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姫の湯浴みの後、その長い髪をゆっくりととかしながら、墨は深いため息をもらした。
ため息の音が、がらんとした客室に響いて、自分がため息を吐いたことを自覚した。
鏡の向こうで姫が不思議そうに首を傾げた。
「小墨、難しい顔をしている」
わたしの墨。
姫はドイツ語でも墨をそう呼んだ。
姫はあまり口数が多くはない。
というよりも、天籟の姫は人前で言葉を発することを避ける風習がある。
神に近く、天を持つ姫たちの言葉は、それだけの力と意味がある。
姫は極めて私的な空間、姫奴である墨とふたりきりや、王族同士の付き合い、祭祀以外で滅多に口を開かない。
語学を習う時も、男性王族の誰かが教師役を担うことがほとんどだった。
姫が輿入れのために英語や独語を学んだ相手も、実兄である第二王子だ。
「疲れたか」
「いえ……」
鏡越しに墨を見る姫の目は優しい。
墨は唇を噛んでから、観念して口を開いた。
「姫は、天籟をはなれて寂しくはございませんか」
言葉にすると、驚くほど甘ったれて子供っぽい。
思わず顔を背けて、姫の視線から逃げた。
くすくすという笑い声と共に、手にしていた姫の髪がさらりと流れた。
「墨は寂しいか」
「分かりません。ですが、天籟族としての誇りを忘れたくはないのです」
「お前の誇りは、土地で決まるのか?」
返事に困ってしまった。
違うと言いたいが、正直、今、墨は戸惑い、憤りを抱えている。
異国に嫁ぐ姫よりも、不安を感じているのは自分のような気がする。
それが、天籟の文化を軽んじているように見える赤毛の役人への反発や、霞への苛立ちに形を変えているのだろう。
どうして、私の姫が……。
姫奴にとって、自分の姫こそが至高の存在だ。
神子である第一王女はまだしも、何故末子の姫が先に嫁ぐのか。
第二王女の次姉でもなく、第三王女の姫だったのか。
自分を納得させる答えが見つからない。
「小墨。妾は、お前が姫奴で嬉しい」
姫はそれきり黙った。
絹の夜着の上を、さらさらと黒髪が流れ落ちていく。
伏せられたまつげの儚さや美しさが、墨にとって最上の美なのだ。
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