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「敏! 敏……っ!」
墨は、信頼する幼友達の名を叫んだ。
しかし、帰ってくるのは虚無な静寂だけだ。
「やめろ! 離せ!」
手はそのまま、墨を引っ張る。
抵抗するほど、力は強くなる。
院子に引きずり降ろされそうになり、墨は必死で柱にしがみついた。
掴まれていない方の腕を巻き付け、足で見えない闇を蹴り飛ばす。
足は、膜を突き破ったような生々しい感触が返ってきたが、足に絡みつく何かを弾き飛ばすことは出来なかった。
闇はぶるりと震えたかと思うと、怒った猫のように膨れ上がった。
闇からは新しい腕がまた生え、柱を掴む腕に伸びてくる。
「──ひっ……!」
ぞっと背筋が粟立つ。
どこかに連れて行こうとしている。
柱から墨を引き剥した両腕は、ぎゅうとその幼い体を抱きすくめた。
気づけば墨の視界は涙で歪んでいた。
体の力も抜けていく。
それを受容と感じたのか、両腕は抱き留める腕の力を緩め、まるで母のように──墨自体は母に抱きしめられたことも、母の顔も知らないが──優しく包み込む。
ふわりと浮上するのが分かる。
闇は院子を真っ直ぐと走り、四方に同じ形で立ち並ぶ正殿たちの中央、大きな泉に向かっている。
(……あそこにあるのは……)
泉の上に張り出して作られたそれに墨は驚く。
「……女媧の祠堂……」
女媧の祠堂がぼうっと光りを放ち、その影が墨に伸びている腕までつながっている。
天籟開闢の女神を祀る祠堂だ。
この覃家の中央に坐し、この覃家が守るべき神。仕えるべき王を選びし女媧。
──……その祠堂が、呼んでいる。
そう墨が理解した瞬間、風のように何かが素早く体を駆け抜けていった。
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