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「そこのニーチャン」
若者のひとりに声をかけられ、びくりと身を震わせる。あっという間に周りを五人ほどの若者に取り囲まれてしまい、悠は壁に張りついた。
「なな、な、なんですか……!?」
「ニーチャン、高校生? ひとりでお留守番ですかあ?」
どう見ても悠より歳下の金髪の若者が、ニタニタと笑いながら悠の顔を覗き込む。近づかれた瞬間、強い酒の匂いが悠の鼻をついた。
実家と同じ匂いに凍りついていると、今度は茶髪の男に頤を手で掴まれ顔を上げさせられた。
「お、よく見るとカワイイ顔してんじゃねえか」
「これが女だったら一発ヤりたいっすね!」
「俺、男でもイケるからヤりてえっす」
「お前、正気かよ!」
そう言ってげらげらと笑う男たちを前に、悠は呆然と立ち尽くすしかできなかった。
――どうしよう。このままじゃヤられるか恐喝されるかだ。逃げなくてはと思うのに、少しも身体が動かない。
「お、俺、人を待っててっ…………」
「ああ!? 俺たちと遊ぼうっつってんだよ。分かんねえのか?」
男が突然声を張り上げ、悠は目を見開いた。悠の意思に関係なく、全身ががくがくと震え出す。男たちに近寄られるたびに、酒の匂いが悠の思考能力を奪っていく。
「お、おとう、さん……………」
いつもアルコールの匂いを部屋に充満させていた父の姿が甦る。振り向きざまに怒鳴られ、物を投げつけられるのが常だった。
焦点の合わないあの虚ろな瞳が目の前にあるような錯覚に陥り、胸が苦しくなる。悠を連れていこうとしているのは父ではないのに、父にベランダへ連れ出される時の絶望が心を支配していく。
「こいつ、お前を見てパパを呼んでるぜ」
「ウケる。ファザコン?」
「お前がパパに似てんじゃねえの。老け顔だし」
騒がしい若者たちの声に、足が竦んで逃げ出せない。助けを求めたいのに、喉が掠れて声が出なかった。
地面にへたり込みそうになった時、男たちの向こうから奏人の声が聞こえた。
「悠さん? 悠さん、どこですか?」
奏人は悠を呼びながら、こちらへ近づいてくる。その声を聞いた瞬間、涙が溢れた。
「か、奏人さん……! 奏人さんっ…………!」
無我夢中で彼の名を叫んだ。奏人の足音が男たちの後ろで止まる。男たちの身体の間から、こちらをまっすぐに睨む奏人の姿が見えた。
「お前たち、誰? 俺の連れになにしてる?」
奏人の手が、若者のひとりを押しのける。ずいずいとこちらへ進んできた奏人に、右手を掴まれた。
「いってえな。なにすんだよニーチャン」
「俺の連れに絡むな。酔っ払いはさっさと帰れ。これ以上ここにいたら警察を呼ぶ」
悠を背中に庇うように立った奏人は、身が竦むほど冷たい空気を纏っていた。奏人さん、と悠が呼ぶより先に、奏人は若者たちを鋭く睨みつけた。
「おい、さっさと帰れって言ってんだよ」
その場が一瞬で凍りついてしまうほど、凄みの籠もった声だった。いつもの穏やかな奏人からは想像もつかない荒い言葉遣いに、悠はまた硬直する。
彼はこのような場面に慣れている。悠はそう確信して、奏人の背中をただ見つめることしかできなかった。
若者たちも、奏人がただの大学生ではないことを悟ったらしい。ふてくされたような顔をすると、渋々とふたりの前を去っていった。
「悠さん、大丈夫ですか?」
振り向いた奏人の優しい声に、どっと全身の力が抜ける。その場でしゃがんでしまった悠に、奏人は慌てた様子を見せた。
「悠さん! ……すみません、俺、怖かったですね」
奏人の言葉にふるふると首を振ることしかできず、悠は膝に顔を埋めた。周囲にはまだ、男たちが纏っていた酒の匂いが残っていた。
あれは父ではないと分かっているのに、身体の震えが止まらない。小刻みに震え続ける悠を見て、奏人も異変を察知したようだった。
「悠さん、どうしたんですか? 顔が真っ青です」
「……ご、ごめんなさい…………」
「とりあえず、どこか座れる場所へ行きましょう。悠さん、立てますか?」
奏人に肩を支えられ、立ち上がる。奏人は近くにあったカラオケボックスへ入り、悠をソファに座らせた。
「悠さん」
隣に腰掛けた奏人に名前を呼ばれ、手を握られる。未だに震えが治まらない悠に、奏人はゆっくりと低い声で話しかけてくれた。
「酔っ払いは、苦手ですか?」
奏人に問われ、こくりとうなずく。そのままぎゅっと奏人の手を握りしめ、悠は呟いた。
「父を思い出してしまって……怖くて…………」
物心つく前から、酒の匂いが苦手だった。酒の匂いがすると、いつも母が泣いていた。母がいなくなってからは、酒の匂いは暴力を呼んできた。
「怖かったですね。……それじゃあ飲み会なんかも、つらかったんじゃないですか?」
「はい…………」
社会人になってからの飲み会では、いつも悠は恐怖で凍りついていた。それなのに悠が固まっているのは緊張しているせいだと周りは笑い、気を失うまで飲まされたこともあった。自分から漂う酒の香りが怖くて、胃の中身がなくなるまで吐くしかなかった。
「……情けないですよね。家を出てもう何年も経つのに、こんな……」
「悠さん。悠さんは情けなくなんかないです。そんな経験をしたら、誰でもそうなります」
奏人の手のひらが、悠の頭を撫でた。子どもにするようなその行為に多少の恥ずかしさを感じつつ、彼の手の温かさに息を吐いた。
「悠さんは、どうしたら落ち着きますか? 俺にできることはありますか?」
悠の顔を覗き込み、奏人が尋ねる。
こんな時どうしたらいいかなんて、考えたことがなかった。いつもはただひとりで、心が鎮まるのを待つしかなかったからだ。
「わ、分かりません……ごめんなさい……」
「悠さん……」
震える指先で奏人の指先に触れる。涙がこぼれそうになって、情けなくてうつむいた。
奏人はしばらく困惑していた。彼の呼吸がいつもより少しだけ速い。奏人を困らせてしまっているのが申し訳なくなって、唇を噛んだ。ままならないこの身体が憎らしかった。
「悠さん」
ややあって、奏人の声がすぐ耳元で聞こえた。はっとして顔を上げると、眉を下げてこちらを見つめる奏人と目が合った。
「…………抱きしめても、いいですか?」
鼓膜に響く心地の良い低音に、いいのか悪いのかも分からぬまま反射的にうなずく。うなずいてしまってから彼の言葉の意味を理解し目を丸くしたが、彼の声には抗いがたい魔力が籠もっていた。
その瞬間、大きな温もりに身体を包まれる。奏人の纏う爽やかな香りが鼻腔いっぱいに広がって、息ができなくなる。頬に触れた奏人の肌の熱さに驚いて、悠は腕のなかで瞳を瞬かせた。
「か、奏人さ…………」
「大丈夫……大丈夫です。悠さんは、俺が絶対に守ります。もう、大丈夫だから……」
大丈夫と繰り返す彼の声色が、ひどくあたたかい。赤ちゃんを寝かしつけるように背中をとんとんと優しく叩かれ、涙が溢れ出した。
「悠さんは、もう二度と殴られなくていいんです。もう二度と、お父さんの影に怯えなくていいんです」
子どもの頃、転んで怪我をしたことがある。痛いのとびっくりしたのとで泣きじゃくる悠を、母もこうしてあやしてくれた。「大丈夫」と囁いて、頭を撫でてくれた。同じ温もりが、胸のなかにじんわりと沁み込んでいく。
「悠さんをひとりにしてすみません。俺がついていたら、あんなやつらに絡まれずにすんだのに」
「そんな、奏人さんは悪くありません。俺が……」
「俺が悪くないなら、悠さんだって悪くないでしょう。そんなに自分を責めないでください」
奏人のこのあたたかさは、どこから来るのだろうか。どうしたら彼のように、こんなにあたたかい人間になれるのだろうか。
涙で歪んだ視界のなか、奏人の背中に手を伸ばした。両腕に力を籠めて彼を抱き竦めると、奏人がわずかに身じろいだ。
「奏人さんは、どうしてこんなにあったかいんですか?」
目を閉じて、奏人の香りをめいっぱい吸い込む。触れた奏人の胸から伝わる心音が、ざわめく悠の胸を鎮めてくれた。
「あったかいですか?」
「はい。とても」
「そっか。それなら良かったです。こうして悠さんをあたためてあげられるから」
とくんとくんと、ふたつの鼓動が響き合う。長いあいだ忘れていた包み込まれるようなまあるい優しさは、懐かしい匂いがした。
「……奏人さんって、不良だったんですか?」
「あ、バレました? 高校までは結構荒れてたんですよね」
抱きしめ合ったまま、奏人は苦笑した。今はそんなことないですよ、と弁解する彼がかわいらしいなと思った。
「あの頃はいつもとげとげしてました。両親にもたくさん心配をかけたと思います」
「ご両親はなにも言わなかったんですか?」
「まあ、ひどい喧嘩とかした日には怒られましたけど……愛されているからだって、分かっていたので」
今の奏人からはとげとげしていた頃が想像もつかない。そう思っていると、奏人はおそるおそるという様子で尋ねた。
「元不良ってやっぱ怖いですか?」
「ううん、全然。ちょっとびっくりしただけです」
「良かった。悠さんに怯えられたら俺、ショックで生きていけないです」
奏人の大げさな言葉に、思わず笑みが漏れた。泣きながら笑ったせいで、自分はきっとおかしな顔をしているのだろう。しかしそれを気にも留めず、悠は肩を震わせた。
「不良の奏人さん、かっこよかったですよ」
「ちょっと……からかうのはやめてくださいよ」
「からかってないです。本当にかっこよくて、きゅんとしちゃいました」
奏人の肩に顔を載せたまま笑うと、彼は声にならないうめき声を漏らしてうなだれた。
「悠さん、それ、自分がなに言ってるか分かってますか?」
「え?」
「いや、分かってないですよね。知ってます。悠さん、天然ですもんね。天然すぎますけど………………」
低い声でぶつぶつと自分を律する奏人に、また余計なことを言ってしまったのだと自覚する。ごめんなさいと反射で謝ると、彼は首を振った。
「悠さん、本当にかわいい。ずっと撫で回したいくらいかわいいです」
「へ? か、奏人さん?」
「本当に悠さんの全部が好きです。俺、悠さんが好きすぎてどうかしちゃいそうです」
「あ、あの……あの……!?」
奏人に熱烈な告白をされ、頭が熱くなる。彼の想いは知っているが、「好き」だの「かわいい」だのとあまりに連呼しすぎではないか。
「奏人さんも酔ってるんですか?」
「酔ってないです。でもこうして悠さんを抱きしめられるなんて夢みたいで。悠さん、華奢だしすべすべだしやわらかいし、いい匂い……」
「か、奏人さん……」
首元に奏人の鼻先が触れる。先ほど悠がしていたようにすんすんと匂いを嗅がれ、急に気恥ずかしくなってきてしまった。
「悠さんのこと、絶対大事にしますから…………気が済むまで、俺と一緒に暮らしてくださいね」
プロポーズにも似た言葉を囁かれ、また強く抱きしめられる。速くなっていく鼓動を不思議に思いながら、悠は小さくうなずいた。
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