23人が本棚に入れています
本棚に追加
姫の名前
姫の支度が整い、クリークヴァルト公国の使節団が選んだ記者たちがサロンに入室した。
役人たちに立ち位置を示される顔ぶれのほとんどは、駅でも姫に写真機を向けてきた記者たちだった。
ただ、ひとりの男に墨の目がすぅっと吸い寄せられた。
(……見たことがない男がいる。駅にはいなかった……)
男にこれといった特徴はない。周りの記者のように茶色のジャケットに、ツイードのベスト、履きつぶした革靴に、カメラバッグを下げている。
中肉中背で、分厚い眼鏡。他のこちらの人間と違う様子は見られない。
それでも、駅にはいなかったというだけで、墨にはとても気にかかる。
役人たちの主導で、姫は写真を撮られていく。
「こちらを」と言われるたびに、視線を動かす。完璧に優雅な姫。その姫を目の端に捉えながら、墨は記者たちを見つめた。
そして、例の男の番になった。
「姫様、こちらに!」
姫が顔を向け、そして、驚いたように目を丸めた。微かに首を傾げて、小さく笑う。
珍しい。姫がお呼びだ。
墨が言葉を聞こうと近づいた時、男はパシャリとシャッターを切る。
突き刺すような閃光に思わず墨は目をつぶった。
「姫様、お名前は?」
無礼な、と言い返す間はなかった。
「ジンリー・ティエン」
天静麗。すぐに字が思い浮かぶ。
天族の静麗。
姫の、名前。
墨の姫の名前を、こんなところで、こんな見知らぬ男からの質問で答えるなんて。
墨はその場で凍り付いた。
「ジンリー姫、お美しい名前だ!」
男は笑って、もう一度、光を閃かせた。
最初のコメントを投稿しよう!