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L#1 たりないふたり
何て言えば良かったんだろう?
昔からわたしは喜怒哀楽の激しい人間ではあったのだけれど、人間、本当に驚いた時って言葉が出ないもので、例えばそれが玄関のドアに指を挟んでしまった時とか、犬のウンチを踏んでしまった時とかね。
そういう、〝あまりにも予想外〟な出来事が目の前で起きてしまった時って、いくら感情の起伏が激しいわたしであったとしても、つい驚きすぎて心のネジが飛んでいってしまったのか、声が出ないことがある。
つまりは今のように、家の裏手にある井戸の底で、裸の男が眠っていた時なんかは特に、驚きすぎて声すら出なかった。
わたしにできたことといえば、恐る恐る口を開いて「あ、あなた……」と井戸の底へ声を落とすくらい。
あなた、だけでは何も言葉になっていないのはわかっていたけれど、それでも驚いて言葉をつなぐことができなかった。
それからしばらく、井戸の底で眠る裸の男を見つめる、という何とも奇妙な時間だけが過ぎ去って行くのだけれど、さすがにわたしも落ち着きを取り戻してきた。人間というのは不思議なもので、こんなおかしな状況にも、自然と適応してくるワケです。
「あなた」ようやく真面目に声をかける。「そんな姿で、何をやっているの……?」
するとびっくり。本当に、わたしが一度声をかけただけで、彼の目はぱっくりと開いた。薄暗闇になっている井戸の底で、彼の黒い瞳が光る。
彼は、わたしのことをどう見ているだろう? 高い場所から見下ろされて、何を思っているだろう。耳まで水に浸かっていたところを見ると、わたしの声は本当に届いていたのか? とも思う。
彼はしばらく、ビー玉のような感情のない瞳でわたしのことを凝視し続けた。そして次に、彼は腕をわたしのほうへ挙げた。
オワワワワア〜〜〜〜ッ! キモッ! なぜ彼はわたしのほうへ手をあげて、伸ばしているの? 何かを指し示しているとか……? いやでも、それならもっとわかりやすくするハズ。指は力なく曲がっているし、無気力に……無意識に腕を上げているように見える。
理由は何であれ、マジ気色が悪い!
このわたしが……どこからやってきたのかもわからない、勝手に人の家に入るような不審な男に触れるわけがない!
そもそも井戸の底までは何メートルもあるし……助けようとしたところで引きずり込まれてしまうかも……。引きずり込んだ後はあいつ、速攻でわたしに襲いかかるに決まっているわ! 裸なのは服を脱ぐ手間を省くために違いない。絶対にこんな男を助けたくないわ、わたし!
「ちょ、ちょっと待っててね。今他の人を呼んでくるからね」
もちろんこれは嘘。適当なことを言って早くこの場を離れたいんだもの。理由はどうあれ、井戸の底に裸の男がいたら近づかないほうが安全に決まっている。
「…………ルーシー」
「え」
一度は、聞き間違いかと思った。
でも、聞こえた気がした。もう一度聞きたい。彼は今……何て言ったの?
「…………ルーシー・アプリコット。というのか……? ……名前」
「な、なんで」
何で彼が、わたしの名前を知っているの?
やっぱり変態だわ! 間違いない。ストーカーかナニかでずっと付いて来ていて、何かの拍子に井戸に落っこちて、出られなくなったんだ。
「キミは……ルーシー……アプリコット」
「な、なに……?」
「オレは、ここで何をしているんだ……?」
アブない人だと思った。やっぱりこのまま放っておこう! きっと一人では登って来られないはずだし、適当に見ないふりをしていたら餓死してくれるかも。井戸の水は、もう汲めなくなるけれど。どうせこんな男の入った井戸水なんて飲めないも同然! もう知らんぷりをして行ってしまおう。
井戸の縁に手をかけて覗き込んでいたわたしは、ついに身を引こうとする。彼の目は依然として虚ろで、わたしの顔をじっと見てはいるのだけれど、一体何を考えているのかてんで予測できない。
さっきからずっとわたしに向けて伸ばされた腕も、やや力なく、井戸の底は冷えるのか、僅かに震えていた。
伸びた彼の腕から、血が垂れているようだった。落ちた時に傷を負ったのだろうか。
わたしが完全に身を引いてしまう直前に、彼の腕に刻まれた〝傷跡〟が、ちらりと見える。それは刃物か何かで付けられた傷跡のようで、かろうじて、文字になっているその傷を読むことができた。
〝ルーシー・アプリコットを捜せ〟
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