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手を上げる。
橙色の地面の上、マッチがころりと転げ落ちた。
よく見ると何本も転がっている。
更によく見ると、
濡れた足跡がコンクリートを引き返していた。
漁船の色濃い影に入って、
周平の視界からは消えている。
周平は思わず「おおぉいぃ!」と誰にも届かない突っ込みを入れた。
脱力して尻をつく。
すぐに追う気も起きず、
手近なマッチを拾ってみた。
燃えた跡がないのもそのはずで、
ひどく湿っている。
漁船のそばに湿ったマッチとくれば、
周平としては苦笑いせずにいられない。
──あれは中二の頃だったか。
初めて好きになった女の子と、
夏の夜に花火をした。
漁港を選んだのは、
その子が漁師を随分と尊敬していたからだ。
海を相手にして格好良い、
と公言する彼女に周平が巡らせた策は簡単で、
『俺の父ちゃん漁師だから、夜に漁港で花火できるぞ』だった。
親父が聞けば馬鹿がと一喝してくる文句だったが、
若気の至りで見得を切った。
そして漁港に忍び込み、
親父の船の陰を選ぶまではよかったが、
持ってきたマッチがことごとくしけっていた。
何本も何本も地面に散らし、暗がりに冷や汗をだらだら流して、周平は最後の一本でようやく蝋燭を灯したのだった。
ぱちぱちと輝く花火を手に、
『周平君も漁師になるの?』と彼女は訊いた。
中二の周平はさして深く考えず、
『ああ! 俺がこの船を受け継ぐ!』と宣言した。
深く考えていなかったが、言った瞬間は確かに、
親父の船と技術は自分が継ぐのだと固く信じたような気がする──。
ざぶん、と波が押し寄せて、
飛沫が褞袍の裾に掛かった。
慌てて身を引いてから、
周平はマッチを捨てて立ち上がる。
足跡は点々と地面に残っている。
追っかけようか、
寒いし帰っちまおうかと頭をかいたところで、
周平はふと眼を凝らした。
濡れた足跡は漁船の陰に入っている。
そして、どこからも出ていない。
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