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「……旅の時は、着物は持ち歩かないんです。荷物が増えますし、傷みますから」
「そうですか」
「日本でも洋服を着ていることが多いので、この方が楽なんです」
霞が鏡を伏せ、彼女の表情は見えなくなった。
「わたし、以前天籟国にも行ったことがあります。父の買い付けに付き添って、はじめて王都に向かいました。とても美しい街ですね、遠くには棚田が太陽を受けて光っていて……その空を見ていて感じたんです、きっと天籟更紗のうつくしい布目は、この空を見ているからこそできるのだと、天籟の人々しか織ることの出来ない、うつくしさなのだって」
姫は静かに霞を眺めている。
墨は霞の表情が気になったけれど、それ以上どうすることも出来ず、手鏡を受け取ると、また姫のそばに控えた。
「天籟の更紗は、父も思い入れが深いものだそうです。幼い頃、国王陛下……そうですね、姫様のお母様から下賜されたという天籟更紗の衣装を持っていました。父が結婚した時に、その花嫁に贈るようにと……」
大清の属国や近縁の国にとって、衣装の類も吉祥模様などのおめでたい模様が愛されることが多い。
しかし、天籟国の、こと、高級とされる天籟更紗は豊かな自然や穏やかな気候を現した、美しい染めが好まれる。
普段着と晴れの場で身に着けるべき正装の天籟更紗は全く違うものだ。
「王室用の天籟更紗を個人的に譲り受けたものだそうで、色味はとても濃紺から漆黒のように見えるのに、動くと銀色にも金色にも見えるその布が子供の頃はとても不思議で。母が虫干しするのを一日中見ていました」
「その色合いを、天籟では天籟色と呼びます。夜と昼とを縫い取り、天の理を映しとった色で、最も染めることがむずかしく、最も美しい、西洋の王族たちもこぞって欲しがる色味です」
「父もそう話していました。とても誇らし気に、ヴィクトリア女王陛下にも許されない特権だと」
そこまで話して、霞は恥じらいながら紅茶をひとくちだけ飲んだ。
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