すぐ後ろに透子さんが立っていた。 「もう後は私がやっておくから、あがっていいよ」 「いや、でも──」 「後はやることも少ないから。ね、お友達待ってるし」 透子さんに言われてカウンターを見ると、椅子にちょこんと腰掛ける美香さんの後ろ姿があった。 どことなく、背中が小さく見える。 「…すいません、じゃあお言葉に甘えて」 「お疲れ様」 「お疲れ様でした!」 「あ、もう帰れるの?」 俺の声を聞いて、美香さんがパッと立ち上がる。 「遅くまでごめんなさい、お会計お願いします!」 「いえ、今日はけっこうですよ。他にお客様もいなかったし、英人君のお友達ですから」 「いえ!そういうわけには!」 慌てる美香さんに、透子さんは優しく微笑みを返す。 「外、とっても寒かったでしょう?少しでも温まって頂けたならよかったです」 美香さんの顔が、またほんの一瞬、泣きそうに緩んだ。 「……私が惚れそうかも」 すぐにおどけた表情を作って、美香さんが俺を見る。 「じゃ、帰りますか」 俺たちは透子さんにお礼を言って、つみきを後にした。 外はキンと痛いくらい空気が冷えて、白い粉は視界に纏わりつく。 「…今日はごめんね、急にお店に行って。ほんとはね、店の外で終わるの待ってようかなーと思ったんだ。でも─」 美香さんは足を止めて、後ろを振り返った。 「あの大きな窓から見える明かりが、温かそうでさ。入りたくなっちゃった」 「…わかるよ。あの店は、そういう店だから」 俺が初めてあの店の前を通ったのも、雪がちらつく寒い夜だった。 真っ暗闇の中に差し込む、温かい金色の明かり。 俺はその光をただ、ぼんやりと眺めていた。 しばらくその場を動けずにいると、店の中から優しげな男性が顔を出した。 「前のマスターがね、コーヒーご馳走してくれたんだ。それがあの店でバイトするようになったきっかけ」 「…へえ」 「いつでも連絡してくれていいから」 「え?」 「添い寝屋が必要な時。予定あったらごめんねって言うだけだし、別に急でも遠慮しなくていいから」 「むしろ、急なもんでしょ、そういうのって」 美香さんは少し驚いたような顔をした後、ふふ、と笑った。 「…いつでも連絡していいって言ってくれる人がいるって、いいね。こころが落ち着く」 「ならよかった」 「今日、予約空いててほんとによかった」 心底ホッとしたように笑って、美香さんは足取り軽く歩き始める。 (今日、予約が入ってよかった) うっすらと積りそうなくらい降り始めた雪を見て、俺は密かにそう思った。 ピンポーン…… 俺はコートのポケットから右手だけを出し、チャイムを押した。 雪こそ降っていないが、今日も外は冷凍庫のように冷たい。 土曜の夜だけど、この辺りは住宅街なのでしんと静まり返っている。 それが余計、寒さを増している気がした。 少し間を置いて、薄緑のドアが控えめに開く。 「こんばんは、美香さ──」 ドアの中から現れた美香さんを見て、俺は思わず言葉が止まる。 左目の周りが青紫のまだら模様、口は左端が少し切れているようだった。 ショートパンツから伸びる太ももや脛にも、あざや傷が見える。 明らかに新しい傷だった。 俺は急いで鍵を閉めて靴を脱ぎ、美香さんの肩を抱いて部屋へと急ぐ。 「──治療はした?救急箱ある?あと冷やすもの、」 「いいから!」 俺の言葉を遮り、美香さんは足を止める。 「…いいから、もう、ベッド行こう」 力なく俺にもたれかかる美香さんの目には、光がないように見えた。 いつも悲しげではあったけど、こんな美香さんを見るのは初めてだった。 身体の傷よりも、目に見えない傷の方がいつだって深くて重い。 「…わかった」 俺はコートを脱いでベルトを外すと、そのままベッドに横になった。 「おいで」 掛け布団を開けて呼ぶと、美香さんはベッドに入る。 でもいつものように横にはならず、四つん這いで俺の上に覆いかぶさった。 「…ねえ、しよっか」 感情のないその目から、今にも潰れそうな心が見える気がした。 どうにかして少しでも痛みを紛らわしたいと、必死にその方法を探しているように見える。 「…それもいいけど」 俺は美香さんの背に手を回し、ふわりと体勢を返した。 服で隠れている部分にも怪我があるかもしれないと思い、できるだけ優しくベッドに寝かせる。 これ以上少しでも、この人を傷つけたくなかった。 「もっといい方法、知ってるから」 「いい方法…?」  「眠ることだよ」 「眠ると、リセットされる。眠るたびに少しずつ、新しい自分になれるから」 俺は腕に美香さんの頭を乗せて、もう片方の手を美香さんの手に重ねた。 いつもはこんなにベタベタしないが、今は少しでも温もりを伝えた方がいい気がした。 「…でもね、眠れないの」 美香さんの声が震える。 「昨日一睡もできなくて、でも今日も、昼間だって眠れなくて、もう、ロクでもないことばっかり浮かんできて、それで──」 「大丈夫」 「そのために俺が来たから。もう大丈夫」 そう言うと、美香さんは大きく息を吸い、嗚咽を漏らし始めた。 「…うっ、ふうっ…、うええっ」 子供のように泣きじゃくる美香さんを、俺はだだ抱きしめ、頭を撫で続けた。 美香さんは今まで、添い寝中に彼氏の悩みを話すことはあっても、涙を見せたことがなかった。 涙を流せないときの方が、心の傷みは深刻だと俺は思う。 (…泣けてよかった) やがて泣き声は掠れ、そのまま寝息へと変わった。 涙で濡れて張り付いた髪を優しく払い、俺は自分の服の袖で美香さんの頬を拭う。 「…ゆっくりおやすみ」 (できれば、明日にはほんの少しでも痛みがとれていますように) いるのかどうかわからない神様的な存在にそう願い、俺は目を閉じた。  ──────────────────── 布の擦れる音に目を開けると、座っている美香さんの横顔が見えた。 (…今何時だろう) カーテン越しに朝日は感じるが、まだ相当早い。 いつもの美香さんなら、まだ眠っている頃だ。 というか、俺が美香さんより遅く起きるのはこれが初めてだった。 「おはよう」 声をかけると、美香さんがゆっくりと俺を見おろす。 「…私、今日別れてくる」 「え?」 美香さんの顔にある痣は昨日より紫がかっていて、痛々しかった。 でもどこか、サッパリした表情に見える。 「私ね、彼を支えたかったの。強く振る舞うのも、それだけ弱いってことだと思ったから」 「…うん」 「どんな酷いめに合っても、支えられるのは私しかいないって思ってた…でも」 「この前彼の家に行ったときね、ゴミ箱にストッキングの袋が捨ててあったんだよね」 美香さんは、ふ、と息を漏らすように笑った。 「ああこの人、他にも支えてくれる人いるんだな、私じゃなくてもよかったんだって思ったら…すっと、気持ちが引いちゃった」 「おかしいでしょ、こんなボコボコに殴られることより、『唯一』じゃないってことの方が私には耐えられないんだ」 美香さんはベッドから降り、立ち上がって背伸びをした。 そしてくるりと振り返る。 「あんな奴でも、好きだった。そう思ったらすっごい泣けてきてさ」 「泣いて、眠って…そしたら自然と思ったの。別れようって。なんで今まで決意できなかったんだろ」 そう言って笑う美香さんに、目を奪われる。 こんなに傷だらけで、それでも前を向く彼女は、とても綺麗だと思った。 「…添い寝屋は、もう必要なさそうだね」 「英人君が眠れない時は、500円で添い寝してあげてもいいよ?」 美香さんがイタズラっぽく笑い、俺も笑った。 「さ!気が重いけど…がんばろ。もし彼がゴネても、親とか、場合によっては警察にお願いしてでもキッパリ別れる」 「うん。応援してるよ」 勢いよく洗面所に向かいかけた脚を止めて、美香さんが控えめに振り返る。 「…でももし、さ、辛かったり、また眠れない時は…予約の電話してもいい?」 「…もちろん。500円で飛んでいくよ」 俺たちはまた二人で笑った。 「…英人君も、いつかゆっくり眠れる日が来るといいね」 俺は言葉を添えず、小さく笑顔を返した。 カランカラン── 見慣れたドアを押すと、少しくぐもったような、心地いい鐘の音が響いた。 ドアを開いた瞬間に、珈琲の香ばしい匂いが鼻を刺激する。 「おはよう、英人君」 「おはようございます」 俺はまだ開店前の店に入り、カウンターの左端の席に腰掛ける。 ここは俺の定位置だ。 「今日はクラムチャウダーよ」 サイフォンが出す柔らかな湯気越しに、透子さんがにっこりと笑う。 「やった!俺透子さんのクラムチャウダー、一番好き」 「マスター直伝だからね」 「いやあ、もうマスターの味超えてるって」 ふふ、と笑って透子さんはスープカップにクラムチャウダーを注いでくれる。 平日の朝は、ほぼ毎日つみきでモーニングを食べることが習慣づいていた。 どうせ眠れないのだし、早起きをしてこの店に来る。 ゆるゆると小説を書きながらモーニングを堪能することで、昨夜がどんな夜でもリセットすることができる気がした。 つみきに来ると、不思議と心が落ち着く。 「今日は今から学校?」 「…今日は寒いし、雪が降りそうな天気だし…休んじゃおうかなあ」 ぼんやりと思ったことを口にしてしまい、ハッとする。 (しまった、余計なことを──) 「じゃあ今日は、ゆっくり朝ごはんが食べられるね」 透子さんは優しく微笑んで、俺の前にモーニングプレートを差し出してくれた。 「…いただきます」 (そうだ、透子さんはこういう人だった) サイフォンの声と立ち上がる湯気、食器のあたる音、透子さんの言葉。 この店には、俺にとって不快なものが何もなかった。 目の前に並ぶこんがり焼けたトーストも、程よく半熟のスクランブルエッグも、サラダもクラムチャウダーも、何もかもがひどく優しい。 スープを口に運ぶと、喉からお腹まで一気に熱が通る。 「…やっぱりおいしい」 「ありがとう。あ、いらっしゃいませ」 ふとドアの鐘が鳴り、お客さんが入ってくる。 つみきの開店時間だ。 モーニングも人気で、常連客やらでいつも繁盛している。 何組かのお客さんを通し、モーニングを提供すると、落ち着いた頃合いを見計らって、透子さんはブラックホールを手に取った。 俺は小説を書きながら、横目でその姿を追う。 透子さんはブラックホールをレジカウンターの上に置くと、引き出しから小さな鍵を取り出した。 そしてそれをブラックホールにかけた錠に差し込み、ひねると、錠は小さな音を立てて開いた。 解放されたブラックホールを真ん中で開くと、中からは色とりどりの封筒が現れた。 透子さんはそのうちの一通を手に取ると、レジカウンターの横に置かれたシュレッダーに差し込む。 静かな喫茶店に不似合いな音を立てて、手紙はあっという間に刻まれてゆく。 透子さんは淡々と、そして次々と手紙を差し込んでいった。 常連のおじいちゃんは、何も気にせずモーニングを口に運んでいる。 スマホで店内の写真を撮っていたカップルは、その音に顔をしかめてレジの方を見ていた。 頬杖をついて物憂げに見ている窓際の女性は、もしかしたらブラックホールに手紙を入れたことがあるのかもしれない。 透子さんがわざわざ営業中に手紙をシュレッダーにかけるのは、ブラックホールに入った手紙が、ちゃんと誰にも見られず、消えていることを証明するためだ。 (…今日は5通か) すべての人の思いが、相手に届けばいいのに。と、俺は思う。願う。 それはきっと、透子さんも同じだ。 でも実際、ブラックホールには毎日手紙が入るし、添い寝屋も繁盛している。 (…添い寝屋って、ブラックホールと似てるのかもな) どんな思いも、吐き出せる場所。 俺は届けられなかった思いを受け止め、受け流す。 いつか形を変えて、相手も変わったとしても、誰かに届きますようにと願いながら。 俺は書きかけのページをめくって、次のページを破り取った。 薄い緑でマス目が書かれたその紙に、鉛筆の芯を滑らせる。 母さんへ 寒い日が続きますね。 母さんは、よく眠れていますか? 振り返って窓の外を見ると、明らかに寒そうな灰色の景色が広がっている。 (本当に降りそうだな…) 思わずふぅ、と小さなため息が漏れた。 書いた手紙を長方形になるように折り込み、ポケットにしまう。 この折り方は、高校生の時同じクラスだった女子に教えてもらった。 封筒なしでも綺麗に閉じることができるので、よく使わせてもらっている。 「どうぞ」 絶妙なタイミングで、透子さんが食後のコーヒーを差し出してくれた。 「いただきます」 熱いコーヒーを一口飲むと、食後の気怠い頭がすっきり冴える気がした。 「そういえば、庭にある梅の花がね、今日一輪咲いてたの」  「もうすぐ春が来るんだね」 そう言って透子さんは、お花みたいに微笑んだ。 透子さんには、すべて見透かされている気がする。 「春か…」 俺はコーヒーを飲み干すと、ソーサーごとカウンターの上に返した。 「ご馳走様でした!あんまりくつろいでたら、遅刻しちゃうな」 「学校に行くの?」 「はい。うまいスープ飲んだら、腹に力が入ったんで」 そう言うと、透子さんは嬉しそうに笑った。 「いってらっしゃい」 「いってきます」 俺は席を立ち、ドアへ向かう前に、ブラックホールへ立ち寄った。 ポケットの中の小さな長方形を手に取り、慣れた手つきでブラックホールに差し込む。 紙切れは、まだ空っぽのブラックホールに音もなく消えていった。 店を出ると、刺すように冷えた空気が押し寄せる。 でも腹に入った熱々のスープとコーヒーが、身体の中から守ってくれているようだった。 俺は店の裏に回り、庭にある梅の木を見上げた。 「…ほんとだ」 たしかに透子さんの言う通り、丸みを帯びた赤い花が、一輪咲いていた。 他にもいくつか、蕾が膨らんでいる。 ピロン── 聴き慣れた音が鳴り、スマホを見ると、知らないアドレスからメッセージが届いていた。 『初めまして。 経済学部の2年、山本咲といいます。 勝手にアドレスを聞いてしまって、ごめんなさい。 嶋津さんから紹介してもらいました。 添い寝屋って、私でもお願いできますか?』 眠れないほどの思いを抱えている人は、案外多い。 人の温もりに飢えている人も。 『もちろんです。詳しくは会ってからお話しましょう。』 そう返信してから、もう一度梅の花を見上げた。 もうすぐ春が来る。 透子さんの言葉を噛み締めて、俺は歩き始めた。
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