五 そこにいるからいるのであって

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五 そこにいるからいるのであって

 我ながら藤谷の連絡先を聞き出していたことは日々の賜物だと思う。仲が良くなってきた証じゃないだろうか。でも家の電話しか連絡の当てがないってどういうことだ。 『もしもし』  これは誰の声だろう。トーンの高い男性の声だと思うけれど。 「あの……金枝といいます。夜分にすみません。藤谷くんのおうちでしょうか」  叔母が電話を掛けるときの文句を思い出しながら、失礼のないように名乗る。普段使わない言葉を使うと舌先が変な感じだ。 『ああ、英のお友だち?』  ごめんねあいつケータイ持ちたがらなくって、と電話越しの相手は愉快そうだ。 『ちょっと待ってね』  電子音のエリーゼのためにが流れ出す。しばらく待つと、ぶつっと曲の盛り上がりで音楽が途切れた。 『金枝……?』  ちょっと眠たそうな声だった。夜の八時を過ぎた頃だけれど、眠いことは眠いけれど、まだ眠るには早いと思ってしまう。 「あのさ、もし大丈夫なら公園まで来て欲しいんだけど。病院に近い方の」  この街には他にも公園がある。たとえば僕と逢が池に落ちたところとか。逢はそれを避けたのか、囁さんみたいに魔法で移動したのは病院に近い公園だった。 『こんな時間に?』 「……囁さんと逢がいるんだけど、ちょっと僕だけじゃ、もう、どうしたらいいかわからなくってさ」  電話の向こうで息を呑むのがわかった。  今は公園の芝生のところに囁さんが横になり、僕はその横へ膝を抱えて座って、逢は僕の背中にくっついている。囁さんに上着を掛けようとしたら、寒さは感じないからいらないと除けられてしまったのが、そういう感覚がないことへのショックがあった。 「好さんにはさっき連絡したんだ。返事が来ないから、たぶんまだメッセージ見てないんだと思う」  どうか誰か力を貸して欲しい。僕だけではいっぱいいっぱいだ。 『……すぐ行く』  電話を切ると、聞き耳を立てていた逢がすっと離れる。 「藤谷……ふうん……」  囁さんの弟だっけ、と確認するのでそうだと答えた。どうしたんだろう。 「藤谷くんも面倒くさそうな奴だよね」 「それ逢が言うの?」 「言う。俺も面倒な側だから」 「なんだそれ」 「一非もでしょ」 「まあね……」  逢と会話ができている。それだけは確かに喜ばしいことのはずだ。         ❊  少し、時間は遡って。  夕暮れに空が染まり、豪奢な庭も影の中に沈もうとしていた頃。塀の上に設置された灯りが何度か瞬きをして安定すると、門の前に立つ三人の顔もはっきりと見えるようになった。町外れの古い大きな洋館を訪ねた二人の女性を、秘書はなんとしてでも追い返そうとしていた。 「ですからお会い致しません」 「ちゃんと(みさき)が来たと伝えたの?」  袖のないドレスにストールを羽織った方が言う。まとめた髪に星が散ったような小粒の石がきらめく飾りを付けている。 「彌幸(みさき)もいると伝えてくれた?」  襟が詰まって袖のあるドレスを着た方が言う。装飾品は美岬とペアのリングが左手の薬指にあるくらいで、引いた口紅が艶やかだった。 二人とも黒いドレスで装って、ちょっとしたパーティーにでも出席するような出で立ちだった。  そんな二人に困惑することなく、堅固な守衛のごとく秘書は門扉の前から動かない。昼の魔法使いといえど、一部を除いて旧家と意見を異にする者とは会わないというのがこの家の主人の方針である。また、しつこいようであれば魔法を使うことも止む無し、と言いつかっている。 「お引き取りください。でないと少々乱暴な措置を取らねばなりません」  秘書は図体も大きくて、女性たちより頭一つ分は背が高いし、スーツを着ていても逞しく鍛えられていることがわかる。とても腕っぷしは敵いそうになく見える。  彌幸は口元を押さえて目を眇めた。 「話を聞く耳すら持とうとしないのは昔と変わらないのねえ」  それにからからと美岬は笑って、 「でも聞かないなら聞かせに行かないと」 「そうね。わざわざ来たのだし」  美岬は彌幸の腰に腕を回して引き寄せる。 「〝――ねえ聞いて? 愛してる、わたしの夜〟」 「〝――星が力となりましょう、陽は眠る時間だから〟」  ビタッ、と秘書が動かなくなった。何か言おうと口を動かそうとするけれど、それすらままならずに目だけが二人の姿を追う。それしかできない。彼の言う乱暴な処置なんて取る余裕もなかった。 「面倒ねえ正面からって」  彌幸が小さな吐息を溢すと、まあそう言わないでと美岬がこめかみに口づける。  あくまで話をするだけだから、ちゃんと玄関から訪ねようとやって来たのだ。寝首を掻くならともかくとして。  面倒だわあと彌幸は美岬の腕にしな垂れかかった。二人は秘書をそのまま門扉の前に置いて、すんなりオートロックの鍵も開けて屋敷の前庭を歩いていく。監視カメラのないこの屋敷には、けれど魔法がそこここにあった。一般的な不審者はこれで防いでしまえるが、そんな魔法を事ともせずに二人はどんどん歩を進める。 「さて、どーこだ」  ステンドグラスが上部に嵌め込まれた玄関の、取っ手まで細かな模様の彫りこまれた扉を勝手に開けて屋敷の中に入る。すると探す手間もなく絨毯の上、目当ての人物が鷹揚な姿勢で二人を迎えた。その態度がとても自然に見えるのが不自然な、何も知らない人間が見たら立派な人物だろうと憶測するような男が一人で立っている。 「これはこれはお二人、わざわざ足を運んで来てくれるとは」  彌幸は美岬にぴったりくっついていた身体を離して、まるで歓待を喜ぶかに笑みを浮かべる。 「あの下品な魔法はあなたが置いたの? 着飾ることもさせないで、クソみたいな性格をそのまま広げておくところは愚直で好感が持てた」  美岬はあーあと天を仰いだ。穏便に話をしに来たのだが。 「君のように頭のおかしな魔法使いにそんなことを言われるとは」 「あら、相変わらず人間って言葉が嫌いなの? 魔法使いなんてたかだか魔法が使えるだけの人間じゃない」 「魔法使いは魔法使い、人間は人間だ。能力が少ない―」 「能力が少ない分だけ人間は魔法使いに劣るって? いつまでも子どもみたいな理屈で生きていられて幸せそうで何よりね」  その続きを言いかけて、いったん彌幸は口を閉じて、笑みの形を保ちながらそっと口元に手を当てた。それならあなたたち昼の魔法使いは夜の魔法使いに劣ることになる、できることが少ないのだから、と―それを言っては相手と同じだ。  段々相手の顔が強張っていくのを認めて、美岬は男の気が短くないことを祈っていた。それにしても彌幸が相手を逆撫でするばかりなので、相当嫌っているんだなと状況を眺めて思う。そうでもしないと自分も落ち着いていられそうになかった。美岬もこの家の、夜の魔法使いを排除したがる者たちの中心になっている彼が大嫌いだった。夜の魔法使いを排除したいということは、今まさに彼の目の前にいる彌幸を消し去ってしまいたいと思う者であるからだ。  本当は美岬一人で行こうと考えていたのだ。でも他人事じゃないからと、彌幸も一緒に来ることになった。  この街に再び現れた、夜の魔法使いについて。  彼女に手を出さないよう、釘を刺しに来たのだ。 以前彌幸を始末しようとしたときに痛い目にあわせたせいか、しばらく静かにしていたようだか。 「……それで、何の用だ?」  押し殺した声で男が言った。 「お茶のもてなしもなしに用件だけ言うなんて、味気ないと思わない?」 「用はなんだ」  ふう、っと彌幸は息を吐いて、美岬の腕に自分の腕を絡め直した。一頻り本人に直接悪態を吐いて疲れたらしい。 「じゃあ単刀直入に。囁に手を出さないで」  今度は美岬の番だった。 「何のことだ」 「そっちの人間がもう動いたのはわかってる。あんたの身内でしょ」 「ああ……至澄か。あの子が考えて動いただけで、わたしとは関係ない」  そんな些末なことをと馬鹿にした顔で言う。美岬はうげっと内心舌を出してやりたい気持ちになる。 「あんたの教育の賜物じゃない?」 「何を言っているんだ。当然のことを親子の会話でしていただけで、それで自分で考えて行動しているんだ。責任はあの子がちゃんと負うさ」  美岬は呆れたのが顔に出そうになる。もういっそ出した方が良いかもしれないが、それものらくらと躱されそうだからしないだけだ。 「あんたさあ……」  昼の魔法使いも最初から夜の魔法使いを目の敵のように思うわけじゃない。  周囲が何を言うか、何を教えるかで違うのだ。 簡単に長く根付いた考え方はなくならない。それでもより良い方へ、より良く生きられる世界にするのは今生きる魔法使いの役目でもあると美岬は思う。  何より美岬も彌幸も、自分たちの子どもが健やかに生きていける世界にしてやりたい。魔法が使えるのは素敵だと言うけれど、痛いのは嫌だからという理由で昼の魔法使いにならず、かといって夜の魔法使いにもならなかった子ども。幸い魔法を持つための器が小さかったから、今はただ魔法が必要ない人間として生きている。けろっとして言っていた、魔法が使えなくても楽しく生きていけるから、幸せだから大丈夫だと。 美岬と彌幸の子どもは魔法使いにならなかったけれど、もしかしたらこれからもそうであるとは限らない。魔法使いになる可能性を持つのは、自分の子どもだけじゃない。  それに、この世界では魔法が使えても使えなくても、生きていけるのだ。  だから夜の魔法使いだからといって、ただ夜の魔法使いとして生きているからといって、それを理由に排除されるなんておかしいのだ。 「……たぶん、あんたに何を言ったところで、理解できないんだろうとは思うんだけど」 「それならわたしにもわかるように話せばいいだろう?」 「わかる気もない奴が何言ってるの」  つい本音が出た。とんでもない、と彼は肩を竦めてみせる。 「魔法があって、夜の魔法使いがいて、それで昼の魔法使いは成り立っているの」  魔法を使う度に魔法に近付いていっていると、そう彌幸が吐露したことがある。きっと自分は最後には魔法になるのだと。夜の魔法使いの墓を見たことはある? と聞かれたとき、美岬は答えられなかった。 「夜の魔法使いが魔法に近いことは知っているが、しかしだからといって、彼らがいる理由にはならない。いずれ魔法の糧になるというが、ならなぜ魔法使いとして存在している必要があるんだ?」  魔法に近く魔法の糧となるならば、最初から魔法であればいいじゃないかと、この男はそれが最も最適な道理だと信じている。わざわざ魔法と昼の魔法使いの間に夜の魔法使いがいる必要はない。 「夜の魔法使いなんて、いる方が邪魔だろう」  そうしてその考え方に行き着く。  彌幸が腕に力を入れた。思わずという感じだ。顔には笑みを張り付けている。 「……よく言えたものね。わたしがここにいるのに」 「ああ、失敬。我々には憚ることでもないのでね」  我々、なんて。とうに気づいていたけれど、男以外の昼の魔法使いの気配が増えていた。結局正面から訪ねたところでこうなるのだ。寝首を掻いた方が良かったかもしれない。 「彌幸、」 「大丈夫」  何せわたしは魔法に近い、夜の魔法使いだから。二人は指を絡めてしっかり結ぶ。 「存在の意義なんて、あなたが決められると思っているなら傲慢ね」  前にも言ったでしょう? と彌幸が首を傾げた拍子に、ふわりと彼女の香水が香った。どうせあちらにはお茶を出す気持ちの余裕もないだろうからと、今日は紅茶を模した香りを纏っていた。本当にその通りだったなと、美岬はなんだか彌幸を愛おしく思う気持ちでいっぱいになった。 「夜の魔法使いは夜の魔法使いとしてただ生まれただけ。誰かがそう決めたわけじゃないの。それに理由を付けるなら……そう、」  彌幸の理由は美岬の理由だ。 「わたしは美岬と生きるために、夜の魔法使いなの」  その首から上の飾りで理解できる? と言ったのは余計だったと思う。  姿の見えなかった昼の魔法使いたちが姿を現す。この中に至澄という子はいるのだろうか、と美岬はつい考える。 「もてなしがまだだったな」  勝てると思っている人間の、自身に満ちた声だ。 「……あ。好ちゃんに遅くなるって言ったっけ?」 「ちゃんと書置きしてきた。戸締りをして、あったかくして寝るようにって」  昼の魔法使いの言葉が紡がれようとする。  それより二人の、彌幸と美岬の魔法が早い。         ❊  はたと、よく考えたらこんな時間に好さんを呼び出してはいけないんじゃ、危ないし、と気づいたときに丁度スマホが振動した。画面に好さんの名前が表示されている。もしもし、と出ると『ごめんねさっきメッセージ見た!』と勢いの良い声が飛んで来た。藤谷と反対に元気だ。 『一非くん大丈夫? 無理してない?』 「ああ……ちょっと無理しないとやっていけないっていうか……」  真っ先に僕の心配をしてくれたのが嬉しかった。 『英くんもそっちに行ってる?』 「うん。さっき電話したところだから、たぶんもうすぐ来るんじゃないかな」  そういえば好さんも藤谷も、どこに住んでいるのか聞いたことがなかったとはたと気づいた。どのくらいここから離れているんだろう。 『英くんがいるなら大丈夫だと思うんだけど、』  そうだろうか? と囁さんの話題に関しての藤谷を思う。 『ちょっと今日は家に誰も居なくて、わたしが留守番なの。お母さんたちが出掛けてて』 「そうだったんだ。大丈夫。明日学校で話すね」 『それじゃあ何かあったら電話して。話すだけならできるから』 「わかった。ありがとう好さん」  電話を切ると、やっぱり逢が聞き耳を立てていた。さっきからなんなんだろう。 「逢?」  逢は背中から腕を回して、僕にぴったりくっついている。人の感触があることへの安堵と、逢は確かに人間としては死んでしまったことの事実と、今ここに夜の魔法使いとして存在している現実が合わさって、頭が冷えてくると疑問もわいたりして気持ちが落ち着かない。確かなのは、また逢がいなくなってしまうのは嫌だということだけだ。 「……俺も好さんと話したかった」 「え、ごめん」 「ううん。明日でいい。うん、明日」  逢に、明日がある。 「一非?」 「……なんか、変な感じがして」 「俺がここにいるから?」 「……そう。うん。だって、一度は逢が死んだと思ってたんだ」 「まあ……実際今生きてるのかって言われたら死んではいないって感じと言うか……俺もよくわかんないけどさ」 「魔法になったの?」 「ああ、それが近いかも。まだ完全に魔法そのものじゃないけど、いずれ魔法になるんだろうなって感じがする」 「魔法になるってどんな感じ?」  逢は今は光を纏っていなくて、それでも夜なのに姿がくっきりわかる。ちゃんとそこに形が見える。着ている服も、星の宿った目も、長い前髪も、指先も。逢がここにいる。 「そうだな……魔法の中にいるのは、居心地がいい」  囁さんが見せてくれた風景が蘇る。光に満ちて、寂しいと思った場所を、逢は居心地がいいと言う。 「逢には、僕とは景色が違って見える?」 「違ってみえてると思う。魔法がその辺中にあるの、一非は見えないでしょ?」 「見えないよ……寂しくはない?」 「寂しくないよ。一非がいるから」  たぶんさ、と逢は頭を僕の肩の上に載せた。冷たくもなく、温かいわけでもない。 「俺は一非がいるから、それで今もまだ魔法にならずにいるんだ」  だからいつか一非がいなくなるときまで、俺はこのまま魔法使いだよ。  確証は誰にもない。僕は魔法使いじゃないし、魔法のことはわからないし、囁さんだって今は人間の姿だ。魔法そのものにはなっていない。  僕はずっと逢と一緒にいられるんだろうか。いつか死ぬときまで。  今こうして逢が触れてくれるのが、逢に触れられるのが心地好い。 「話し掛けてもいいかい?」  囁さんが横になったまま口を開いた。喋れるようになったみたいだ。 「一非」 「はい」 「君は夜の魔法使いでも、昼の魔法使いでもない」 「そうですね」  逢が夜の魔法使いだった。 「だがそこの……ゆたか?」 「逢です。逢魔が時の逢でゆたか」  逢が言うのに、そりゃあいいと、僕に言ったのと同じことを口にした。 「君は今、夜の魔法使いとして存在している。夜の魔法使いになるのだって理由はない。ある日突然そうなるんだ。たとえ昼の魔法使いでも、今まで一切魔法に関わらなかったとしても。だから今の形で君が存在していても、おかしなことは一つもない」 「俺にしたらこんなことになっても、魔法使いがいるのがまず信じられませんけどね」 「魔法使いでない人間ならそうかもしれない。でも生まれたそのときから魔法に関わって生きる人間もいるんだよ。それは否定しないでほしい」 「しませんよ。不思議ですけど。どんな人間もそこにいたらいるんですから」  見えないものにする方がおかしいでしょと言う後半が欠伸混じりだった。眠いのか。 「改めて聞くが、君たち二人、わたしの弟子になるかい?」  出会った最初に問われたこと。囁さんの、悪い魔法使いの弟子になるかならないか。 「夜の魔法使いの弟子。かといって、教えることは少ないだろう。何せ逢は魔法そのものに近い。きっとすぐに私より魔法を上手く扱うだろう」 今思い返すと、どうして自分のことを悪い魔法使いだなんて囁さんは言ったのか。昼の魔法使いに嫌われているから? 「君たちが困ったときに、わたしがそこから抜け出すための標になる」  囁さんはゆっくりした動作で上半身を起こした。  なんと答えようかと、今度は迷ってしまった。すると逢が迷う僕より早く答える。 「なりませんよ」 「そうか」 「ていうか囁さん、よく自分のこと放ったらかしてそんなこと言えますね」 「わたしのこと?」 「さっきの人」 「至澄かい?」 「そう、その人。ちゃんと話をしたことあるんですか? ないですよね? すっごい拗れてましたもんね」  逢の言葉に遠慮がない。聞いているこちらがひやひやするくらいだ。囁さんは凪いだように見えるけれど、実際どう思っているのかなんてわからない。 「……至澄と」 「ちゃんと何に怒ってるかわかってますか?」  囁さんは数度瞬きして、 「わたしは至澄には必要のない人間だと思っている」 「最低ですね」 「わたしは夜の魔法使いだから。至澄は昼の魔法使いで、ずっと夜の魔法使いは必要がないと言っていて」  だから逃げたんだ。  ぽつりと、何か納得したように囁さんは言葉を落とした。 「……逢さあ」 「自分のことがあるから他人のことが見えるんでしょわかってるよ」  逢は後ろから抱き着くのをやめて、すぐに僕の目の前にしゃがんだ。きちんと目が合う。 「ごめんなさい」 「いいよ」 「早過ぎる」 「だってもう怒ってないよ」 「……一非は俺に甘いよ」 「いいでしょ甘くて。僕もこれから逢が困ってるときちゃんと聞くから」 「聞かなくていいよ自分から話すから」 「ちゃんとしつこく聞くからね」 「もういいってごめんってば」  囁さんがいるのも構わず話していると、どこかから僕の名前を呼ぶ声がした。藤谷だ。公園の入り口にから樹に隠れる芝生のスペースは見つけづらい。やがて足音が近づいて、藤谷が姿を現した。僕と逢を見、囁さんの姿を認めると一瞬動きが固まった。 「あ、藤谷くん」  逢が一番に声を掛けた。それにつられて囁さんが藤谷を見て、藤谷があからさまに動揺する。 「英」 「…………姉さん」  心許なさそうな表情だった。本当に大丈夫だろうか。意を決した様子でようやく藤谷が僕たちのところに来た。まあ座ってと逢に促されて芝生の上にすとんと膝を付き、そのまま力なく腰を下ろして正座になった。  沈黙が流れて、逢が藤谷の正気を確かめるために目の前で手をひらひら泳がせる。 「ふーじーたーにーくん」  藤谷は逢を視界に捉える。 「耶的逢」 「うわフルネームで呼んだ」 「そういう奴なんだよ藤谷は」 「なんなんだお前ら」  ムッと眉を顰めていつもの藤谷の雰囲気が戻って来る。 「逢でいいよ」 「耶的」 「逢って呼んで」 「耶的で十分だろ」 「ゆ、た、か」 「……」 「ほら」 「………………ゆたか」 「えっいいな俺も一非って言って」 「なんなんだよ二人して!」  囁さんはぼうっと成り行きを見ている。 「英」 「なんだよ!」  流れで勢い良く返事をしてから、藤谷ははっとして気まずそうに目を逸らす。 「……その、」 「英にわたしは必要だったか?」  まごついて何か言おうと努力していた藤谷は、面食らったみたいに口を閉じた。それから膝の上に置いた拳に力を入れて、囁さんを睨むように真正面から捉える。 「必要とかじゃなくて、」  少しだけ声が震えている。 「そうじゃなくて、囁は囁でやりたいこととかあるだろうし、引き留めるほど子どもじゃないし、俺だってそれくらい考えたよ。ただ……」  囁さんは藤谷の言葉を待つ。 「……ただ、話してほしかった。何も言わずに出て行ったから。囁が夜の魔法使いになったからって、俺はそれで囁に何か思ったりはしないよ。父さんや母さんもそうだし、和足だってそうだ」  わたるって誰だろう。もしかしたらさっき電話に出た人の可能性もある。疑問に思いながら、逢がすっと人差し指を僕の口に当てた仕草を懐かしく思っていた。僕だってこういうときに余計な嘴を挟まない心遣いができるようになってるんだ。  囁さんは唇を薄く開いて、言葉を探すように途切れがちに話す。 「わたしは……夜の魔法使いだから。夜の魔法使いは、そんなにいない。それは知っているだろう。わたしは、わたしの見える世界が……寂しく思えて」  逢が正面から抱き着いてくる。さっき寂しくないかと僕が聞いたからかもしれない。その背中を撫でて、囁さんの言葉の続きに耳を澄ます。 「わたしはいいが、一人で夜の魔法使いになったとき……誰にも言えなかったとき、誰かがいないとき……一人でないのがわかるように、その誰かになれると思ったんだ」  どこかで新たに生まれる夜の魔法使いのために。  囁さんは夜の魔法使いのために生きることにしたのだ。 「……じゃあそうやって言っていけよ」 「そのときのわたしには、きちんと言葉を見つけられなかった」 「だからって、」 「そうだ。だからといって、それを蔑ろにするべきじゃなかった。英は賢いものな」 「……は、」  藤谷は言われたことが信じられなかったようで、間を開けて囁さんの言ったことを理解すると、口を開いたり閉じたり、横で見ていても照れているのがわかった。褒められるのに弱いのか。 「俺は、そんな、」 「ちゃんと言葉を尽くさなくて悪かった。すまなかった」  囁さんに謝られて、藤谷はますます落ち着きがなくなる。 「別に、今、聞いたし……そりゃ、もっと早い方が、良かったけど。ええと。わかった。その代わり、」  一度自分を落ち着けるように深呼吸をして、 「また、会ってほしい」 「……それでいいのか?」 「いい。どうせまたどこかに行くんだろ。囁がその方が楽なのは知ってる」 「……ああ」  囁さんは否定しない。 「だったら、またいつか、ちゃんと呼んだときに来てくれ」  ちゃんと呼ぶ、というのが引っ掛かかった。逢も言っていたけれど、ちゃんと呼ぶってどういうことだ。 「わかった」  囁さんは了承して、それから僕の方を見た。 「僕も、弟子になるのはもう大丈夫です」  逢がいるので、と抱き着いて離れようとしないのを指し示した。  そうか、と囁さんは立ち上がる。 「止まない雨はないし、明けない夜はないし、覚めない夢もない」  それは囁さんの好きなフレーズなのかもしれない。 「それを伝えに行かないとな」 「あの、囁さん」 「なんだ?」  立ち去ろうとする気配を察っして、最後に聞いておきたかったことを僕は口にする。 「囁さんは、悪い魔法使いなんですか?」  もちろん、と。 「わたしは世界の敵だからな」  それは僕の言った言葉だ。 「隣人の顔をしているよりその方が、どこかの誰かは世界を受け入れるものだ」  だからわたしは悪い魔法使いなのさ。  囁さんの金色の瞳に星が光る。シャン、と金属の響く音がする。  そうして囁さんは、僕たちの前からいなくなった。  夜の風が吹いて、まだそのひんやりした温度が染みる。 「藤谷」  口を閉ざしていたけれど、ややあって藤谷はああともうんともつかない微妙な返事をした。 「僕が電話したときに出てくれたのってお父さん?」  なんでそんなことをと、藤谷は訝し気な顔になる。逢が溜息を吐いた。 「……和足だ」 「和足さんってお兄さん?」 「いや……俺を見ててくれる人」 「なにそれ」 「昔……攫われたことがあって……」 「え?」 「は?」  これには逢も驚いたようだ。 「やったのが祖父と一部の親戚で……俺も攫われたと思ってなくて、気が付いたら魔法を埋め込まれてて」 「待った。そんな重たい話が出てくるとは思ってなかった」 「お前が聞いたんだろうが」  藤谷は疲れたように、芝生の上にごろんと転がった。 「囁は……魔法使いになりたくなかったんだ。だから昼の魔法使いになるのも嫌がってた」 俺もなりたくはなかったな。そう小さな声で付け足した。 そういえば。 「……藤谷が魔法使うところ、見たことない」 「生きててそう使うもんじゃないだろ」 「……俺知ってるよ。好さんの誕生日に、」 「なんで知ってるんだ逢お前喋るな」  藤谷が飛び起きた。 「好さんから聞いた。手品の話かなんかだと思ってた」 「僕それ聞いたことない」 「じゃあ藤谷くんが小学生の頃から好さんのこと好きだった話も知らないでしょ」 「知らない何それ」 「お前ら静かにしろ!」  いつもの不機嫌な顔の藤谷になる。 そっとしておいてあげようかとも思ったけれど、藤谷は放っておくと朝まで放心していそうだったから、そういうのはせめて風邪を引かないよう家でやってほしい。 「藤谷さ、ちゃんと囁さんと話せて良かったね」  そう言うと、 「……金枝」  僕のことは名前で呼んでくれないんだ。きっとまだ時間が必要なんだ。 「お前が呼ばなかったら、たぶんもっと時間が掛かってた」  だから、と。 「……ありがとう」 「どういたしまして……?」  お礼を言われることでもないけどな、と思ったけれど、それは言わないでおいた。
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