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「もうすぐ、お父さんの三回忌ね」
「あぁ、そうか……、もうそんなに経ったんだ」
「やっぱり、お父さんがいない生活にはまだ慣れないね」
「そうだね……」
先日の母の言葉がよみがえる。そうだね、なんて同意するような相槌を打ちながら、ぼくは父の存在しない生活に慣れ始めていた。だけどそんなことを口に出せるわけもなかった。
別にぼくは父と仲が悪かったわけでも、お互いに無関心な父子だったわけでもない、と思う。ただ母と違って、一緒に暮らしていない時期が長かったから、自然と慣れるのも早くなる。ただ、それだけのことだ。
母の言葉を聞いた時、何故か、ぼくは父の顔を写真も見ずに、ぱっと頭に浮かべることができるだろうか、と急に不安になった。
年々、物忘れが激しくなっていることには気付いていた。ぼくもそろそろ青年という言葉を使うには無理がある年齢に近付いてきている。
久しく入っていなかった父の書斎に足を踏み入れたのは、母と、父の話をしたのがきっかけだった。生前の父は本の購入癖があり、本棚には指を入れる隙間がないほど、ぎっしりと詰め込まれていた。それでも入りきらずに床に積まれた書籍や雑誌を眺めながら、父は死ぬまでに、どれだけの言葉を読むことができたのだろうか、と考えてしまう。
本は読まれてはじめて価値を持つものだ、と俺は思っている。それが父の口癖だった。だから父に愛書家やコレクターという言葉はどうも馴染まない。読まれた本より読まれなかっただろう本のほうが圧倒的に多いのだろう。そう思うと、ひどく物悲しいような気分になった。
父が椅子に座り、小説を読んでいる姿を想像してみるが、その姿はぼやけていてはっきりとしない。用事があって呼びに行く時に何度も見たはずなのに、想像の中で浮かべるその姿が、どうもしっくりと来ない。
あれだけ長く一緒に暮らしてきた相手でも、たった三年でこんなにも実感のわかないものになってしまう。そう思うと、急に不安になって、父が確かにいたという痕跡を探したくなったのかもしれない。
その書斎を探っているうちに、ぼくはクローゼットの奥に隠されるように積み上げられた日記を見つけた。日記の表紙には、日付が何時から何時までと記されていて、それを記す位置まで統一されているのが、几帳面な父らしかった。ぼくはぼくが知らない過去の父よりも、ぼくの知っている父を日記から探そうとした。つまりはぼくが生まれて、物心がついて以降の父だ。
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