183人が本棚に入れています
本棚に追加
6 星のまたたきに願いをこめて
その後、父は親族に連れられ病院を受診したと連絡があった。長いこと止まっていた時間が動き出したことにほっとしていると、奏人は「よかった」と自分のことのように喜んでくれた。
そして悠の誕生日の前日、奏人は約束どおり悠をキャンプへと連れ出してくれた。
「悠さん、着きましたよ」
奏人の家からここまで二時間半ほど。高速道路での移動は怖かったが、奏人が運転しているのだと思うと不思議と心は穏やかだった。
「受付してくるので、ちょっと待っててくださいね」
キャンプ場の受付でチェックインを済ますと、奏人に導かれ大きなテントの並ぶ区画へ移動する。彼が指さした先には、大きな円錐型の白いテントがあった。
テントの内部にはふかふかのカーペットが敷かれていて、中にはソファやダブルベッドもある。それらは悠の目には、ちょっとした秘密基地のように映った。
「わ、すごい。テントのなかにベッドもあるんですね」
目を輝かせてソファに腰掛けると、それを見た奏人はくすくすと笑う。
「悠さん、子どもみたいです」
「だって俺、キャンプなんて初めてで。テントで寝るの、楽しみです」
「俺も……悠さんと同じベッドで眠るの、楽しみです」
意地の悪い口調でそう呟かれ、また顔が熱くなる。明らかに悠をからかって楽しんでいる奏人に抗議の視線を向けると、彼はわざとらしく首をかしげてみせた。
「でも、ベッド一個しかないですよ?」
「そ、そうですけど……!」
「俺、悠さんと一緒に寝たら爆発しちゃうかもです」
そう言って悠の頭を撫でた奏人は、ストーブの電源をつけると床に荷物を置く。ストーブの前で冷えた身体を温めほっとしていると、隣に奏人が座った。
「ああ、暖かいですね。バイクでの移動は寒いし、しんどかったんじゃないですか?」
「でも奏人さんはこまめに休憩を取ってくれましたし、たくさん着込んできたのでつらくはなかったです。それに俺より、前に乗っている奏人さんの方が寒かったでしょう」
「俺は、悠さんが抱きついてきてくれて寒さどころじゃなかったですね」
冗談めかして奏人が笑う。肩を抱き寄せられ、胸がとくんと音を立てた。
未だに悠から奏人へ好きだと告げられていないが、この旅行は奏人にとって「そういう意味」の旅行なのだろうか。触れられた瞬間に一抹の不安と淡い期待のようなものが、胸を過ぎった。
「あ、あの、奏人さん」
「はい、なんですか?」
「こ、この旅行って、その…………す、するんですか?」
悠には恋愛経験が一切ないから確実なことは言えない。しかし一般的に、好きあっている者同士で旅行といえばそれなりのことをするものではないのか。
頭に浮かんでは消えていく破廉恥な妄想に赤くなっていると、奏人は一瞬目を丸くしたのちふっと笑った。
「…………したいんですか?」
質問を質問で返された。
「わ、分かんないです」
「じゃあ、しません。悠さんがしたいって言ってくれなきゃ、俺は手を出せませんから」
「そ、そうですか……」
少しだけがっかりした自分に驚いた。
いっそキスのように、なし崩し的に行為に及んでしまった方が楽だとさえ悠は思う。近ごろ毎日のように奏人の顔を思い浮かべては自慰に耽っているなんて、言い出せそうになかった。
「今、言ってくれてもいいんですよ。俺のことが好きだって」
茶目っ気の込められた言葉に、悠はぶんぶんと首を振る。
「か、奏人さん、この前から意地悪です」
「こっちが本来の俺です。今までは我慢しまくってめちゃくちゃ優しく振舞ってました」
「そのままでいてくださいよお…………」
「こんなかわいい悠さんを前にしてそれは無理ですよ」
そうは言うものの、奏人は相変わらず優しい。悠の体調を毎日気遣ってくれるし、悠が泣いている時には隣で宥めてくれる。
ただ時折、こうして彼の言葉や視線に仄暗い欲望めいたものが見え隠れするようになった。今まで我慢しまくっていたというのは、このことだろう。
「悠さんも悠さんです。一緒にいたいなんて告白みたいなこと言っておいて、まだ俺のこと好きかどうか分からないんですか?」
「う、う、うう…………」
正論を突かれ、悠の思考回路がぽんと音を立てて破綻する。壊れて洪水を起こす感情のままに涙を瞳いっぱいに溜めた悠を見て、奏人は慌てふためいた。
「あ、す、すみません、いじめすぎました! 泣かないでください」
「ご、ごめんなさい、泣くつもりじゃなかったんです……」
「本当に悠さんは泣き虫ですね。そこがかわいいんですけど」
奏人の意地悪に負けて泣く羽目になることも増えたが、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
「ごめんなさい、こんな、構ってほしい人みたいな……」
「悠さんが構ってほしくて泣いてるわけじゃないの、知ってますから。いや、構ってほしいのでもいいんですけど」
悠とて男だ。泣きたくて泣いているわけでも、構ってほしくて泣いているわけでもない。涙目のまま奏人を睨みつけると、彼は優しく髪を梳いてくれた。
「俺、悠さんの泣き顔は好きですけど、泣かせたいわけじゃないですからね」
「わ、分かってます。俺が勝手に泣いてるだけで」
「でもかわいい。悠さんは本当にかわいいです」
子どもをあやすように悠を宥める奏人は、悠の髪を指で弄びながら身体を寄せた。音もなく触れ合った肩から、くすぐったさがじわりと広がっていく。
「あの、ずっと不思議だったんですけど。どうして奏人さんは、俺なんかを好きになってくれたんですか?」
奏人は出会った時から悠のことを好きだと宣言して憚らないが、そもそも悠のなににそこまで魅力を感じるのか。
「俺、こんな地味ですし、未だに未成年に間違えられるし……誰からも好きだなんて言われたこと、なくて」
そう尋ねると、奏人は即答した。
「一目惚れです」
「ひとめぼれ?」
「半年くらい前に、ふらふらしながら悠さんが俺のバイト先にきて、トイレ借りていったじゃないですか」
「そ、そんなこともあったような……」
「その時に俺、初めて悠さんを見て。かわいいなあって思ったんです」
半年前といえば、悠が仕事を失って体調を崩していた時だ。その日は確か三日ほど寝込んだあとで、空腹に耐えかね無理を押してコンビニに向かった。しかしあまりの暑さに着いた途端吐き気を催し、トイレに駆け込んだ記憶がある。
「完全に一目惚れでした。悠さんの弱っている姿に惚れたみたいで、人として最低ですけど」
「そんなこと……」
「……それからバイトのある日は毎日、悠さんが来ないかなって思ってました。悠さんの一挙一動を追いかけて、少しでも接点を作れないかって考えました」
その成果がカップ麺タワー崩壊事件だったんですよ、と言われ、恥ずかしさのあまり逃げ出したくなった。
「あの日……悠さんと一緒に暮らすことになったあの日、悠さんが知らない男と一緒にいるのを見て、死ぬほど苛つきました。一瞬、彼氏なのかなとも思ったんですけど」
奏人の瞳が悠を一瞥する。
「彼氏だったら泣いたりしません」
「悠さんなら彼氏相手でも泣いちゃう可能性はありますけどね」
「そ、それは」
「でもあんなに震えていたので、おかしいと思いました。それに俺、あの男に悠さんの泣き顔を見せるのもめちゃくちゃ嫌で。気がついたら、悠さんをバックヤードに連れ込んでました」
悠の腕を掴んであの男の下から救い出してくれた彼の温もりを思い出す。あの時はなんともなかったはずなのに、今になって火照る身体に戸惑いながら悠は膝を抱えた。
「その節はご迷惑をお掛けしました」
「いいんですよ、結果として悠さんと一緒に暮らせることになったので。しかも悠さん、俺に襲われてもいいとか言うし」
「そ、そ、それは……!」
「あの時は本当に危うかったです。俺の理性がもう少し脆かったら、悠さんを襲ってました」
あの時は歳下の子に泊めてもらう情けなさとなにもできない不甲斐なさで、なんでもいいから奏人にお礼をしようと必死だった。たぶん、大人としてのプライドのようなものもあったのだと思う。
「今さらながら、恥ずかしくなってきました……」
「あはは、今だったら遠慮なく据え膳を食ってたかもしれないです。でもあの時は……悠さんの弱みにつけ込んで家に連れ帰った俺もあの男と同じ気がして、めちゃくちゃ自己嫌悪に陥りました」
奏人が悠を連れ帰ったことをそんなふうに思っていただなんて知らなかった。驚いて彼を見つめると、奏人は表情に微かな寂しさを滲ませていた。
「今でもたまに、思います。悠さんが俺に心を許してくれたのは、俺がしたことへの見返りのつもりなんじゃないかって」
奏人がそう感じるのは、悠が未だに彼に好きだと告げられていないせいだろうか。決してそんなことはないのにと思いながら、悠は首を振った。
「違います。俺、そんなつもりじゃ……」
最初は一宿一飯の恩に報いるつもりで奏人に身体を許そうとした。どうせ食われるならば、嫌悪感しかないあの男よりも奏人の方がましだという思いもあった。けれどそれは、ほんの初めの頃だけの話だ。
彼とともに過ごすうちに、彼のあたたかさに触れた心は少しずつ解けて形を変えていった。ひとりぼっちで凍えそうになっていた悠の心は、いつの間にか奏人のことばかり映すようになっていた。
太陽のようにあたたかく光に満ちたこの気持ちが、恋なのだろうか。悠自身、自分の気持ちの変化に戸惑っていた。
「分かってます。でも、悠さんも無理はしないでくださいね。もし俺のためになりたいと思って俺のことを好きだっていうなら、無理はしなくていいですから」
そう言って奏人は立ち上がった。悠を思っての言葉のはずなのに、悠の気持ちを少しだけ突き放されたような気がして、胸がちくりと痛んだ。
「そろそろ夕食の時間ですね。バーベキューの用意をするので、悠さんはそこに座っていてください」
「あ、ま、待って!」
テントから出ていこうとした奏人の服の裾を掴み、呼び止める。今はどうしても、奏人と離れていたくなかった。
「俺も手伝います。大した役に立たないかもしれないけど、でも…………」
悠の言葉を聞いた奏人は、もちろんですと微笑んだ。
最初のコメントを投稿しよう!