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六 夜が来れば朝も来る
朝陽が昇るところを見るのが好きだ。
至澄は昨日家に帰らなかった。帰らなかったところで気にするのは父の秘書くらいのものだし。至澄は昼の魔法使いとして、夜の魔法使いはいない方がいいとずっと言われてきて育った。それが間違いだと言う人は、彼女の周囲にはいなかった。
そして、至澄が夜の魔法使いを消し去ることがそれほど望まれていなかったのは、なんとなく自分自身でもわかっていた。期待されていなかったのだ。昼の魔法使いがこの先も存在するよう、そのための器となればそれで良いと。ようはバケツリレーのバケツであれば良かったのだ。
「ささや……」
自分が呼んでも来ないことを思い出して、すぐに口を噤んだ。
誰もいない、監視カメラもない屋上の一つや二つは探せばあって、そこが至澄の休まる場所になっていた。夜明けに来れば朝陽も眺められる。
「至澄」
空耳だと思って無視した。
❊
郵便受けを開ける音がした。味噌汁の匂いがする。小ぢんまりとした家の中に朝の匂いがして、そろそろ起きないとと思ったところに、スマホのアラームが鳴る。ジリジリジリ……と小さい頃に使っていた目覚まし時計と同じ音。たぶん少しは違うんだろうけど記憶は曖昧で、僕にとってはほとんど同じ音だった。
「おはよう一非」
逢の声だ。まだ夢なんだろうか。違う。夢は見なかった。
「一非?」
おかしいな、とぼんやり目を開く。徐々に視界がはっきりしてくる。
一番星の宿った目と目が合う。紅葉したみたいな赤茶色の髪が頬に掛かっていて、隣に横になっているんだなあと思いながら見つめ合っていた。
カーテンの隙間から入り込んだ朝陽が一筋、逢を貫いている。
逢は死んだのだ。
死んではいない。魔法になった。
魔法は逢だろうか。今目の前にいる。池に沈んだあの日と同じ服装で。逢は暑がりで、冬でもそれほど着込まない。
「逢」
名前を呼んだら逢の手が伸びてきて、僕の髪を撫でる。耳に触れた手に温度を感じない。冷たくないだけましかもしれない。
逢は、
「一非……?」
鼻の奥がつんとして、僕はまだ現実を受け止め切れていなかったんだなと知った。
駄目だ。堪えられない。嗚咽が漏れた。涙が出てきてしまう。
逢が困惑して身を起こす。
僕は布団を引き寄せて、起き上がらずにすっぽり被ってしまった。
「一非、どうしたの。ねえ」
涙がどんどん出てくる。下手くそに呻きながら、今日は学校に行くのは無理そうだと思う。
❊
「至澄」
二回目は案外近くで聞こえた。至澄のすぐ後ろだ。恐る恐る、自身に生まれる期待を念入りに踏みつけながら、至澄は振り返る。
朝陽を眩しそうに浴びて、そこに囁が立っていた。
ストロベリーブロンドの髪がきらきらしていて綺麗だと思った。至澄は泣きそうになる。囁がいなくなってから、ずっと囁を嫌いだと思い続けて、絶対に蓋をした気持ちが出てこないように沈めておいたのに。心臓が波立つみたいにうるさい。
囁は至澄に会いに来てくれのだろうか。
そう思ったら、気持ちを閉じ込めた箱なんて簡単に壊れてしまいそうだった。
「……生きてたんだ」
慎重に至澄は口を開いた。今すぐ魔法を使ってしまえばいいのに、あんまり囁が近くにいるからそれができないでいる。
囁が至澄に魔法を使う気配はない。どういうつもりなのかと、至澄は状況を測りかねていた。
「夜の魔法使いは、そう簡単には死なないよ」
「しつこいんだ」
「しぶといのさ」
朝陽はどんどん姿を見せる。夜なんて吹き飛ばしてしまって、やがて温かな色で世界を包む。
昼の魔法使いも、そういうものだと信じていたときがあった。今では儚い夢のようで、一笑に付されるくらいで砕ける脆さになってしまった。
「至澄は今でも、夜の魔法使いは消えてしまった方がいいと思ってる?」
囁の、夜に輝く星のように金色の瞳は、朝陽の中でもそこに囁がいることを知らしめていた。この囁が夢であったら良かったのにと、至澄は思わずにはいられない。囁と二人、覚めない夢の中にいられたら良かったのに。
「……そうだよ。いなくなってくれたらいい」
「そうか」
「そう」
「なら、やっぱり至澄に、わたしは必要じゃない?」
すごくずるい聞き方だ、と思ったときには至澄は囁の肩に掴みかかっていた。そうじゃない。なんでそんな言い方をするんだと。なんで、
「囁はあたしの話全然聞かないでしょ!」
囁はわずかに目を見開いて、わかりにくいが驚いているようだった。
「聞きに、来た、つもりだか」
「あんたのそれは聞くって言わない!」
叫んで至澄は肩で息をする。もう全部嫌になって、なりふり構わず泣き喚いてやりたい気分だった。何もかも全部否定してしまって、空っぽになりたかった。
「至澄、」
こんな魔法使いになりたくなかった。
次の優秀な誰かのために、魔法を取っておくためだけの容れ物になりたくなんかなかった。
家のために、周囲の理想のために生きていくのは嫌だった。
「囁はなんで勝手にどこかに行っちゃうの!」
囁がいたから至澄はなりたい魔法使いの姿があった。
囁が夜の魔法使いになったと聞いて、それでいなくなってしまったと聞いて、至澄は暗い穴の底に一人で置いて行かれてしまったと思った。
囁は魔法使いにならないと言っていたのに、最悪な形で裏切られたと思った。
たまたま友だちになった。魔法使いがいてもいなくてもいい世の中で、魔法使いであることを選んでいた至澄を、囁はそうなんだという一言だけで受け入れてくれた。何かをするべきだとか、こうあるべきだとか、囁は言わなかった。
至澄にとって、囁は生きるための光だった。
至澄は囁が好きだった。
それが突然いなくなった。
至澄の心はぽっきり折れて、なかなか治らない。
「あたしは……あたしは、」
言うな、と自分に言い聞かせる。
ぎゅうっと心の大事な部分を踏みつける。抑えつける。
囁は自分の肩を掴んでいる手に手を重ねた。片方だけだったけれど、それだけで至澄の心臓が跳ねる。
「……一人にしてしまったんだな。わたしは、至澄を」
今さらそれに気づかないでほしかった。いっそいつまでも至澄の心を踏みにじっていてほしかった。
「今さら何? 慰めるつもり?」
至澄、と呼んでくれる声が静かで好きだった。
「そうじゃない。わたしは、至澄がどうしたいか、聞きたくて」
「……何言ってんの?」
「わたしは夜の魔法使いだから……暗いところに立ってる誰かの、標になるのが役目なんだ」
ハッと至澄は笑い飛ばした。
「勝手に人が暗いところにいるって決めつけないで」
「そうだな。ごめん」
「簡単に謝るな」
「……至澄」
もう名前を呼ばないでほしい。
「わたしは、至澄を今でも好きだと思ってるよ」
至澄は言葉を失った。囁は何を、
「でも、わたしが至澄を好きだと思うのと、至澄がわたしを好きだと思うのは、おそらく違うものなんだと思う」
……バレていた。
勘付かれていた。
至澄は頭が真っ白になる。今すぐこの場から逃げ出したかった。もう何を言えばいいのかもどうしたらいいのかもわからない。とにかく逃げてしまいたい。
「……至澄?」
何もかも今頃だ。
今頃だけれど。
「……そうだよ。あんたの好きとあたしの好きは違う」
認めていいのか。本当に? ここまで立っているために抑えつけていたものを、そこから足を退けてもいいんだろうか。
至澄が囁の全部に触れたいと思っても、至澄のためにずっと一緒にいてほしいと願っても、それは囁の望むところではない。今までのことを、至澄から遠くにいたことを全部なかったことにする代わりにそうしろと言ってしまえば楽かもしれない。けれどひどいことだとわかっているから、至澄はそれができない。心を踏みつけるのはとても痛いことだと至澄は知っている。
夜の魔法使いなんていなくなってしまえばいいと、そう教えられて、そういう空気の中で生きてきた。だからそのためのひどいことはできる。魔法を魔法使いから剥がそうとするのはとても痛いことだ。自分に試みたこともあるから、その痛みはとてもよく知っている。それでも行いに揺らぐことはなかった。
今、至澄は。
「夜の魔法使いは、魔法の糧だって」
「そういう言い方もできるが」
「糧ってどういう意味なの」
魔法は昼の魔法使いの生きる糧だ。魔法使いになったなら、それがないと生きていかれない。その魔法の糧であるのが夜の魔法使いなのだと聞いていた。本当のところは至澄にはわかっていなかったけれど、想像することならできる。
「夜の魔法使いは、魔法を使うごとに魔法に近付いているんだ。だからきっと、死んだら魔法そのものになる」
囁から―夜の魔法使いからようやくその言葉を聞いて、至澄は一つだけ、囁を手に入れる方法に思い至る。
「あたしは囁に、あたしと同じように好きになってほしいとは思わない」
できるならそうして欲しいけれど。でも囁は違うのだ。
囁は至澄が何を言わんとしているのか、見当が付けられない。
「だけどその代わり、あたしはあんたが死ぬとき、必ずそばにいる」
囁はいつか魔法になる。魔法は至澄の糧となる。
それならば。
「あたしのいないところで、絶対に死なないで」
魔法となった囁の全てを、至澄が糧とすればいいだけだ。
至澄が囁の棺となる。自分以外にその場所を譲るわけにはいかない。
囁は、
「……てっきり、一緒にいたいと言うかと思ってた」
拍子抜けしたような顔で、至澄が言いたいのを呑み込んだ言葉をあっさり口にする。腹の底で怒りが燻る。
「言うわけないでしょ。囁は一人でふらついてたらいいんだ」
誰かと一緒にいるのが苦痛な癖に、それでも寂しいとかがわかるから囁は人の世話を焼こうとする。弟子を取るとか言い出す。自分についぞ向けられなかったものだから、至澄はそれが不愉快で、そういうところもどうしようもなく嫌いになれなかった。
「死ぬときはちゃんとあたしに言って」
至澄がどういう心積もりなのか、わかっているのかいないのか。囁は頷いた。
「知らせる」
どう知らせるのかまだわからないけれど。本当に約束を守ってくれるのかもわからないけれど。
朝陽がついに夜を眠らせ、雲は金の縁取りを装い青空の中を優美に泳ぐ。囁もまた、どこかに行ってしまうんだろう。至澄の知らないところへと。
「止まない雨はないし、明けない夜はないし、覚めない夢もないんだ」
朝陽の温かさを浴びて、囁は今にも溶けて消えてしまいそうだ。
「……あんたまだそれ言ってるの」
まだ優しい昼の魔法使いになることを夢見ていた頃に、至澄が囁から聞いた言葉だ。
「嫌いじゃないだろ?」
ついでみたいに言って囁は、シャン、と小気味良い音を鳴らして消えてしまう。
なんとも難しい顔をした至澄が朝の屋上に残された。
今度は約束が一つあるから、置いて行かれたと思わない。それとは別に言ってやりたいことがあるけれど、いつかまた出会うときまでそれは取っておくことにする。
もしかしたらそれは囁が死ぬときかもしれないけれど。
そのときは囁が至澄の糧となるのだ。
全部呑み込む心積もりはもうできている。
次こそは、ちゃんと囁の名前を呼ぶのだ。一滴の不安もなく、必ず傍にいると信じて名前を呼ぶこと。
夜の魔法使いはそうしないと、そこに存在できないのだ。
❊
一非が学校へ行くための支度をしないのを訝しんだのか、彼の叔母が部屋まで来た。声を掛けても返事がないし、逢も返事のしようがないし、そうっと襖が開くのを見て逢は姿を消す。逢は魔法そのもの―の、ようなものだと逢自身は思っている。とても魔法に近いもの―だから、幽霊みたいに見える人しか見えないという作用がない。自分で姿を消して気をつけなければならない。
他人に気づかれることを逢は気にしないけれど、一非が厄介なことになるのは嫌なので気を遣う。この先ずっと一非と一緒に生きていくつもりだから、一非のためにならないことはしないと決めている。自分が人間ではなくなった日に、一非を刺すように冷たい水の中に溺れさせてしまったことを強く後悔している。
「一非ー入るよ」
飄々とした人だった。
「なあに、かまくら?」
布団を被って丸まった一非に近付いて、はいはい捲りますよーと遠慮なく頭の部分だろうと思われる布団を捲り上げた。逢は彼女が来るまで布団の上から一非を抱き締めたり撫でたりしていたけれど、あれは慰めになっただろうかと考える。
「おはよ。今日は学校休む?」
洟をすすり、上手く声を出せなかったのか一非は一度咳をする。
「……休む」
「じゃあ体調悪いって連絡しておくから。実際のところはどう?」
「……元気じゃない」
んふふと機嫌が良さそうな、面白いものを見たような含み笑いがする。布団にできた窓が閉じられる。
「ねえ、叔母さん」
「なあに?」
部屋のカーテンを開けながら聞き返す。朝陽が部屋の中に広がった。
「……身体がないと、人間って人間じゃないと思う?」
「わたしは哲学よくわからないんだけど」
「そうじゃない……そうなのかな……?」
かまくらの声は小さくなっていく。
「身体があればそれで人間なら、そもそも人間って何って話じゃない? 堂々巡りになっちゃうと思うけど」
「そうなのかなあ……」
「進路の話?」
「違うよ……」
「逢くんのこと?」
急に自分の名前が出てきて、ことの成り行きを眺めていた逢は驚いてしまう。一非の返事はない。
「五億個の星でもプレゼントされた?」
「されてないよ。無茶苦茶じゃん」
「昔読んでくれたのに忘れた? そばで聴いてた兄さんが号泣しててすごく面白かったのに」
「……今父さんの話しないで」
「佑さんも一非のこと大好きだから兄さんの手綱をよく捌いていてすごい……そうだった、昨日またいっぱい食材送ってくれたから、ごはん食べれそうだったら適当に食べてね。わたし仕事行っちゃうから」
「うん……」
「あ、一非、」
まだ何かあるの? と言おうとして、一非は自分から話を始めたことに気づいて相槌だけ打つ。
「そもそも人間かどうかって大事?」
じゃあいってきます、と叔母はさっさと部屋を出て行った。電話を掛ける声が廊下の向こうに聞こえる。靴の爪先を鳴らし、ガラガラと玄関の戸を開ける音が聴こえ、鍵を掛ける音を仕上げにさせて出掛けて行った。家の中に、一非と逢の二人だけになる。
逢は自分の姿が人に見えるようにして、すとんと畳の上に座った。かまくらから一非が出てくる気配がないので、手持ち無沙汰に部屋の中を見回す。
一非の部屋は和室だった。でも砂壁のところには障子ではなくカーテンが取り付けられた窓があって不思議な感じがする。逢が住んでいたのは白い壁紙を貼った壁がほとんどの、床はフローリングだったから新鮮だった。
「一非、あのさ」
逢は言葉を選ぶ。なんとなくだが、さっきの彼の叔母との遣り取りを聞いていて、自分のことで泣かせてしまっているんだなとは察した。さすがにあれで気づかない逢ではない。
こんなことで悩まないでほしいし、泣かないでほしい。
でも一非には大事なことなんだろうなと思う。自分が一非にとって大事な部分であるのは嬉しい。ちゃんと話したいと思う。
「俺はこんなになっちゃったけど、ちゃんと自分自身で生きて考えてるつもりなんだよ」
心の話はよくわからない。そもそも人間の心を指すとき心臓を示すのが逢には理解できない。筋肉と血液が何を考えているのかと思う。かといって思考するといえば頭を指すので人間って言うことがめちゃくちゃだなあと思っている。
「死んだってことになってるのはわかるし、でもたぶん身体は残ってないはずなんだよね。魔法になるって全部持っていかれる感じだから」
あの日、溺れた二人を助けたのは逢の母親だった。どうして逢たちがそこにいたのを知ったのかはわからない。どうやって助けたのかも。助けた自分の子どもが跡形もなく目の前から消えて、それでも随分落ち着いた顔をしていたのが、意識が覚束なかったのにそれだけはやたらと覚えている。
逢の両親は不思議な人たちで、とても仲が良かったのに、父親が行方不明となって死亡届を出したときも母親は冷静だった。幼い逢はそれに傷ついたし、母親が「その辺りにいることでしょう」と言ったときもいい加減なことをと思っていたけれど。適当だったんじゃないのかもしれないと、今さらそう考えなくもない。空から見守っているのだと言うより母親なりに誠実だったのかもしれない。
一非が、周囲が死んだと思っているということは、逢は行方不明の扱いにはならなかったということだ。自分の死亡届とかどうしたんだろうと不思議に思っている。昔から診てもらってた医者の先生がいたけど、もしかしたら。
「…………お墓」
布団から声がした。微かに動く気配がして、一非は鼻から上だけ覗かせる。
「お墓、あるって聞いたけど」
目が真っ赤なのを見て逢の胸が痛む。
「あるんじゃない……? 父さんの墓も一応あるし……何納めてるんだろ。名前だけ彫ったのかな」
「……ふうん」
「俺の墓参りしたいの……?」
魔法に近くなっただけで死んだつもりがないので、逢は微妙な顔になる。
「……わかんない」
わからないんだよ、と。
「逢が死んだって聞いて……ずーっと、変な感じで。もやもやしたのがずっと喉の辺りに溜まってて。どうしたらなくなるのかわからなくて。そしたら逢、魔法になったとか、いうし。今いてくれるの、嬉しいけど、でも逢なのかなって、逢だって思うけど、でも、」
一非の目に涙が溜まっていく。逢も泣けるなら泣いてしまいたいような気分になって、代わりに一非を抱き締めた。やっぱり布団の上からで、はやくここから出てきてくれないかなと思う。
「俺だよ。逢。魔法になっても。一非のことが大好きな逢だよ」
一非が納得しなければ、いつまでだって一非は悲しいままなんだろうと逢は触れて慰めることしかできない。言葉で伝えるのは難しい。
「俺は一非がいるからまだ逢なんだよ」
一非がいるから完全に魔法になっていないだけで。
「魔法そのものになるって囁さん言ってた」
「言ってたけど、それに近いだけ。魔法そのものって、そのものってことはもうただ魔法でしょ? 俺にはちゃんと意思があるし、誰かの魔法として使われないし、俺は一非とずっと一緒にいるからな」
「ずっと……」
「ずっとだよ。一非が俺のこと好きじゃなくなったら、まあ、ちょっとは考えるけどさ……」
言ってしまってからこれは自分も一非も傷付くことだったなと思った。やってしまったと気づいて一非の反応を待つ。
「逢、」
布団から、頭全体がようやく出てくる。
「もしかして昨日からずっと抱き着いてきたの、悲しいから?」
「えっと……一非が、」
「僕だけじゃないでしょ」
出るから放してと言うので、逢は大人しく布団から身を離した。
一非は言ったとおりに布団から出てきて、ふう、と一息吐いて、改めて腕を広げるので訳がわからないまま逢は抱き締める。
「僕だけ平気じゃないのかと思ってた」
「……一非?」
「泣いたらすっきりした」
「そう……」
「今の逢も逢なんだ。泣く?」
「俺はいいよ」
「悲しくなったらいつでもいいよ」
「うん……?」
「お腹空いた。ごはん食べよ。逢って今は食べたりするの?」
「まだやってみてないからわからないけど。どうかな」
「じゃあ僕がごはん作ってあげる」
「手伝うよ」
「あ、そうだ」
一非が抱き締めていた腕を解いたので、逢は惜しい気持ちになりながらも自分も離れようとした。
「泣いたし布団被ってたしひどい顔になってると思うんだけど、」
そういえばキスとかしてなくない?
なんて、一非が言うものだから。言葉の前後の繋がりがおかしくたって、そんなの関係なかった。
「一非はいつも一非だな」
大好きを愛していると言っても引かれないかなと、いずれ言えたらいいなと思いながら、逢は一非と唇を合わせた。
❊
ふと、逢に出会った日のことを思い出した。
「俺は耶的逢。試験が終わったあと会えないかな?」
高校の入試の日だった。つい赤茶色の髪を見つめてしまって、地毛だと言って目を細めたのがちょっといいなと思ったけれど、そういうのとは距離を置けるよう選んだ場所だったと思い直して突っ慳貪な返事をしてしまったと思う。
「なんで?」
「なんでって……君と仲好くなりたいから」
「それでわざわざこんなタイミングで声掛けに来たわけ?」
「うん」
試験を受ける教室へ向かっている途中だった。急に目の前に背の高い人間に立ち塞がられて、正直ちょっと怖かった。
「……意味わかんない」
「そうだな……友だちになりたくて」
なんだそれと思っていたら、そろそろ教室に入るよう促す声が廊下に響いた。校門のところで待ってるから、いい? と、こっちが返事をするのを待っている。待たれている内に試験が始まってしまっては困る。とりあえず頷くだけ頷いて、別々の教室に入った。集中できなかったらどうしてくれるんだと思ったけれど、声を掛けてきた変な奴というだけのことだったので案外気にせずいられた。おかげで試験が終わる頃には取り付けられた約束のことなんて頭から抜けてしまっていて、マークシートの出来と面接の応答で頭がいっぱいで校門の柱の横に立つなんとかくんの前を素通りした。
「ま……って、待った!」
びっくりしたみたいな声だった。
「え?」
こっちも心底びっくりしたという表情になってしまっていたせいか、相手も気が抜けたような困った顔になってしまった。
「もしかして忘れてた?」
「…………あ」
そういえばなんかいたなとうっすら記憶が蘇って来る。誰だったかな。
「今から時間ある? ちょっとでも話せたら嬉しいんだけど」
「お腹空いたから早く帰りたいな」
「……わかった。歩きながらでもいいから」
「僕はあっちに帰るんだけど」
北の方角を指差した。今日泊めてもらう叔母の家がある方向だ。
「一緒に行っていい?」
「嫌だって言ったら来ないの?」
「……もしかして俺のこと既に嫌いだったりする?」
むしろここまででなんだこいつと僕に対して思っていないのがすごいなと感心してしまった。なんとかくんは人が良いのかもしれない。
「嫌いじゃないよ」
「ほんと⁉」
なんでそんなに嬉しそうな顔するんだと、ちょっと頬の内側を噛んでしまった。いつまでも校門横に立っているのもと思い、歩き出せば彼も付いて来る。
「……なんだっけ名前」
「耶的逢だよ。逢魔が時の逢」
「わかりにくいな……」
「逢坂の関の逢」
「わかった」
知るも知らぬも逢坂の関だ。
「君の名前も教えてくれる?」
訊ねた声がちょっと緊張していた。人に声を掛けて来たのは気軽な感じがしていたのに。
「……一非。一人に非ずって書く。金枝一非だよ」
「一非。音がきれいだ」
どきっとするのでやめてほしいなと思う。
「呼び捨てなの?」
「嫌だった?」
「いいよ……逢くん」
下の名前で呼び返したら、見る間に逢くんの顔が赤くなっていく。ああこれどう転ぶんだろうと気持ちが凪いでいく。入試を終えたばかりでこんなことになるとは思ってもみなかった。
「ごめんなんか照れるな……」
「それはどういう意味で?」
揶揄う調子もなく、落ち着いた声音で聞けたと思う。人通りの少なくなった道で、お互い立ち止まる。
「どうっていうのは、」
「友だちになりたいんじゃないの?」
言外に友だち以外の選択肢をチラつかせる。言い方が卑怯だったかもしれない。こっちだって怖いんだ。今の内にはっきりさせてしまいたい。こんなはずじゃなかったのに。
「違うの?」
逢くんは口を噤んで、考える顔をする。どんな言葉が出てくるだろう。聞かずに走り出したら追い掛けて来られるだろうか。僕の方が歩幅が狭いからすぐに追い付かれてしまいそうだ。
「違う」
目が合うと吸い込まれるみたいな感じがした。心臓の音が聞こえそうなくらい鼓動が速い。
「見た瞬間、この人だって思ったんだ」
「……わあ……ロマンチックだね……」
「そうだよいいよそれで。同じ高校になるかまだわからないだろ。だからすぐに連絡先とか聞いておかなきゃって声掛けたんだ」
これから高校生になれるはずとはいえ、自分と同じ年でそんなことが言えるんだなあと不思議な感覚だった。
「……一非はさ、引かないな」
「ロマンチストなところに?」
「そうじゃなくて」
ムッとした顔をしたので、さすがに良くないのがわかって「ごめん」と謝る。
「俺は一非に一目惚れしたんだよ」
ひとめぼれ。
「僕が可愛いから?」
「……言われたことがあるから言ってる?」
「あるし自覚もある」
「かわ……可愛いと思うし、今は捻くれてるなと思う」
「そうだろうね」
「……一非さ、実は友だちの方が嬉しかった?」
「友だちは作らないようにしてる」
「そっか……」
そっか、ともう一度繰り返して、
「じゃあ恋人なら作る気ある?」
なんて前向きなんだと慄いてしまった。そんなに僕は手を伸ばしたい相手だろうか。
「恋人になりたいの?」
「なりたい」
「即答するなあ……」
「返事はすぐじゃなくてもいいから。俺が好きでいるのは嫌?」
勢いに負けて違うと言いそうだった。違わなくもない気もするけれど、まだそう判断するのは早いと心の声が言っている。なんで彼はこんなに面と向かってぶつかって来られるんだろうと眩しい。
欲のある目で見ないで欲しいと引き攣った顔で言われた傷が癒えていない。面に出していないと思っていたのに。可愛い顔してるから勘違いしそうだと揶揄われて来て、それにどんどん摩耗しながら悪意のないそれを言わないでほしいと言ったときの冗談だよという言葉にさらに傷付いたっていうのに。
いいのかな。
わからない。
耶的逢という人間は、僕にとって大丈夫な人だろうか。振ったりしたら嫌なことをしてこない人だろうか。
「……嫌じゃない。ただ、」
「何?」
「まだ他人を信用するのに時間が掛かるっていうか……」
手を取られる。相手の両手で握られる。
「じゃあ信用できるまで待ってる」
光が反射してより赤く見えた髪が揺れる。夜になる前の、夕焼けの最後みたいな色だ。顔が近い。思わず空いた手で軽く押し退けてしまった。
「とりあえず連絡先教えてほしいな」
「わかったからちょっと離れて」
「早く入試の結果が出るといいな。春休みに会いたい」
「急にぐいぐい来るのやめて」
「だって一非逃げちゃいそう」
「逃げないからまず手を離してくれる?」
「ええ……」
「ゆーたーかー?」
あ、呼び捨てだ、なんて嬉しそうにしたのがときめいてしまったから、自分も最初から好きだったんだろうなと今なら思う。
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