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港には歓迎の人々が押しかけ、天籟の旗を振って輿入れする姫を一目見ようと待ち構えていた。
ヴェネチアの美しい街並みに挟まれた水路を通り過ぎて、船が接岸を始めた頃、姫は人払いし、墨に着替えの手伝いを命じた。
姫を甲板に出したことで、公国の役人とはもめたばかりだ。
流石に消耗していたが、墨は何も言わず、姫の指示するまま、支度をした。
──泣き虫墨。
幼い頃、何度そう呼ばれたか。
懐かしいあの声が耳の底にこだました。
涙腺が緩くなってしまったのか、視界が簡単に滲む。
必死で涙を堪えて、支度に集中する。
姫と別れ、墨は先に甲板に出た。
公国の人間にあとは任せている。
もうこの先は陸路だ。
クリークヴァルト公国の人間の力を借りなければならない。
それに慣れるべきは姫ではない、自分だと、墨は痛感していた。
「お、小僧。お前、いい格好してるじゃねえか」
いきなり背後から、声をかけられて、肩を組まれる。
ぎょっとして振り向けばドリューがにやりと笑っていた。
「うるさい。元々の普段着だ」
「へぇ、男の格好も似合うな」
久しぶりに袖を通したが墨染の上着と裤子は、とてもしっくりときた。
姫奴として、影として、存在していることを許されているように感じた。
ぎゅっと高いところでひとつに縛った髪も気が引き締まる。
ドリューの腕から身を捻って逃れると、彼の足元に置かれた古びたリュックに気が付いた。
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