1・白いホスピス

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「医学的見地の資料しか僕は目を通していない。それ以外の資料は回ってこなかったから」 「俺が着任した三年前には、紗代以外にもふたりの貴種がいた。ひとりは高齢だったが、もうひとりは貴種としてはまだ中年といえる年齢だったはずだ。それが、相次いで亡くなって今では紗代ひとりだ。  この施設自体は百年以上前からある。建物は五十年ほど前に建て替えた物で、そのときには俺のような職員を含めて十人くらいがここで暮らしていたんだろうな」  永井の視線がぐるりとリビングを巡って、座る人のいない椅子の上で止まる。  「ここはラボと呼ばれているが、俺はホスピスだと思う。――ひとつの種が苦しみから解き放たれて、静かに、そして穏やかに死にゆくための。鍵は厳重だが、逃がさないための鍵じゃない。貴種を守るためのものだ。  ただ、きっとそう思っているのは、俺と、ここを作った中河内グループの何人かだけなんだろうな。俺の前任者ですらどう思ってたかは知らない」  湯気の立つコーヒーカップを手のひらで包み込む永井の表情は沈鬱だった。  永井は辛辣ではあるが、根の部分は誠実だ。曲がったことが嫌いで、不正や不条理を憎んでいる。なまじ能力が高いために、上司の不正を糾弾した結果として会社の大スキャンダルを明るみに出してしまい、上層部から憎まれた。  エリートコースを歩んでいたはずの彼は、形ばかりの昇進を与えられて出向という体で外に出された。もう元の道に戻ることはないのだろう。  陽樹もインターンを終えてから大学で助手をしていたが、准教授の最年少記録を出すのではと囁かれている最中に、金と色仕掛けで単位を取ろうとしていた大病院の跡継ぎ娘を拒絶して悪評を立てられた。  可愛さ余って憎さ百倍なのか、それまで顔を緩めて陽樹の後を追い回していた女子学生から強姦未遂の冤罪を掛けられて、呆れるほど簡単にその職を失った。陽樹を惜しんだのはどこの派閥からも見捨てられた老教授ひとりで、ほとぼりが冷めるまで陽樹が世間の煩わしさから逃げられる場所としてこのラボを紹介してくれたのだ。陽樹の前任者は、二年ほど前に退職していてその間ここに医師は不在だった。
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