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4 いまだ知らない恋の味
二月に入り、身を切るような寒さの日が続いた。そんなある日、スーツに身を包んだ悠は電車の中で深いため息をついていた。
スマートフォンを見ると、面接の約束にはだいぶ余裕を持って到着できそうだ。ほっと胸を撫で下ろし、窓の外を流れていく景色へ目をやった。
晴れ渡った澄んだ空に、黒い高層ビルがいくつも伸びている。バベルの塔を彷彿とさせる光景に、悠は落ち着かない気持ちで到着駅のアナウンスを聞いていた。
「…………っ!」
今日のご飯はなににしようかと考えていた時、不意に奏人の微笑が脳裏を過ぎった。
奏人に抱きしめられた日から、彼の温もりが肌に纏わりついて離れない。その思い出は日に日に悠の中で存在感を増していき、思い出すだけで身体が熱を持つようにさえなってしまった。
「落ち着け。集中、集中……」
両方の頬を手のひらではたき、意識を面接に意識を集中する。鞄から履歴書と職務経歴書を取り出して、悠はそれらに目を通した。
奏人と暮らし始めて三週間と少し、驚くほどに体調がよくなった。毎日決まった時間に起き、三食きちんと食べて日中に活動することができるようになった。
まだフルタイムで働くには不安が残るが、アルバイトならばできるのではないか。そう思い悠は事務職の仕事を探し始めたのだった。
「…………はあ」
何社か書類を出しようやく面接に漕ぎ着けたはいいが、いざ面接となると否定ばかりされた記憶が甦る。こんな時奏人がそばにいてくれたら、無理して行かなくていいと優しい言葉を掛けてくれただろう。
「でも、奏人さんに甘えてばかりじゃだめだ」
奏人は学生だ。アルバイトの給料も、悠を養えるほど多くはないだろう。悠のせいで彼が自分のために使う金を削られているのは忍びなかった。
浜松町のオフィスビルに着き、受付で面接の旨を告げる。案内された場所にある椅子に座って待っていると、名前を呼ばれた。
「中谷さん」
「は、はい」
心臓が大きな音を立てる。会議室へ入ると、面接官ふたりに椅子に掛けるよう促された。
「な、中谷悠と申します。本日はよろしくお願いいたします」
差し出した書類を眺める面接官を、悠は緊張した面持ちで見つめる。しばらくして面接官の口から出たのは、予想通りの質問だった。
「どうして前職を辞めたの?」
「あ、えっと、体調を崩して入院して。戻ってきたら辞めるよう言われました」
「なんで拒否しなかったの? なにかできたんじゃないの?」
質問責めにされ、悠は顔を強ばらせた。その根底には、悠に対する不信感が渦巻いているような気がした。
一度そう感じてしまうともうどうしようもなくて、その後も鬱々としながら質問に答え続けた。面接官の冷たい視線が、悠に突き刺さる。
「君ね、もう少し努力しなきゃ。前職を辞めてからなにか勉強した? してないでしょ?」
「あ、あの、ずっと、体調悪くて、寝込んでて」
「そんなのでうちで働けるの? そもそも部署異動くらいで体調を崩すようじゃねえ……」
どう答えたら良いのか分からない意地悪な質問ばかりを投げかけられた。最後の方は、泣かないでいるのが精一杯だった。
「今日の面接は以上です」
礼だけ述べ、ビルを飛び出す。外に出ると面接で受けた威圧感が悠の肩にどっしりとのしかかってきて、吐き気が止まらなかった。
「う…………」
駅のトイレで吐くものがなくなるくらい何度も吐いた。朝食を作ってくれた奏人への申し訳なさと苦しさで、涙が溢れた。
ベンチでミネラルウォーターを口にしていた時、バッグの中のスマートフォンが振動する。
『悠さん、面接、どうでしたか?』
奏人からのメッセージが届いていた。まさかトイレで吐いていたなんて言えず、曖昧に返事をする。
『あんまり上手くできませんでした。ごめんなさい』
『謝る必要はないです。それより、このあと飯に行きませんか?』
奏人も都内にいて、今授業が終わったところだという。吐いたばかりであまり食欲はなかったが、断るのも不自然だろうと奏人に了承の返事をした。
『じゃあ、このあと新宿に集合で。改札の場所、教えてください。迎えにいきますから』
奏人の返信を見て、新宿へ向かう。がたんごとんと揺れる車内で、ぼんやりと広告を眺めた。
――どうして俺は、だめなんだろう。
また涙が込み上げそうになり、うつむく。アルバイトの面接でさえ上手くいかないなんて、もうなにをしてもだめなような気がしてきてしまう。
「あ、悠さーん」
落ち込んだまま新宿駅に着くと、改札まで奏人が迎えに来てくれた。奏人を前にして安心してしまったのか、視界が涙で滲んでいく。
「ゆ、悠さん。どうしたんですか? 面接でなにかあったんですか?」
「ご、ごめんなさい…………」
ぐずぐずと鼻を鳴らしていると、奏人は悠の頭をぽんぽんと撫でた。
「よしよし、よく頑張りましたね。偉いですよ」
通り過ぎる人たちが、ふたりのことを怪訝そうに見つめていく。それだけですでに奏人に申し訳ないのに、奏人はあろうことか悠の身体を両腕で搦めとった。
「あ、あ、ここ、駅…………!」
「いいんです。悠さんが泣いている方が心配です」
「でも…………」
腕に力を籠められ、奏人と身体が密着する。奏人の匂いがふわりと広がって、鼓動が一気に速くなる。
「ごめんなさい、俺……面接、上手くいかなくて」
「ひどいことを言われたんじゃないですか?」
「……努力しろとか、そんなことで病気になるなとか言われて、悲しくて……」
言わないでおこうと思ったはずなのに、奏人に問いかけられると魔法のように言葉が溢れ出てきてしまう。悠の口にした言葉に、奏人は眉を下げた。
「悠さんは十分頑張ってます。そんなことも分からない会社で、悠さんを働かせられないです」
奏人の腕が離れる。その代わりに、彼の手が悠の手にそっと絡みついてきた。
「悠さん、あんまり無理はしないでください。悠さんのことが心配で、俺が眠れなくなりそうです」
「ご、ごめんなさい…………」
「顔色が良くないですけど、飯、食べられそうですか?」
「飲み物だけだったら……」
悠の返事に、奏人は眉間に皺を寄せた。
「もしかして、体調悪いんですか? それなら帰ってゆっくりした方がいいです」
「あ、いや、えっと、大丈夫! 大丈夫です」
「でも悠さんは大丈夫じゃない時も大丈夫って言います」
図星を言い当てられ、反論できない。うつむいてしまった悠を見て、奏人は小さくため息をついた。
「悠さん。俺、悠さんの身体が心配です」
「でも、せっかくここまで来てもらったのに」
「俺はスーツ姿の悠さんが見られただけで十分です。それに新宿は通り道ですし。さ、帰りましょう」
奏人に手を引かれ、さっき出たばかりの改札にまた入る。そうして彼の言うままに、奏人の家へ向かう電車へと乗せられてしまった。
帰りの電車のなかで謝罪を続ける悠の手を、奏人はずっと握っていてくれた。
「ごめんなさい……」
「いいんです、体調が悪い日だってありますよ。それに悠さんは、今日たくさん頑張ったんですから」
「そんな、でも、俺」
「俺の方こそ、悠さんの体調を気遣えなくてすみません。悠さんが面接で疲れてるって分かってたはずなのに」
「…………ごめんなさい」
「今日の悠さんは謝ってばっかりですね。そんなところもかわいいんですけど」
奏人の黒い瞳が悠を見る。悠の頭の先からつま先までをまじまじと見つめた彼は、また「かわいい」と呟いた。
「スーツ姿の悠さんもかわいいですね」
奏人はそう耳元で囁いて、満足げに笑う。彼の吐息が耳にあたたかく届き、触れた場所が熱を持つ。
「そっか、俺、スーツでコンビニ行くのって早朝か深夜だったから……この姿で奏人さんに会ったこと、ないんですね」
「はい。私服姿の悠さんしか見たことありません」
それにしても、と奏人は続ける。
「悠さん、自分のスーツにも着られちゃってる感じしますけど……痩せちゃったんですか?」
奏人に指摘され悠は自分の身体を見下ろす。離職後寝込んでいる間にひと回りほど痩せてしまったために、数年前に買ったスーツはサイズが合わなくなっていた。
「あはは……動けない日は、食欲もなくて。無理やり食べてはいたんですけど、戻してしまって。スーツを新調するお金もないから、ベルトで強引に留めてます」
「もしかして、今日も吐いちゃいましたか?」
奏人の質問の答えに詰まる。表情を硬くする悠を見て、奏人は肯定と捉えたようだった。
「悠さん、しばらく面接はやめましょう。悠さんはまだ本調子じゃないんですから」
「い、嫌です! 俺、奏人さんに甘えてばっかりで、なんにもできないのは嫌です」
「悠さん、落ち着いて。ここで無理したら、また悠さんは体調を崩しちゃいます」
奏人の静かな声が、悠の激しく波打つ胸を鎮めていく。
「あと一ヶ月様子を見て、大丈夫そうならゆっくり転職活動を始めましょう。焦る必要はないですから」
「でも……!」
「俺は少しでも長く悠さんと一緒に暮らしたいです。だから、いいんです」
奏人の腕が、悠の肩をそっと抱き寄せた。奏人の首元に頭を預けると、そのまま髪を指で梳かれる。そのあたたかい感触が雪を解かすように、じわりと胸に沁み込んでいった。
奏人の温もりにぼんやりしているうちに、ふたりは最寄り駅に着いた。
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