5 きみが勇気をくれたんだ

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5 きみが勇気をくれたんだ

 奏人のことが好きなのかもしれない。奏人と自らキスをしたあの日から、悠はひとりで悶々とし続けた。  あの日奏人は、悠に風呂場を譲るとさっさとトイレへ行ってしまった。自慰をするのは久々だったが、どうしてか奏人の顔が浮かんでは消えていったことを覚えている。  その後も彼はいつも通り朝食の支度をし、いつも通りに学校とバイトへ行くだけだ。そんな生活の中で、悠は完全に気持ちを持て余していた。 「この映画、最初はいいんですけど完結編は微妙なんですよね」 「へえ……」  その日は奏人のアルバイトまでの時間、ふたりで映画を観て過ごしていた。奏人の趣味は映画鑑賞らしく、ほとんど映画を観たことがない悠のためにあれこれと解説をしてくれた。 「やっぱり製作会社が買収されて……って、こんな説明されても悠さんはおもしろくないですよね。すみません」 「いえ。俺、映画って全然観たことないので……奏人さんの話を聞いてると楽しいですよ」  悠の言葉を聞いて、奏人はわずかに眉を下げる。 「悠さん、プラネタリウムも行ったことないって言ってましたよね。遊園地や水族館は行ったことありますか?」 「な、ないです。連れていってくれる人も、一緒に行く人もいなかったので」  普通の子どもが連れていってもらえるような場所に、悠は行ったことがない。母がいた頃には行ったことがあるのかもしれないが、母は悠の物心がついてすぐの頃に出ていってしまったためあまり記憶はなかった。 「俺、本当に世間知らずで。会社でもよく怒られてました」  自分が異様な家庭環境で育ったことに気づいたのは、社会に出てからだった。普通の人が持っている知識や経験が悠にはないことに、怒られたり茶化されたりして初めて気づいた。 「だめですね、俺。もっとたくさん勉強しないと」 「そんなことないですよ。悠さんは頑張りすぎちゃうんですから、もっとゆっくりでいいんです」  優しく肩を撫でられ、鼓動が高鳴る。 「遊園地も水族館も、悠さんが行ったことない場所、全部行きましょう。いや、絶対連れていきますから」 「本当ですか?」 「はい。俺が悠さんの初めてになれるなんて嬉しいです」  奏人の口にした意味深な言葉に、悠は顔を赤らめた。 「そんな言い方……」 「だって間違ってないでしょう?」  どうやら奏人は悠の反応を窺って楽しんでいるようだ。思わず唇を尖らせると、奏人はおかしそうに笑った。  しばらくして、奏人は手にしていたDVDを棚に片付け立ち上がった。 「じゃあ、そろそろ時間なんでバイト行ってきますね」 「はい。帰ってきたら、続きを一緒に観ましょう」  そう約束すると、奏人は嬉しそうに顔を綻ばせた。  スキップでもしだしそうな勢いで支度をし家を出る奏人を、玄関先で見送る。閉まったドアを見つめて、悠はため息をついた。  奏人のいなくなった部屋はがらんとしている。気密性の高い鉄筋コンクリートのマンションは静かで、もの寂しい。 「はあ…………」  カーペットの上に座り、ぼんやりと天井を見つめる。先ほどまで隣に感じていた奏人の温もりが恋しかった。  自分は奏人のことが好きなのだろうか。それに、奏人はそんな悠のことをどう思っているのだろう。最近の悠の関心事はそればかりだった。 「……奏人さん」  ――奏人さんは映画が好きだけど、さっき観た映画の完結編は嫌い。  彼との会話を反復する。こうして奏人の好きなものや嫌いなものを見つけると、少しだけ心が和む気がした。  そんなことを思案していると、突然ポケットのスマートフォンが鳴動し悠は飛び上がった。 「わ、わわっ!」  慌てて画面を見ると、覚えのない番号が表示されていた。迷惑電話かセールスだろうと、着信を拒否する。しかしすぐに同じ番号から電話が掛かってきた。 「だ、誰だろう」  それほどに火急の用事なのかと思い、おそるおそる着信ボタンを押した。 「はい、中谷です」  電話先は、不気味なほど静まり返っていた。スマートフォンのスピーカーからは、物音ひとつ聞こえない。やはり迷惑電話だろうか。 「あの、もしもし? どちら様ですか?」  もう一度電話先の相手に声を掛ける。反応がなければ切ってしまおうと思っていた矢先、突如として大声がスピーカーから鳴り響いた。 『悠! お前、どこにいる!?』  もはや怒声といっても過言ではないその声に、身が竦む。何度も怒鳴られ聞き慣れてしまったその声は、たった一言で悠の思考を凍りつかせてしまった。 『おい! 返事をしろ!』  スマートフォンを取り落としそうになり、両手で掴む。かたかたと震えるスマートフォンにしがみつくようにして、悠は呟いた。 「お、お父さん…………」  聞き間違えるはずがない。電話の向こうで怒鳴っている声は、紛れもなく悠の父親のものだった。  悠に考える間を与えず、父親はものすごい剣幕で悠を問い詰める。 『お前、会社を辞めただろう。家も引き払って、いったい今どこにいるんだ!?』 「い、い、いま、友達の家に…………」  奥歯が震えて、上手く声が出せない。電話口で怒鳴り散らす父親の姿が脳裏にありありと浮かび、背筋に冷たい汗が伝った。 『帰ってこい。人様に迷惑をかけるんじゃない!』 「お、お父さん。俺の話を聞いてください」 『いい加減にしろ! 俺の言うことが聞けないのか!?』  父の言葉は悠にとって命令に等しかった。父に逆らえば、殴られる。幼い頃からの昏い記憶が、悠をその場に縛りつけた。  頭が真っ白になって、なにも考えられなくなる。条件反射で父に服従してしまいそうになる心を必死で抑えつけることしかできなかった。 「今は帰れな……」 『いいから帰ってこい! 今日中に帰ってこなかったら、分かってるだろうな!?』  全身が震え、涙が溢れ出す。本当は帰りたくなんてないのに、気がついた時には父に従う言葉を口にしていた。 「はい……。今日、帰りますから…………」  乱暴に電話を切る音が聞こえ、部屋に静寂が戻る。スマートフォンが音を立てて床に落ちた。 「っ…………!」  両腕で自分の身体を抱きしめ、うずくまる。  今さら父親から連絡があるなんて思っていなかった。家を出る時、父にも親戚にも自分の連絡先を伝えなかった。それなのにいったい、どこから父に悠の番号が伝わったのか。  会社に入社する際の書類には実家の連絡先を記載したが、まさか会社が――。 「なんで………………」  涙で視界が歪んでいく。遠のきそうになる意識の中、悠は震える手でスマートフォンの連絡先から奏人の番号を探し出した。  長いコール音が流れる。彼は仕事中で、電話に出ている暇なんてないはずだ。奏人が出ないことが分かっているのに、悠は何度も何度も彼に電話を掛けた。 「奏人さん……奏人さん…………」    祈るような気持ちで奏人が応じてくれるのをひたすら待った。その時間がひどく長く感じられ、悠の顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。 『…………悠さん?』  十数回掛けたところで、ようやく奏人に繋がった。いつも通りの彼の優しい声色に、混乱しきっていた心がわずかに落ち着きを取り戻す。  ――俺、なにしてるんだろう。  我に返ると途端に申し訳なくなって、悠はスマートフォンを手に固まった。 「あ、奏人さん…………」 『悠さん、泣いてます? なにかあったんですか?』 「い、いえ、大丈夫、です。なんにもないです」 『なんにもない人は何度も電話を掛けてきたりしませんよ。……どうしたんですか?』    もう一度問いかけられ、悠は押し黙る。  奏人に頼れば、彼はきっと悠を守ろうとしてくれるだろう。けれどこれは悠の家の問題であり、奏人にはなにも関係がないことだ。  パニックになり思わず電話をしてしまったが、奏人にはこれまでもたくさん迷惑をかけている。これ以上彼に頼ることはできなかった。 「……少し、声が聞きたかっただけです。ごめんなさい」 『悠さん? 悠さん、待って』 「ごめんなさい…………さようなら」  電話の向こうの奏人は、慌てた様子で悠の名を呼ぶ。しかしそれに応えることなく、悠は電話を切った。 「奏人さん、ごめんなさい…………」  電話が切れた途端に力が抜け、その場から動けなくなる。まるで奏人と出会った頃の自分に引き戻されてしまったようだった。 「奏人さん…………」  腕に顔を埋め、声を殺して泣いた。  どう足掻いても、自分は父の呪縛から逃げ出せないのだろうか。どんなに頑張っても、無力な自分は変えられないのだろうか。  必死に積み上げてきた自分の人生が足下から崩れ去っていくような感覚に陥り、目の前が真っ暗になっていく。 「っ……かな、とさ…………」  ――奏人さんと一緒にいたい。離れたくない。  悠は初めて自分の想いをはっきりと自覚した。よりによって、父のもとに帰らなければならなくなってから気づくなんて。自分の鈍感さを自嘲した。  スマートフォンが振動する。奏人からの着信に応えることができないまま、時間だけが過ぎていった。
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