シッコウブ!!

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 ダダダッ、ダダダッ、タン!  銀色に光る腕時計を見れば、デジタルの数字が「12:04」を示している。秒数の部分は「35、36、37…」と確実に時を刻んでいる。約束の時刻まで残り二十秒余り。目標の部屋までの距離は目測十メートル。「やれるか?」と自問した僕は、最後の階段を二段飛ばしてジャンプし、踊り場に着地した。次の瞬間、  グキッ。  捻挫という、急ぎ慌てている場面で最も恐れている言葉が思い浮かぶ。こんなところで、僕の計画は終わるのか。それまでの段取りは完ぺきだったのに。トートバッグに入った冷たい容器に触れて、僕は唇を噛んだ。昼休み前の授業は化学の実験だった。班のメンバーをそれとなく誘導してクラスで一番早く実験結果を記録し、器具を片付けたのが十一時五十九分。白衣で鬍もじゃの先生の号令がなされたのが十二時一分二十秒。そこから猛ダッシュで教科書やノートを教室の机へ放り込み、弁当箱と水筒を片手に走り出すまでに一分十秒の時間を要した。二階の教室から四階の待合場所までは、トラブルさえなければ一分三十秒未満で着けるはずだった。だが、途中で昼食のために食堂に下りてくる生徒の群れをかわしたり、文芸部の部長にばったり遭遇して会釈したりしているうちに、予定の時刻はみるみるうちに過ぎていった。そして、とどめをさすかのような、この捻挫。 「あの生徒会長…」  二つ隣のクラスに在籍しているあの男の背中が浮かぶ。化学実験の直前、突如手渡されたノートの切れ端。そこに記された彼からのミッションをクリアすべく、ここまでひた走ってきたのだ。怪我の責任を取ってもらわねば! 「俺の青春を終わらせねえ!!」  脳内の一人称が「僕」から「俺」に変わっているくらい、心の奥底に眠る闘志が目覚め、足首の痛みを忘れて最後の十メートルを疾駆した。「失礼します!」の挨拶もそこそこに、僕は生徒会室の入り口をまたぐ。見慣れた狭い部屋に、背が高くて肩の肉が盛り上がった男の姿があった。 「十二時四分五十八秒。合格だ」 「はい、これ! 約束の品だ」  口の中で血の味がしているんだけれど、この際気にならなかった。僕はペットボトルの液体から泡が出るほど、力いっぱいに容器を黒いテーブルに叩きつけた。 「おっ、サンキュー、副会長さん。カフェオレ三百ミリリットル、糖分控えめ。合ってるぜ」  生徒会長の梶原は満足げに橙色のキャップを開けると、目をつぶって一気に半分ほどを流し込んだ。僕はひとまず安堵の溜息をもらす。  この辺で、聡明な読者諸氏のみなさまに説明をしなければならない。何の事情も知らなければ、傲慢な生徒会長が、気弱な副会長をパシリに使ってカフェオレを買わせた場面だと思うだろう。だが僕だって、いくら相手が生徒会長であろうとも、非合理的な要求を何の理由もなく受け入れるほどお人好しではないのだ。このミッションには僕の青春がかかっているのだ。その「青春」の対象が、「失礼します」の美麗な声とともに生徒会室に入ってきた。 「清森さん!」  書記の清森玲奈がこくりと会釈してにっこり微笑む。「きよもり・れな」という聞き心地の良い名前も、真面目な性格も、書記役にぴったりな字の上手さも、すべてが僕の異性のタイプに合致している。僕は手櫛で髪の毛を整えてブラウスの襟を正すと、さりげなくペットボトルを彼女に手渡した。 「あの、よかったら、飲む? さっき自販機でジュースを買ったら二本出てきてさ」  大嘘であるとバレないよう顔の筋肉をコントロールして、爽快スマイルを心掛ける。 「ええ! 本当! ありがとう。今日うっかりしてて水筒忘れちゃったんだよ。助かったわ」  清森さんが嬉々とする姿に、思わず筋肉が緩みそうになった。はっはっは、捻挫して走ってきてよかった。このまま昇天して構わないかもしれない。梶原の顔が「誰のおかげだと思ってるんだ」と告げているけれど、気にしないでおこう。ポケットの裏紙には「昼休みのミーティング12:05から開始。清森、水筒忘れた由。カフェオレを渡してやれば好感度アップ必至。情報の報酬として俺にも同じものを求む 梶原平行」と書いてある。清森さんと同じクラスにいるから掴んだ情報だろうけれど、突然告げてくるとは予想だにしなかった。よし、後で忘れずにメモをシュレッダーにかけて証拠隠滅するぞ。  すぐに二人の女の子ペアがやってきた。もう一人の書記役の皆本ちゃんと、会計の河野ちゃんだ。彼女らは仲良しで、姉妹のようにセットで行動している。個人行動が大好きな僕には理解しがたいけれど、女の子どうしの固い友情って良いなと漠然とした羨望を感じている。 「さて」  梶原がホワイトボードを背にして話し始めた。 「泉高祭キックオフミーティング、始めるぞ」  僕たちが通う県立泉州高校は、地元で古くから続く伝統校で、校舎前の広大なタイル地の広場「パラレル」が有名だ。設計者がかなり凝り性の人間だったらしく、この広場は白地のタイルを背景にカラータイルが敷き詰められて、屋上から眺めるとちょうど泉州高校の影絵になるようにデザインされている。野球部がキャッチボール練習の場所に使ったり、遠足の集合場所になったりと、様々な目的で使われる。目下、僕たちが始めようとしている文化祭、通称「泉高祭(せんこうさい)」では三年生が模擬店のテントを建てるために開放される。  四月に生徒会執行部が発足して一カ月余り。大型連休が明けて校内定期テストもひと段落ついた今、本格的に八月の泉高祭に向けた準備が始まる。二年生五人で構成された執行部メンバーと、一年生のクラスから各一名ずつ、計十人の執行委員とが行事の運営のために働くことになる。教員側も「生徒課」という部署に所属する方々の七名がバックヤードを支え、数々の書類作成や広報、安全管理などを担当してくださる。  今年の泉高祭スローガンは「Some Sing New ~わたしたちの歌を創ろう~」。察しがいい方ならば分かる通り、「Something New」、つまり「新しいこと」を意味する英語をもじったスローガンだ。発足会議が始まったとき、ほぼ初対面で話し合った僕たちの共通する意見は「なんか新しいことしたいよね」という漠然とした理想だった。先代の校長が保守的な人物で、去年までは従来の文化祭の内容を堅実にこなすことに重点が置かれていて、それが生徒たちの間でも不満の種となっていた。だから今春から赴任してきた新しい校長が「みなさんの『新しさ』に期待します」と始業式で挨拶したとき、俄然僕たち執行部のやる気スイッチが点灯したのだった。 「平野。お前、意見をもってきたか」  梶原が僕を指名して企画案を求めてきた。僕はテーブルに置いてある生徒会議事録を開いてみんなの前で広げた。 「色々考えたんだけど、まとまらなくてね。だから今までの泉高祭で何をしてきたのかをノートに書きだしたんだ」  基本的に、一年生が教室を使ったレクリエーション・ゲームの企画。二年生はダンスや演劇といったステージ発表。三年生は前述したように模擬店の運営と販売。これに近隣の商店街によるバザーや文化部の成果発表が加わる。被災地への募金活動や、校長による講演会なども予定されている。中核となる内容だけでも相当なハードスケジュールだから、さらに新企画を打ち出すとなると、アイデアをひねり出すのが難しい。  「行事の大きな枠組みは変えずに、中身で変化をつけられないかなと思ってね。頭が固くて良い案が思い浮かばなかったんだけど、たとえば校長の講演会を、著名人の講演会やコンサートにするとか、どうかな」 「おもしろそう!」  アイドル好きの皆本ちゃんが甲高い声を上げた。きっと彼女の頭の中では、人気アイドルグループ「吹雪」や「エックス・ファイル」が舞台で躍動する姿が浮かんでいることだろう。他の生徒会メンバーの反応も肯定的だったが、壁にもたれて話を聞いていた梶原が言った。 「むっちゃ楽しそうだけど、実はダメなんだ。俺が先週、白河に同じような意見を言ったんだけどさ、『大学の文化祭みたいだから、高校生はやるな』って釘を刺されたんだ」  白河とは、生徒課の主任を担当するベテラン教員の白河先生のこと。それを聞いた僕らは揃って「え~」と拒否反応を示す。 「また白河先生? ほんっと頭固いよね」と皆本ちゃん。 「講演料とかアポイントメントとかの問題もあるからかもしれないけど、つまんないなあ」と河野ちゃん。 「残念ですね…」と静かにうなだれる清森さん。  僕は腕組している梶原に言った。 「しょうがない。別の意見を考えよう」  お弁当を広げながら意見を交わし合う。ときたま他の人のおかずにツッコミを入れつつ、関係のない雑談に笑いながら会議を進めていく。板書は皆本ちゃん、議事録は清森さんが担当する。話し合いの結果、いくつかの案が浮上した。清森さんは地元中学生をボランティアに受け入れるという案。皆本ちゃんは男女共同のファッションショー。河野ちゃんは文化祭の最中に生徒会メンバーが仮装して出没するドッキリ企画。だいたい意見が出尽くしたところで、梶原がカフェオレを飲み干して言った。 「意見自体はどれもやってみたいが、実際にやるとなると話が別だ。ひとまず意見書にまとめておいて、後で白河に見せることにしよう」  僕らは賛同して席を立った。早くも午後の授業が始まろうとしている。この五人で会話していると、時間が経つのを忘れてしまう。せわしなく荷物をまとめて生徒会室を出るとき、足を捻挫したのを思い出して痛くなった。保健室で湿布をもらおうかな。 「平野、ちょっといいか」  廊下で梶原が声を落として言った。 「生徒会室に置いてある生徒会議事録、暇なときにちょくちょく確認しておいてくれないか」  僕は怪訝に思って見返した。梶原は笑った。 「なあに、大したことじゃないけどよ。議事録は清森が書いてくれてるじゃんか。そうしたらこの前、清森が『前に書いたものと違う気がする』って言ってたんだよ。だから気になってな」 「そうか、分かった。清森さんがそう言ったんなら信頼する」  梶原は呆れたように笑った。 「お前、相当な熱の入れようだな。もう少し、俺のことも信頼してくれよ?」 「善処します、会長殿」 「はいはい…」  梶原が去ったあと、この怪我の責任は誰だったかな? と頭の中で彼にパンチを食らわせて、保健室へ行った。午後の授業にやや遅刻したけれど、足を引き摺った姿を英語科の先生が憐れんでくれたので怒られなかった。教科書の英文を音読しながら、どんな企画案が良いかなと思案をめぐらせていた。    
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