一、天籟国にて

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「もう! アンタたち! またそんなところに登って!」  ふたり揃って塀から院子に飛び降りる。  塀の近くから見上げていた少女は満足そうに頷いた。 「あんたたち、そんなところにばっかりいて、怪我でもしたら知らないよ」 「このくらいの塀で怪我なんかしない」 「このっ、可愛くないわね!」  敏の口答えに、少女は拳を振り上げるふりをする。  敏をそのまま大きくしたような少女は、敏の姉だ。年は十四になるころで、まだ幼さを頬に残している。 「とにかく、あんたたちは今度、王府に行くんですからね、陛下のお目にかかって、末の姫さまにお会いするんですから、ちゃあんとしなくっちゃ。姉である私が恥ずかしいんですから」 「はいはい。分かってるって。墨、家に入ろう」  敏は姉の小言を聞き流して、墨の手を掴んだ。  煮炊きをするいい匂いがする。そろそろ夕餉だ。 「もう! ちゃんと話は最後まで聞きなさい! ご飯になりますからね、下女が来るまで大人しく待ってなさいね」 「はぁい!」  返事をしながら、『あっかんべー』と敏は舌を出した。姉は真っ赤になって肩をいからせる。  姉は世話を焼きたいのだ。  敏に手を掴まれながら、墨も歩きはじめた。  墨は敏の手を握り返した。視線を合わせ、ふたりで笑う。  幼く小さい手だが、その手は既に硬い。  けれど、あざだらけの墨の手と違い、敏の手は傷ひとつない。  全身を見てもそうだ、墨は脛などに傷や打ち身がいくつもあるが、敏はない。  同じように過ごしていても、墨は敏のように要領よく動くことが出来ず、気が付けば絶えず傷だらけだった。  この(チン)家に生まれた子供が、子供らしく生きるのが許されるのは、とても短い。  不意に生まれ育った邸宅をぐるりと見渡し、空を見る。  王都の規則正しい街並みと、城壁を越えた先の、天籟国の豊かな山々に作られた棚田が見える。  まもなく実りの時期を迎えるその風景を眺めるのが、墨はとても好きだった。
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