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姫は、細工の凝らしたガラスのコップをテーブルにおいて、そっと縁をなぞった。
「姫」
拗ねた子供のような声。
姫はひっそりと笑っている。
墨の問いに、答えるつもりはないようだ。
恋。恋とはなんだろう。
けれど、姫はハンスの話を聞いてもひとつも嬉しそうではない。
霞が亡くなった許婚を語ったような、そんな色の変化が見て取れない。隠しきれない思慕が滲んだあの悲し気な笑みが、霞独特の表情とは、覃家で育ち祠堂に入った世間知らずな墨でさえ思えない。
姫は、良くも悪くも、いつもと変わらない。
「ハンス。……ハンスか。ありふれた名だ」
姫は愛しい人の名を呼ぶというよりも、子供のいたずらを見つけた大人のような、そんな声音でハンスの名を呼んだ。
「どうせ、静麗をきちんと発音できる欧州人はおるまいぞ」
「……そうでしょう。僕たちだってドイツ語を完璧には発音できません」
「静麗の響きを鳴らせるのは、お前だけだ、小墨。不服か?」
「そういうわけでは……」
くすくすと笑いながら、姫は横目で墨を伺った。
墨はぶんぶんと首を振り、俯いた。
そういうわけではない。
天静麗の名を知ったきっかけがどうとか、そういうことではないのだ。
分からない。
墨自身、言葉にうまくできない。
でも、何かを言えばこの疑問は恐らく形を変える。
そう分かっていて、何も言うことが出来なかった。
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