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灰になる
スズメが一匹、路傍で引き潰されておりました。
大空へと飛び立とうとしたときに跳ねられたのでしょうか。それとも、餌をついばむのに夢中で車に気づかなかったのでしょうか。本当のところはわかりません。スズメが哀れだったのか、間抜けだったのかは誰も知ることができないのです。
その潰れたスズメの姿を見て、ふと、あなたの三回忌が近いことに気づきました。そして心の奥に眠っていたはずの、誰にも言わなかったあなたとの思い出を吐き出してしまいたい衝動にかられて、筆をとった次第です。
今から書く内容が、あなた宛の手紙と言うべきか迷います。手紙を書くという文化に私はあまり親しくないので、手紙と言うよりただの回想録のようなものになるかもしれません。ですが形はどうあれ、私が考えていたことをお話しようと思います。長くなりますので、気が向いたときにでもお読みください。
中学二年の時、あなたと同じクラスになりました。あなたのお噂はかねがね聞いておりまして、私は心底、同じクラスになりたくないと願っておりました。ですので、クラス発表が書かれた紙を見たとき、大変落胆いたしました。地味で目立たない生徒にちょっかいをかけて、一人で面白がるという問題児だったあなたの悪癖の対象に、私は十二分に当てはまっていたからです。
新学期が始まってから、ひと月経った頃のことです。それなりにクラス内の勢力図ができあがり、私は読書好きの少数派として、数名の友人たちの間に身を置いておりました。
放課後、私はいつも通り図書室へ行き、司書の先生に新しく入荷した本について二、三尋ねたり、無名の作家の本を探してはパラパラとめくって、ああ、この人が無名であるのは妥当な評価なのですね、と呟いてみたりと文学者を気取りながら誰にも邪魔されない時間を満喫しておりました。
それから少しして、図書室を出る際に本を借りました。その本がとてもおもしろく、教室にカバンを取りに行く間も、私は文字を追い続けました。
そして教室の後方にある、自分の席に着いたところで、ここで読み切ってしまおう、と思いました。椅子を引いて座ることすら忘れ、私は机に寄りかかって読書をし始めたのです。
四ページほど進んだときでしょうか、どこからともなくあなたはやって来て――いまだに私は、なぜ帰宅部のあなたが、あの放課後の遅い時間に残っていたのか、わかりません――あなたの存在にまったく気づいていなかった私から、本を取り上げたのです。私はなぜ自分の手元にあった本がなくなったのか把握できずに、俯いたままの姿勢で固まってしまいました。
「なに、読んでんの」
あなたのしゃがれた声が聞こえました。そこで初めて、あなたが私の目の前に立っていることに気づき、顔を上げました。私はあなたに苦手意識を持っていましたので、非常にいやな顔をしていたと思います。
「見ての通り」
私は答えました。そして、返してくれませんか、と言いました。あなたはニヤッと笑って、教室の前方へ駆け出しました。もちろん、読みかけの本はあなたの手に渡ったままです。私は黙って、あなたではなく床を見ました。声を上げることも、追いかけることもしませんでした。ただじっと床を見つめ、あなたの手の中にある、本の続きばかり考えておりました。
あなたはそれが大層不満だったようでした。ちぇっ、と言い、先ほどとはうってかわって、ゆっくりと教室のドアまで歩いていき、
「ばっかじゃねぇの」
と、私から取り上げた本を床に叩きつけて去っていきました。
それからというもの、私がうかうかと放課後に読書をしていると、決まってあなたはやって来て、ばっかじゃねぇの、と言って私の本を叩きつけました。
私の読んでいる本のほとんどは図書室の本だったので、持ち物が傷つけられた、というような怒りは感じませんでしたが、悲しい気持ちになりました。知識を蓄えることが、どうして「ばか」なのか。その理由を尋ねてみようかとも思いましたが、その言葉すら「ばっかじゃねぇの」と言われるだろうと思い、私は黙っておりました。
六月に入った頃です。久々の晴れ間が広がるでしょう、と天気予報は言っていたのですが、放課後に大雨が降りました。私は病院へ行く用事があったので、真っ直ぐ帰宅しようと折りたたみ傘を広げました。雨は強く降っていて、滴が傘を叩く音が大きく聞こえました。
校門を抜け、いつも通る雑木林の前に差しかかったところで、私は立ち止まりました。道路と雑木林の境目にはパイプでできた低い柵がありましたが、ところどころが朽ちていて、たやすく中に入って行ける気がしました。その誘われるような感覚に、私は興味を覚えたのです。
雨が木々の葉に当たる音が、私の頭の遙か上でパタパタとしていました。葉が雨を遮るので雑木林の下、私の立っている場所の前方は、耳を傾けると雨音が小さく、私の立っている道路側では、アスファルトに叩きつけるような、力強い雨音が響いていました。
音の狭間にいるのだと、私は思いました。雨がかからない程度に傘を傾けて、木を見上げます。すると突然、傘がバランスを失いました。何事かと思ったら、ずぶ濡れのあなたが私の傘の端を乱暴に掴み、引き寄せていたのです。
「入れてってよ」
あなたは言いました。冗談じゃない、と私は答えました。もうそんなに濡れているのなら、傘なんて必要ないでしょう、と。雨は激しさを増して、傾いた傘から滝のように水がこぼれていきました。
「何言ってるか、聞こえないよ」
あなたは笑っていました。私の精一杯の皮肉の言葉は、雨音に消されてしまったのでしょうか。あの至近距離で、あなたの声が私に聞こえるのに、私の声があなたに聞こえないことなんて、あるのでしょうか。本当のことは知る由もありませんが。
あなたはニタニタと笑って、のれんをくぐるような大仰な仕草で、私の傘の中に入ってきました。私は身を引いて、あなたを傘から追い出しました。けれどあなたは大きく私の方へ踏み出して、また私の傘に入ってきます。三度ほどそれを繰り返して、私は傘を閉じました。
「濡れるよ」
あなたは意外そうな顔をしました。結構です、と私はわざとトンチンカンな受け答えをしました。
――もう結構。
あなたの言葉など無視して、私はうんざりした気分を言うだけ言ってしまいたかったのです。
私の着ていたブレザーは、あっという間に水分を含んで重くなり、長く伸ばしていた前髪は額に張りつきました。なぜ、傘を閉じてしまおうと思ったのだろう、と私は濡れ鼠になってようやく思いました。
バカバカしいことだったのです。たかがあなたに付きまとわれたくらいで、体の弱い私が傘を閉じるなんてこと、するべきではなかったのです。
それでも、私はもう一度傘を開く気にはなりませんでした。
「失礼します」
私は小走りに閉じた傘を片手に持ち、大雨の中を進みはじめました。雨に濡れた体は冷たくなって、ひどく寒いような気がしました。
しばらくして、私は足音が二つあることに気づきました。私の斜め後ろにあなたがぴったりついてきていたのです。
左に曲がり、直進し、三つ目の角を右に曲がり、大きな道に出て、それから裏路地に入り、二軒目の家、つまり私の家の前まで、あなたはついてきました。
終始無言を通していた私ですが、さすがに門を開けて中に入り、閉じようとしたところにあなたが体を滑り込ませてきたことには、声を上げるしかありませんでした。
「なんですか」
「雨宿りさせてよ」
あなたの脳天気な言葉に頭の奥が熱くなって、私はあなたを突き飛ばしました。誰のせいでこんな寒い思いをしているのか。誰のせいでこんな不愉快な気分になっているのか。イライラした気持ちが許容量を超えて、
「……馬鹿言ってんじゃねぇよ」
と私は滅多に使わない、乱暴な言葉を吐き捨てました。するとあなたは奇妙なことに嬉しそうな顔をして、
「馬鹿じゃないよ。……友達じゃん」
と言いました。
――友達。
そうです、確かにあのとき、あなたは私に向かって「友達」と言いました。友達だなんて、押し売りもいいところです。私はあなたとの会話に何かを見出したことはありません。あなたと目を合わすことだってほとんどしていません。私の中で、あなたはたまに訪れる害悪であって、人間ではありませんでした。
私は戸惑いのあまり、誰が、と呟いてしまいました。そしてまるっきりあなたを無視して、玄関の扉を開けました。
一瞬、背後にあなたが迫っているのでは、という思いが頭をよぎって、閉まる扉越しにちらりと確認しました。あなたは大人しく門から出ようとこちら側に背を向けているところでした。
強い雨音が止まないなか、扉が閉まる寸前にあなたの声が聞こえた気がしました。聞き違いでなければ、こう言っていましたね。
「……ばっかじゃねぇの。ともだち、なのに」
ひどく、ふてくされた声でした。
ずぶ濡れになった私は、高熱を出しました。熱は一週間以上続いたと記憶しています。身体は熱いのに、頭の芯が冷えて意識はさえざえとしていました。
その妙にはっきりとした意識の中で、意味、ということについて考えていました。最初はあなたの「ばっかじゃねぇの」という言葉について考えていたはずなのに、私がしていること全てが意味のないことではないだろうか、と考え出したのです。この虚無に似た感覚が、あなたの言っていた「ばっかじゃねぇの」という言葉の正体だったのかもしれない、とさえ思いました。
そして、私という存在は意味を失っているのでは、という疑問が頭から離れなくなりました。
身体が回復した後も、私はずっと横になったまま動けませんでした。学校に行かなくてはなりませんが、教室に行って授業を受けることは当時の私にとって、もうすべきことではない気がしたのです。
ぼんやりとして何もできなくなった私の異変に気づいた母が、私の中学に常駐している児童カウンセラーの先生に連絡を取りました。
先生は家にやってきて、私の話を聞いたあと、
「カウンセリング室の本棚に君の探している答えがあるかもしれないよ」
と言いました。
「その蔵書は残念なら貸出できなくてね。君さえ良ければ読みに来て」
私は、答えを探しにカウンセリング室に通うことになりました。
カウンセリング室は昇降口の反対側にある、ひっそりとした教室でした。中には真っ白な会議用の机が二つ向かい合わせに並べられ、パイプ椅子がその周りを囲んでいるスペースがありました。さらにその奥は相談をするときに使う小部屋になっていました。
小部屋側に取り付けられたスチール製の本棚に、ずらりと大人用の心理学や哲学の本が並べられていました。私は本をたくさん読んではおりましたが、難解なものを避けていたのでカウンセリング室の本たちは、とても新しいもののように感じました。
私は毎日カウンセリング室に足を運び、辞書を引きながら本を読み続けました。一日に三〇ページ進めばいいところで、たまにつまづくと、そのページだけで一日が過ぎてしまうこともありました。
一学期の期末試験が終わって、夏休みまであと数日というときのことです。カウンセラーの先生が職員室へ行き、カウンセリング室にはいつも通り読書をしている私だけがいました。
少しして、私が「悟性」という単語を辞書で調べていると、ガラッと扉の開く音がしました。先生が忘れ物でもしたのだろうと思って、本の文字を辿ることに私はもう一度集中しようとしました。すると、手元から本が消えました。
「何してんの」
横を向くと、あなたがニタニタと笑っていました。そして、
「何で教室来ないの」
と言いました。私は理由を言ったところで馬鹿にされると思ったので黙っていました。
「君がいないとつまんない」
「……私はあなたがいなくて有意義な時間を過ごせています」
無理矢理にでも何かを言い返さなくては、と私は閉じていた口を開きました。するとあなたは私から取り上げた本を乱暴に机に置いて言いました。
「なんで、逃げるの」
私はどきっとしました。何に対して逃げていると指摘されているのか、一瞬、わからなくなったからです。
「……逃げてません」
「本ばっか読んでて、そんなの意味ないじゃん」
あなたの言葉に、私はあの大雨の日のときのようにカッとなりました。
「意味は、あります!」
「どんな?」
あなたは不思議そうに、怒鳴った私を見つめて訊ねてきました。私はあなたの問いに答えようと口を開きました。
「意味は、私が探してる意味、の、」
そこで私は気づいてしまったのです。
「意味の……意味を、見つけるために……」
あなたに言い返そうとしていた私は、言葉を失いました。そして私が気づいたことを代弁するように、あなたは言いました。
「ばっかじゃねぇの」
――そんなつまんないこと、やめちゃえよ。
あのとき、私の気は確かでありませんでした。
あなたにこれ以上何も言われないように、あなたの話を止めなければならないという恐怖に襲われて、私はあなたに飛びつき、首を絞めました。
あなたも反射的に私の首を掴みました。声帯を親指で潰すように絞められ、私は声を上げることもできませんでした。それでも私は、爪が食い込むぐらい強く力を入れて、あなたの首を絞めました。
息ができなくて苦しい、という思いよりも、あなたを黙らせなければならないと私は必死でした。自分の息が止まってしまうことよりも、あなたが私の前で話し続けることの方が、耐えられなかったのです。
あなたは私のしていることに「ばっかじゃねぇの」と言う。私のしていることには意味がないと言う。それは私を全否定することです。あなたとしては助言のつもりかもしれませんが、私にとってあなたの言葉は害悪です。あなた自身も害悪です。あなたは私の、敵でした。
あなたの瞳に醜い私が映っているのを見たところで、私は意識を失いました。
気がつくと、私は知らない天井を見ていました。どうやらベッドの上に寝かされているらしく、首を傾けると丸椅子に腰掛けてうとうとしている母が見えました。病院にいるのだと、私は気づきました。それから、喉に違和感を覚えて首に触れました。包帯が巻かれているようです。母に声をかけようと、私は口を開きました。
「……ッ」
私の声は微かな吐息にしかなりませんでした。そんなわずかな音にも関わらず、母はハッとしたように目を開き、起きた私を見て泣き出しました。怖かったでしょう、怖かったでしょう、と繰り返しながら母は私を抱きしめました。私はわけが分からず、母の背中をさすりました。心配をかけてごめんなさい、と言おうとしましたが、やはり声になりませんでした。
泣き止んだ母に状況を説明してもらい、三つのことがわかりました。私たちがカウンセリング室で昏倒していたところを先生が発見して、救急車を呼んだこと。私は一命を取り留めたけれども、もう声が出せないと言うこと。そして、あなたは死んでしまったということ。
母も、先生も、周りの人たちはみんな、問題児のあなたが私を襲い、それに私が必死で反撃したと思っているようでした。私があなたに飛びかかり、首を絞めたなんて真実はどこにも見あたらず、あなたが全て悪かったのだという間違った真実が、当たり前のように受け入れられていました。
現在、私はその偽物の真実を認めて生きています。あなたが話さなければ、私は一生、潔白でいられるのです。もちろん、あなたはもう誰かに真実を話すことはできません。
そのことを考えていると、ときどき、わけもなく叫び出したい衝動にかられます。けれどもう私は声を出すことができないので、喉に力を込めて思い切り息を吐き出し叫んでも、誰かに気づかれることはありません。
あなたの墓前に、この長い手紙とも回想録ともつかないものを持っていきたいと考えています。そして、燃やそうと思います。燃やされ、灰になったあなたとの思い出を見て、きっと私はまた声もなく叫ぶでしょう。私の内側に蓄積される声は、近いうちに私をあなたのいる世界へ誘うのだと思います。いずれあなたように、私も灰になるのです。
こんなことを書き散らしている私に向かって、きっとあなたは「ばっかじゃねぇの」と言うのでしょうね。
だから私は、あなたの事がどうしようもなく嫌いなのです。
さようなら。憎悪と、僅かばかりの謝罪を込めて。
〈了〉
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