姫の名前

2/2
前へ
/78ページ
次へ
 落ち着け、というドリューの声をむなしく、墨は飛び出していく記者団の最後尾にいた男に、ずかずかと歩み寄った。  カメラバッグの肩ひもを掴み、ぐいっと力いっぱい引っ張る。 「おい、貴様」  男は振り向きつつも、驚いているというよりも、おかしそうに笑いを噛み殺していた。 「姫への質問は許していない」  悔しいことに相手の顔は酷く上にあり、見上げないといけない。 「それは失礼。ええと……君は、ジンリー姫の御付きの子かな?」 「軽々しく姫の名を呼ぶな」 「じゃあ、どう呼べばいい? 名前がないんじゃ記事に出来ない」 「姫の名を知っていい者は家族だけだ」 「でも名乗ったのはジンリー姫だよ」 「貴様……っ」  墨がカメラバッグを引っ張る手に力を込めると、男は眼鏡の奥の目をすぅっと細めた。  そして、男は、ゆっくりと囁く。 「君は野生の猫みたいだ。──君も姫によく似ているね、胸が平たい。天籟の女はみんなそうなのか?」  我慢が出来なかった。  気づいた時には、墨は目の前の男の顎に掌底を叩きこんでいた。  ぐらりと男の体が傾いで、真後ろに倒れ込む。 「おい、大丈夫か?」 「お怪我はっ」  男に駆け寄るドリューと霞の後ろ姿を見て、自分が何をしでかしたか理解する。  クリークヴァルトの一般人を、天籟の姫の付き人が暴行した……そういうことになってしまった。  手のひらに感触が残っている。  ひっくり返った男は、ぴくりとも動かなかった。
/78ページ

最初のコメントを投稿しよう!

23人が本棚に入れています
本棚に追加