おとうさんへ

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おとうさんへ

安子は、カップに残った最後のコーヒーを飲み干した。 そして口の中いっぱいに広がる、香ばしい余韻を堪能する。 (こんなに美味しいコーヒーが飲めるなら、もっと早く来れば良かったわ) ここに喫茶店があることは知っていたけれど、今まで一度も入ったことはなかった。 お友達と会う時はお決まりの喫茶店があったし、一人でお茶をすることなど、ほとんどなかったからだ。 それに、看板にある『手紙喫茶』の文字も気になっていた。 歌声喫茶なら昔はよくあったけれど、手紙喫茶は聞いたことがなかった。 でもメニューの最初のページにあった説明を読んで、安子はやっとその意味がわかった。 手紙喫茶つみきへようこそ。 店内の便箋、封筒、筆記用具は、ご自由にお使いください。 お手紙を書くお客様も、そうでないお客様も、どうぞごゆっくり。 店主より 店主からのメッセージの後には、この店にある色々なものの説明書きもあった。 ここは、手紙の書ける喫茶店なのだ。 壁際の棚にはたくさんの便箋やらがあり、少し前には若い女の子の二人連れが、キャッキャと楽しそうに便箋を選んでいた。 女の子たちは互いに書いた手紙を交換し、読み合ってまたキャッキャと笑っていた。 (若いって、なんでも楽しそうねえ) 安子は微笑ましく思いながら、彼女たちを見ていた。 すでに結婚して家を出た娘も、高校生くらいの時はあんな感じだった。 今では、夫と二人の毎日だ。 黄色い声もなければ、特に抑揚のない日々を過ごしている。 大きな両開き窓から外を見ると、空はどんよりと曇っていた。 青い空を隠す灰色の雲は、安子の心にも冷たい影を落とす。 空っぽのカップと同じように、何かが足りないような心細さでいっぱいになる。 「コーヒーのおかわり、いかがですか?」 英人はにっこりと微笑みながら、窓際の席に座る安子におかわりを勧めた。 だいたいいつも、カップが空になってからちょうど3分ほど過ぎた頃合いを見計らって、声をかけることにしている。 「あら、おかわりもいただけるの?嬉しいわあ」 「では、お持ちしますね」 英人が去った後、安子はなんとなく、壁際の棚を見に行った。 手紙を書こうと思ったわけではないが、壁に並んだ色々な便箋たちは目を引くものがある。 (素敵ねえ…あら、この模様なんて、ステンドグラスみたい) あまりに好みの便箋があったので、思わず一枚手に取ってみる。 手紙でも書いてみようか、と安子は思った。 「店主がこだわって選んだものばかりなんです。気に入ったものがあれば、封筒とペアで持って帰ってもらってもいいですよ」 コーヒーを運んできた英人が声をかける。 「あら、持って帰ってしまってもいいの?」 「たくさんは困りますけどね、手紙を書く分だけなら大丈夫ですよ」 英人はわざと小声で言うと、屈託なく笑った。人懐っこい笑顔だな、と、安子は好意的に思う。 「ここで書いてもらってももちろんいいんですけど、ゆっくりと、一人で書きたい手紙もあるでしょうから」 英人は、そう言って席に戻った安子の前にコーヒーを置いた。 「…そうね。でも一人の時間って、よく考えると案外ないものよね…。子供も巣立ったっていうのに」  「お忙しいんですね」 気遣うようにそう言われ、安子はなんだか恥ずかしくなって急いで否定する。 「いえいえ!私なんてただの主婦だから…娘たちも家を出てるしね。買い物とか付き合いとかね。家に帰れば定年退職した主人がいるくらいなの」 「充分忙しいですよ、それ。でもいつも誰かが側にいるっていうのも、幸せな忙しさかもしれませんね」 安子はほとんど感心しながら、英人の顔を見つめた。 「そう、本当にそうね。…でも、今日主人とケンカしたのよ」 そう口に出してから、余計なことを口走ったと安子は後悔する。 娘より年下であろう若い男の子が、おばあさんの愚痴なんて聞きたいはずがない。 「あ、ケンカって言ってもね、つまらないことなのよ。ちょっとした、ね」 「…でも、一緒に暮らしてる人とケンカしてる時って、きっとしんどいですよ。二人っきりならなおさら」 「まあ俺は経験ないですから、なんとなくそう思うだけなんですけど」 そう言って英人は子犬みたいに笑った。 安子は、ますます感心する。 年齢に似合わないくらい聞き上手なのに、わざとらしい感じがしない。 心から思うことを、素直に話してくれている気がする。 「…昨日の夜、あの人、お餅が食べたいって言ったのよ」 安子は昨夜のことを思い出しながら、話し始めた。 「うまそうやな〜、餅食いたくなったなあ」 ちょうど洗い物を終えた私がソファへ向かうと、テレビでは美味しそうに焼き餅を食べるシーンが映っていた。 「お餅なら、正月の残りが冷凍してありますよ」 「お!餅あるんか!」 嬉しそうに振り返り、おとうさんは目を輝かせる。 いつもより多く晩酌を楽しみ、上機嫌なようだった。 「明日の朝飯、餅にしようや」 「いいですね、私も食べたくなってきたわ」 私は夜のうちに餅を焼く用の網を出し、朝には小皿にきな粉と砂糖醤油をそれぞれ用意した。 でもおとうさんがなかなか降りてこないので、寝室へ起こしに行くことにした。 「おとうさん、いい加減起きて下さいよ!もうお餅焼くんだから。いくつ食べますか?」 「んん〜…?ああ、2つや、2つ」 おとうさんはまだ眠そうな素振りをしながらも、ゴロリと寝返りを打った。 「顔洗ってくるから、もう焼き始めてくれや」 「はいはい、2つですね」 私は台所へ戻り、冷凍庫からお餅を3個出した。 2つはおとうさんの分、1つは私の分。 お餅を網に乗せ、コンロの火をつける。 まだ硬いお餅を眺めながら、私は昔のことを思い出していた。 (子供の頃も、よくお母さんが網でお餅を焼いてくれたな) お父さんが2つ、お母さんも2つ、私と妹は1つずつ。 砂糖醤油にきな粉、海苔、餡子…好きなものを合わせてみんなで食べるお餅は、本当に美味しかった。 お父さんは特にお餅や饅頭が大好きで、いつも嬉しそうな顔をして食べていた。 幸せな記憶に浸っている間に、お餅は今にも膨らもうと動き始めている。 (…遅いわね) 急いで寝室に向かうと、おとうさんはさっきと同じ体勢のまま、イビキをかいていた。 「ちょっとおとうさん!顔洗うんでしょ!」 「ん〜、昨日遅かったんやから…」 おとうさんは煩しそうに、布団を頭まで被る。 「何言ってるの!もうお餅焼き始めちゃったのよ!」 私が布団をめくろうとすると、おとうさんは私の手から布団を奪い返し、苛立った声を出す。 「朝から餅なんていいから、寝かしてくれや!」 (……え?) あなたが餅を食べたいって言ったんじゃない。 だから私は、用意したのに。 餅なんていい、ですって? 私はそれ以上何も言わずに、急いで台所へ戻った。 お餅が焦げてしまう。 美味しそうに、膨らもうとしていたお餅が。 コンロに戻ると、お餅はちょうど大きく膨らんでいる最中だった。 菜箸でお餅をつかみ、3つとも用意してあったお皿に乗せる。 ダイニングテーブルに運び、砂糖醤油ときな粉の入った小皿の横に置いた。 (我ながら、焼き加減は完璧ね) 「いただきます」 1つのお餅を箸でつかみ、砂糖醤油につけて口に頬張った。 甘じょっぱい旨味が餅に絡んで、懐かしいような感覚に包まれる。 餅はシンプルなだけに、何十年経っても昔のままの味だ。 1つをペロリと平らげている間に、残りの2つは萎み始めた。 最高の焼き加減で最高に美味しそうだったお餅が、萎んでいく。 その姿を見ていると、心まで萎んでいくような気がした。 私は萎みかけたお餅を掴み、きな粉に放り込んで口に運ぶ。 もう1つのお餅は、味海苔にくるんでいただいた。 綺麗に何もなくなった皿を見て、達成感のようなものを感じたが、胃は少し重かった。 それと同時に、底知れぬ虚しさが込み上げる。 (お餅は、こんな風に一人で食べるものじゃない)  私にとってお餅は、みんなで食べるものだった。 今日だって、あの人が食べたいというから用意したのに。 (だいたい、あの人はいつもそう) 深酒をすると、その日に言ったことを忘れていることも少なくない。 何度言っても靴下は裏返しのまま洗濯機に入れるし、ティッシュも敷かずに爪を切る。 私の言葉なんて、あの人にとってはきっと生活雑音の一部なのだ。 まともに聞いてすらいない。 でも今日は、特別な日なのに。 あなたがお餅を食べたいと言い出して、嬉しかったのに。 「…それでそのまま、飛び出してきちゃったのよ」 「ほんとにつまらないでしょ、話してて自分でもそう思っちゃったわ」 安子は、なんだかおかしくなって笑ってしまう。 「…網で焼いたお餅って、すごくうまいですよね。子供の頃、おばあちゃんが焼いてくれたことあります」 「旦那さん、食べなかったなんてもったいない事しましたね」 英人は少しいたずらっぽく笑って、そう言った。 「そう、ほんとそうよねえ!おかげで私は3つも食べたわ」 安子はもうほとんど、すっかり楽しい気持ちになっていた。 この子に話してよかった、と心から感謝する。 「でも飛び出してきたなら、旦那さん心配してるでしょうね」 「そんなことないわよ、きっと買い物にでも行ったと思って、気にも止めてないと思うわ」 「ならいいんですけど…あ、でもこの場合、少しは気を揉んでもらった方がいいか…」 英人が真顔でそんなことを言うものだから、安子はまた笑ってしまう。 「長々と失礼しました、ごゆっくりどうぞ」 英人は笑顔で会釈して、カウンターへと戻っていった。 (それはこちらのセリフだわ) 安子は温かいコーヒーを一口飲みながら、話を聞いてくれた若いウェイターに、心の中で感謝の気持ちを伝えた。 「英人君、書いてていいわよ」 透子はティースプーンを並べながら、英人に声をかけた。 モーニングタイムが終わり、お客さんは2組だけになっている。 「ありがとうございます」 英人はお礼を言うと、レジカウンターに置かせてもらっているノートを取り、カウンターの左端、いつもの定位置に腰掛けた。 こうなると、つみきは一気に時が止まったような空間になる。 英人は空想の世界に旅立ち、透子はスプーンを一本一本丁寧に磨く。 年配のおじさんは新聞を読み耽っているし、窓際の客は便箋と睨めっこしたまま固まっている。 同じ空間にいるようで、各々が自分の世界に入り込んでいた。 「…あ」 静寂を破ったのは、ここがもし騒がしければ聴こえないほど物静かな、透子の声だった。 英人が顔を上げて透子の視線を追うと、窓の外ではしとしと雨が降り出していた。 「雨、ですね」 「…そうねえ」 英人が席を立とうとすると、いいから続けて、と透子が制止する。 冬に冷たい雨が降ると、窓際の席は少し冷えやすい。 だから透子たちは、寒そうな時はお客様に膝掛けを勧めることにしていた。 「私が行くわ」 透子は入り口付近に置いた籠の中から、毛布生地の膝掛けを一枚手に取った。 それを持って、窓際の席へ向かう。 「あの、よろしかったらお使い下さい。少し冷えますので」 安子がハッと顔を上げると、そこには若くて綺麗な女性が、膝掛けを持って微笑んでいた。 考え事をしていて、声をかけられるまでそばに来たことに気づかなかった。 「ありがとう、助かります」 安子は膝掛けを受け取ると、さっそく膝にかける。 出かける時はいつも、ズボンの下にタイツやレッグウォーマーを履くようにしているけれど、今日は勢いで飛び出したもんだから、ズボン一枚だった。 下半身が寒々しいと思っていたので、このぬくもりはありがたい。 そして顔を上げて初めて、安子は周りの客がほとんど居なくなっていることに気がついた。 最後に残ったおじさんの客も、今まさに帰ろうと新聞を畳んで立ち上がっている。 「ごめんなさいね、すっかり長居して」 「いえ。雨も降ってきましたし、もしお時間ありましたら、ゆっくりしていってくださいね」 透子はそう言って微笑んだ。 安子は改めて、いい店を見つけたことを嬉しく思う。 「…ありがとう。せっかくだから手紙を書こうと思ったのだけど、なかなか言葉が浮かばなくって」   テーブルの上に置かれた便箋は、まだまっさらのままだった。 「…想いを言葉にするのは、案外時間がかかる作業ですから」 「本当に、本当にその通りね。子供の頃は手紙なんてスラスラかけた気がするのに…大人になってたくさん言葉を知ってからの方が、うまく書けないなんてね」 安子は窓の外に目をやった。 どしゃ降りでもなく、小降りでもなく、静かな雨が地面を、木を濡らしていく。 なんとも言えない、不安感に襲われる。 (これは、そうだ。あのときに似ている)  「…ここは、子供の頃よく来た喫茶店によく似てるわ」 「そうなんですか?」 透子は穏やかな眼差しで、静かに相槌を打ってくれる。 さっきのウェイターといい、この方といい、なんて心地のいい話し方をするんだろう、と安子はまた感心する。 他に客はいないとはいえ、彼らの仕事を止めさせてまで長話をするような面倒くさい客にはなりたくなかった。 でも、安子は話したかった。 今、誰でもいいから話を聞いて欲しかった。 「子供の頃、父とよく二人で喫茶店に行ったのよ」 父は仕事が忙しく、なかなか休みも取れなかった。 でも休みが取れると、私と二人で喫茶店に行き、プリンアラモードを食べさせてくれた。 私はその時間が楽しくて楽しくて、宝物のようだった。 でもそんなある日、いつものように二人で喫茶店に入って注文を済ませたところで、カウンターに置かれた薄桃色の電話が鳴った。 マスターに名前を呼ばれ、私に少し待つように告げ、父は電話に出た。 電話で話す父の表情は深刻で、私はテーブルからその様子をじっと見ていた。 「ごめんな安子。お父さん、大事な仕事で、少し会社に行かなきゃならなくなったんだ。急いで戻ってくるから、ここでプリンアラモード食べて待っててくれるか?」 テーブルに戻った父は、穏やかな声でそう言い聞かせながらも、すでに上着と鞄を手にしていた。 何か大変な用事なのだろうと、子供の私でも推測できた。 「うん、早く帰ってきてね」 少しの不安を抑えながら、私は笑顔で見送った。  父がいなくなった喫茶店は、慣れた店なのに、なんだか違う場所のように思えた。 まだ小学生だった私は、当然一人で喫茶店に来たことなどなかったのだ。 「お待たせしました」 美味しそうなプリンアラモードが運ばれてきて、私は不安を振り切るようにスプーンを手にした。 でも私がプリンアラモードを食べ終わっても、水を三杯おかわりしても、父は戻ってこなかった。 私は押しつぶされそうな気持ちを、必死で取り繕っていた。 父はもう、戻ってこないんじゃないか。 私は捨てられたのかもしれない。 そんなことすら考えた。 大好きだった喫茶店が、まるでお化け屋敷のように見えた。 ここから出たい。 もう一生、出られないのかもしれない。 結局その日迎えにきたのは、父ではなく、母だった。 会社からかかってきた父の電話で事情を知った母が、迎えにきてくれたのだ。 私はその時初めて、大粒の涙を流した。 あれが一時間だったのか、三時間だったのかもう覚えていないけど、子供だった私にとっては永遠と等しいくらい長い時間だった。 「…父はその後、何度も謝ってくれたわ。でも私は、許さなかった」 安子は悲しそうに微笑み、白紙の便箋に目を落とした。 「…お父様と過ごすその時間が、大好きだったんですね」   透子の言葉が、安子の胸に優しく響く。 そう、大好きだった。 お父さんも、あの時間も。 (なのに、私は───) 「それから一週間後、父は事故で亡くなったの」 透子が小さく息を飲んだのを、安子は感じた。 こんな暗い話をいきなり初対面のお客からされるなんて、きっと困惑しているに違いない。 そう思って取り繕おうとするものの、言葉が出てこなかった。 「…手紙、お父様に書かれるんですか?」 透子は静かに、そう聞いた。 安子は、肩の力がふっと抜けるのを感じた。 「…謝ってほしいのよ」 「…え?」 「失礼します」 空気を割るような明るい声が響いたと同時に、透子の横に英人が並んだ。 左手に持ったトレーの上には、小さなアーモンドケーキが乗っている。 透子はそれを見て、英人の意図をすぐに理解した。 「あの、お客様、甘いものはお好きですか?」  質問の意図はわからなかったが、安子は素直に答える。 「ええ、甘いものは大好きよ。つい食べ過ぎてしまうくらい」 「もしよかったら、こちら試食していただけませんか?」 英人はアーモンドケーキが乗ったレトロなケーキ皿を、安子の前に置いた。 「来月のデザートの試作品なんです。味の感想など頂けるとありがたいんですが」 「え?いいの?私なんかがいただいて…」 安子は戸惑ったように、英人と透子を交互に見る。 「もちろんです。よかったらぜひ」 透子にもそう促され、安子は喜んでケーキにフォークをあてる。 表面はザクッと崩れ、中はしっとりとしていて、口に入れると素朴な甘みが広がった。 「…美味しいわ、とても!この生クリームも甘過ぎなくて、ケーキにぴったり」 「よかった!生クリームの甘さはこだわったポイントなんですよね、透子さん」 英人は嬉しそうに透子を見る。 透子も笑顔で頷いた。 「では、ごゆっくりどうぞ」 そう言って二人は、席を離れた。 「…すみません。勝手なことしちゃって」 カウンターに戻ると、英人は透子に謝った。 「言ったでしょう。ここでは店主もアルバイトも関係ないって。それぞれが、お客様のことを考えて動いてくれたらいいの」  「喜んでたわね、あのお客様」 「透子さんならそう言ってくれると思ってました」 そう言ってニッカリ笑う英人を見て、透子もおかしくなって笑ってしまう。 「…女の人って、甘いもの食べるとすごく嬉しそうな顔するでしょ」 「あの人、なんだか迷子みたいな顔してたから」 英人は人を観察する癖がある、と透子は思う。 小説家志望なせいか、いつもよく人を見ている。 そしてたまにとても大人びたことを言うかと思えば、驚くほど純粋だったりもする。 (…でもいつも、相手のことを考えて動いているのよね) 「迷子…か」 「でも、今は嬉しそうね」 「はい」 二人の視線の先には、美味しそうにケーキを頬張り、コーヒーを楽しむ安子の姿があった。 カランカラン─── 「いらっしゃいませ」 勢いよく扉が開き、小柄な初老男性が入ってきた。 「えらい降ってきたなあ」 源一は、肩についた水滴を手で払いながらそう呟く。 「え!?おとうさん!?」 安子が驚いた様子で立ち上がる。 「おう!」 源一はビニール製のエコバッグを持った手を振り上げながら、安子の席へと近づく。 「旦那さんですかね」 英人はグラスに水を用意しながら、透子に話しかける。 「そうみたいね」 「ケンカ中って言ってたなあ…」 「あら、そうなの?」 小声で話しながら様子を見ていると、源一は安子の向かいの椅子へ腰掛けた。 英人はさっそく、水をトレイに乗せて運ぶ。 「どうしてここに!?」 「買いもんに来たら、この窓からお前が見えたんや。あ、ホット一つ頼むわ」 「かしこまりました」 源一の声ははつらつとしていて、客のいない店内によく響く。 英人がカウンターに戻る前に、透子さんはすでにコーヒーカップの準備を始めていた。 「あー、雨降ったら冷えるなあ。はよホット飲みたいわ」 「こんな雨の日に買い物って…珍しいですね」 安子の話し方には、どことなくトゲがある。 でも源一はそんなこと、気にも留めていないようだった。   「ああ、今日おやじさんの命日やろ」 「──え?」 「ちょうど昨日から餅食いたかったしな、あんころ餅買ってきたんや」 源一は手に持ったエコバッグを広げて見せた。 そこには、5個入りのあんころ餅と、仏花が入っている。 安子の父は、甘いものが好きだった。 命日には毎年、安子がお饅頭や甘いものを買ってきて、仏壇に供え、源一と食べるのが習慣になっていた。 (…今年はもう、忘れているのかと思っていたのに) 安子はなんだか毒気を抜かれたような気持ちになったが、朝の憤りを思い出して持ち堪える。 恨み言くらい言ってやらなければ気が済まない。 「…お餅なんていらないって言ってたくせに」 「誰が?」 何も知らないと言うような顔で、源一が聞き返す。 寝ぼけていて本当に覚えていないのだろうと、安子は呆れてより力が抜けそうになる。 「あなたのおかげで、私は朝から餅を3個も食べたんですからね」 「お前、餅3個も食べたんか!それでなんかデザートまで食うとるんか?太るぞ」 「余計なお世話です!その上あんころ餅まで買ってきたのは誰ですか! 」 「なんや、お前食わんのか?」 「食べますよ!」 「食うんかい!」 「…ぶっ…!!」 コーヒーを運んできた英人は我慢できず吹き出してしまい、慌てて口を押さえる。 「申し訳ありません!夫婦漫才みたいで、つい…」 英人が困ったように笑うと、安子も恥ずかしいやらおかしいやらで、思わず吹き出してしまう。 「やだもう、ほんとみっともない」 「にいちゃんも食べ過ぎや思うよなあ」 「いえ、焼きたての餅なら、俺は5個いけますね」 「さすが若いなあ!」 ガハハ、と濁声を出して、源一も楽しそうに笑った。 (仲直り、できそうね) カウンターからその様子を見ていた透子は、ホッと胸を撫で下ろした。 英人は、いつも人の心を柔らかくしてしまう。 そういうところが素晴らしいと、いつも透子は感心している。 「お、なんやそれ。手紙か」 ふと、源一が安子の手元にある便箋に気がついた。 安子の手にはペンが握られたままだ。 「あ、いえ、これは…」 「おやじさんにか。たまには手紙もええなあ」 相手が父だとすぐわかったことに、安子は驚き、少し感動した。 私が今でも父の存在を身近に、大切に思っていることを、この人は理解しているのだ。 「……謝って欲しいの」 「え?」 「もう一度謝ってくれたら、今度こそ、もういいよって言うのに」 あの時の私は、まだ子供だった。 今なら笑って許せるのに。 そしてまた一緒に、プリンアラモードが食べられるのに。 もうそのチャンスも与えてくれないなんて。 「…謝りたいのよ、お父さん…」 安子の視界が、ぐにゃりとぼやける。 こんなところで涙をこぼすわけにはいかないと、安子は指先で目頭を拭った。 「…なんやそんな、昔のことでいきなりメソメソして」 源一が顔をしかめた。 コーヒーを置いて去りかけた英人は、思わず口を挟もうとする。 英人は、何年経っても、きっと何十年経っても、解決されなかった想いや傷はそのまま残ることを知っていた。 でも英人が口を挟むより先に、言葉を続けたのは源一だった。 「そんなもん、おやじさんなら娘の気持ちなんて、言わんでもとっくにわかってるやろ」 「それに今日は命日やしな。案外そこら辺に立って、アホやなあゆうて笑ってるかもしれんぞ」 源一は安子の背後を指差して、ガハハとまた笑った。 (…そうだ、この人の、この顔) 安子は、源一と出会った頃のことを思い出した。 最初に源一が笑うのを見た時、どことなく父に似ていると感じた。 細かいことには気がまわらないけれど、豪快で人が良く、大抵のことは笑い飛ばしてくれる。 父は、そんな人だった。 そして私の、一番の理解者でもあった。 「…そうね、お父さんなら、きっとわかってくれてるわね」 白紙の便箋を見ながら、安子は心から安心したように微笑んだ。 (…余計なお節介するところだったな) 英人がそっと去ろうとすると、思いがけず安子に呼び止められる。 「あ、お兄さんちょっと待って」 「はい」 「甘いものはお好き?」 「え…?はい、好きですよ。つい食べ過ぎてしまうくらいに」 質問の意図がわからなかったが、英人は笑顔で答える。 「よかった。じゃあ申し訳ないんだけど、取り皿を一枚もらえるかしら?」 「…かしこまりました」 ますますよくわからなかったが、英人は言われた通り取り皿を持って席に戻った。 「どうぞ」 安子はお礼を言って受け取り、源一の持っていたエコバッグからあんころ餅の入ったパックを取り出した。 パックを開けると、5個のうち2個をナプキンで挟んで取り、皿に乗せる。 「これ、よかったらあちらの彼女と召し上がって」 安子は英人に、あんころ餅が乗った皿を差し出した。 「え!でもせっかく旦那様が買ってきたものですから…」 英人は遠慮し、チラリと透子を振り返る。 透子は状況を察し、席に向かった。 「あ、あなたも、お嫌いじゃなければ召し上がってくださいな」 安子は透子にもあんころ餅を勧めた。 「そうそう!こいつ食べ過ぎなんやから!こいつのためにも食べたってえな」 源一が笑うと、安子がジロリと睨む。 でもその口元は、口角が上がっていた。 「余計なこと言わなくていいんですよ!ね、一緒に食べてくれると嬉しいわ」 透子と英人は、顔を合わせて小さく頷く。 「ありがとうございます。ありがたくいただきます!」 英人がそう言って皿を受け取り、透子もお礼を伝えてその場を離れた。 (お父さんとこの人と、私。ひとつずつ。) 3つ残ったあんころ餅を見て、安子はふふ、と笑みを漏らす。 「なんや、気色悪いなあ」 「はいはい、私は手紙を書きますから、コーヒー飲んでてくださいよ」 「言われんでも飲むわい」 安子は便箋にペンを滑らせながら、源一をチラリと覗き見た。 源一はコーヒーを飲みながら、窓の外を見ている。 喫茶店で、向かいの席に誰かがいるというのはとても嬉しいことだと安子は思う。 一人でゆっくりするのもいいけれど、私は誰かと、向かい合っている時間が好きみたいだ。 「はい」 「え?」 二つ折りにされた便箋を安子に差し出されて、源一は間抜けな声を出した。 「あなたに書いたの」 「なんや、おやじさんに書くんちゃうかったんか?」 「そのつもりだったけどね。あなたが言ったんでしょ、お父さんなら言わなくてもわかってるって」 「まあ、ゆうたけど…それで俺かいな」 ぶつぶつ言いながらも、源一は便箋を開く。 おとうさんへ たまにはこうして、喫茶店でお茶でもしましょう。 これからもよろしくお願いします。                   安子 「なんやこんなもん、直接口でゆうたほうが早いやないか」 源一はガリガリと頭を掻きながら、もう一度手紙に目を落としてから折りたたむ。 源一は照れた時や困った時、頭を掻く癖があると安子は知っていた。 「ふふ。でもここは、手紙喫茶ですから」 「それに、もう便箋取ってきてしまったんだから、もったいないでしょう」 「なんや、俺の手紙は便箋処理のためかい!」 源一は手紙をポケットにしまいながら、また左手で頭を掻いた。 「あ」 安子は窓の外を見て、小さい声を上げた。 「ん?おお、雨あがったなあ」 「…やみましたね」 「じゃあ今のうちに帰るか」 「そうですね」 源一と安子が席を立つのを見て、透子と英人はレジへ向かう。 「ありがとうございます。あんころ餅も、後でいただきます」 透子が再度お礼を言うと、安子は目を細めて微笑んだ。 「お礼を言うのはこちらの方です。ありがとう。あなたたちは二人とも、言葉の選び方が素敵ね」 「こんな素晴らしい喫茶店に出会えるなんて、今日はとてもいい日だわ」 心から嬉しそうな安子の顔を見て、透子も幸せな気持ちに満たされた。 人生は辛いこともたくさんあるけれど、こういう瞬間があるから生きていける、と透子は思う。 「ありがとうございます、またお待ちしております」 源一と安子は二人並んで、店の出口へと向かう。 「帰る前に晩飯の買い物するか」 「お餅でも焼きましょうか?」 「…お前、根に持つタイプやな」 二人の笑い声とドアの鐘が混ざり、店内はしんと静まり返った。 「…なんか」 「子供より、大人の迷子の方が厄介ですね」 英人は、二人が去ったドアに目をやったまま、ポツリと呟く。 帰り道を知っているのに、帰れなくなってしまう。 大人の迷子は、複雑だと英人は思う。 「でも、ちゃんとお迎えが来たわ」 英人の心を知っているかのように、透子が答える。 「…そうですね」 (女の人は、笑ってる方がいい) 安子の幸せそうな顔を思い出して、英人は心底ホッとする。 「さ、お客様が来る前に、私たちもお茶にしましょうか。あんころ餅もあるしね」 「やった!俺お皿用意します!」 「お願いね」 透子がサイフォンに火をつけ、お湯を沸かす。 フラスコの中で泡が生まれては消えていく様子を、英人はぼんやりと見つめながら呟く。 「…再来月のデザート、プリンアラモードはどうですか?」 透子はパッと顔を上げて微笑んだ。 「それは名案ね。きっとふたりで食べに来てくれるわ」 ロートから湯気がゆらりゆらりとあがり、店内に芳ばしい香りが流れ始めた。
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