1・白いホスピス

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 何気なくガラス越しに中庭に目をやって、そこに人影があるのを見て陽樹は歩を止めた。  手を離してしまったスーツケースが音を立てて倒れ、その音に気づいて前を歩いていた永井が立ち止まる。    女性――いや、少女と形容した方ががいいのかもしれない――がひとり、晴れた冬空の下でベンチに腰掛けていた。膝には本が乗っているけども、彼女の目はぼんやりと空に向けられている。  その姿を目にした途端に、どこかで彼女を見たことがあるような気がした。ぎりりと胸が締め付けられるように痛み、思わず胸に手を当てる。 「あれは……あの子は」 「ああ、こんな寒いのにまた中庭に出てたのか。あれが紗代(さよ)。この世界にたったひとりの、最後に残った『貴種(ノーブル)』だ」 「あの子が、貴種(ノーブル)?」  倒れたスーツケースをそのままに、陽樹はガラスに手を当ててその姿をみつめた。陽樹は貴種という存在は知っていたけども、それはあくまで書物から得た知識の中の物でしかない。  堕ちた神の末裔とも、ヒトの上位種族とも呼ばれた貴種は、美しい容姿と普通の人間の数倍の寿命を持ち、ヒトと似ていながらも違う種族だ。長い寿命を持つためか、純血でも繁殖率が低く、人との間に子をなすことがあっても、その子供は繁殖能力がない一代限りの存在。よって、優れた能力を持ちながらもヒト以上に栄えることはなかった。 「僕には、あの子は人間にしか見えない」  戸惑いが現れて、陽樹の声は揺れた。視線の先にいる少女の柔らかそうな髪は軽く波打っていて、永井の髪よりも更に色が薄い。飾り気のない白いワンピースと相まって、冬の少し柔らかな日差しの中にいる姿は宗教画めいていた。物憂い表情は、ピエタを連想させる。 「そうだな、美しいけども人間と違うようには見えない。見た目がよく似ているのに彼らは明らかにヒトより優れている。だから『ヒトの上位種族』なんて言われ方をしたんだろう。もっとも、寿命が長かろうと、能力が優れていようと、繁殖力が低いために滅びようとしている種族を、俺はとても上位種族とは思えないがな」  永井の言葉には苦さがあった。現在この生化学研究所の所長という肩書きを背負った彼は、一番貴種の近くにいる存在だ。
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