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恐らくかなり加減はしたのだろうが、よろめきそうになるくらいには力が強い。
墨はぐっと拳を握りしめた。
「……うるさい。お前に何が分かる!」
「分かんねえな! お前んとこのお姫さんは人形みてえにずっと座ってるが、感情だってあれば、屁もこくし、眠りもすんだろ! 守るって言って何もさせないのがお前の仕事か!」
「姫は放屁なんてしない!」
悲痛な叫びは、空間を一瞬にして静止させた。
墨もドリューも霞も、そして姫さえも目を丸めていた。
──姫は放屁なんてしない。
なんてことを言ってしまったのか。
ありえない、なんてことだ、あまりにも世俗的で、あまりにも無礼な。
この男は今すぐ殺すべきじゃないか。
信じられない。
自分の失態を受け入れることが出来ない。
「……ふ」
姫が噴き出した。形のいい唇を緩ませ、ふふ、と短く笑う。
そして、霞、ドリューと順番に見て、最後に顔面蒼白の墨を見る。
「小墨、そなたの負けだ。妾は彼女らの言う通り、甲板にゆく」
「姫……」
「そなたの心の準備も必要だろう?」
姫が決断をした。
そうなれば、墨は何も言えることなどない。
姫の決定は、絶対だ。
墨は姫を見つめていたけれど、姫は微笑んだまま、視線を外す。
ドリューは姫の視線に気づいて、バッと気をつけをした。
「異国の男よ。明日、今日と同じ時間に迎えに」
「かしこまりました!」
勢いよく返事をしたドリューの横で、霞は大きく頷いた。
そして、嬉しそうに目を細めて微笑んで、ドリューに「ありがとう」と囁く。
姫は立ち上がる、旗袍の裾の蝶がひらりと飛ぶように動いた。
墨だけが動けないままだ。
姫は長い睫毛を伏せ、墨を横目で眺める。
「小墨、そなたは公国の手を借りることに慣れるべきだ」
朝賀にかけあい、朝賀も立ち会うことを条件に甲板に出る許可を得た。
そして、公国側から、メイドの数人を姫の女中としてそばに仕えることとした。
明日、姫が甲板に行く。
たったそれだけのことがとても重大なことだ。
ヴェネチアは近づいてくる、船の旅も終わりを迎える。
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