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船の夜
汽車の中の姫の居室にも、立派なバスルームがついていた。
姫を入浴させるのはメイドたちが行い、入浴用に運び込まれたせっけんや香油など見たこともないものばかりだ。
船の中では、祠堂と同じように湯を張り、墨が姫の体を絞った布で拭き、髪を洗った。
けれども、墨が一応男性であると露見している以上、汽車でまで侍女の真似事はできない。
これからはクリークヴァルト公国で、向こうの人々と暮らすのだ。
慣れなければ。
きっと、公国の宮殿では、身分の高い侍女がつけられ、墨が身の回りの世話をできなくなる。
慣れるべきだ。
そう分かっていても、姫の立てる音や声に敏感でいられるように神経をとがらせてしまう。
墨が部屋で待っていると、ナイトガウンに着替えた姫がメイドたちと戻ってきた。
髪はゆるく編んで垂らし、ナイトガウンはシルク地の上に同色のレースを重ねている。
姫は手をあげて、メイドたちを退散させる。
部屋にふたりきりになり、墨は口を開いた。
「今日、ハンス・シュミットと会ってきました」
「ハンス……?」
姫は首を傾げる。椅子に腰かけた姫に、水差しで水を差し出す。
「記者です。姫に名を尋ねた」
「ああ……そうか。そう名乗ったのか」
姫は頷き、水を飲む。
「姫は何故、あの男に名を教えたのですか」
天静麗。
美しい名前だ。
その美しい名前は、誰もが知って軽々しく呼ぶ名前ではない。
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