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どれだけそうしていただろうか。やがて悠はふらつきながら立ち上がる。
父には今日中に帰ると言ってしまった。守らなければ、酔った父になにをされるか分からない。恐怖と不安に駆り立てられるように、悠は財布を掴んで外に飛び出そうとした。
――その時だった。
「悠さん!!」
ドアを開けると同時に、奏人が部屋に飛び込んでくる。
奏人は悠の姿を見るなり、悠を強く抱きしめた。
「悠さん、待って。行かないで」
「かな、と、さん」
奏人の腕の力強さを感じ、涙が溢れる。
――俺のために、帰ってきてくれた?
悠は信じられないような思いで彼を見つめた。
ぼろぼろと双眸から涙を零す悠を見て、奏人はなにかを察したようだった。
「悠さん、行っちゃだめです。一度部屋に戻って、俺と話しましょう」
奏人の声は魔法のように悠の胸に沁み込んで、絡まった心の糸を解してくれる。奏人に促されるままに部屋に戻ると、悠はクッションを抱えて床に座り込んだ。
「奏人さん、ごめんなさい……バイトの途中だったのに」
「今日はもうひとりいたので大丈夫です。そんなことより悠さん、いったいなにがあったんですか?」
「なんでも、ないです……」
「悠さん、顔が真っ青です。俺には嘘をつかなくていいですから」
奏人に再び抱きしめられ、ようやく自分がかたかたと震えていることに気づく。これでは言い逃れはできないなと内心苦笑した。
「俺、実家に帰らなくちゃいけなくなっちゃいました」
奏人を見つめ笑おうとしたが、上手く笑えない。身体の芯がすうっと冷え、手指の関節が固くなっていく。
「お父さんから電話があって……今日のうちに帰ってこいって言われました。従わないとお父さんが怒るから、だから…………」
帰りたくない。心の声を押し殺して、悠は手のひらを握りしめた。
「だめです。俺、悠さんを帰したくありません」
「でも……」
「こんなに怯えている悠さんを帰すわけにはいきません」
震える手を奏人の手が包み込み、そっと握られる。温かい奏人の体温から、彼の優しさがいっぱいに伝わってきた。
「奏人さん」
「悠さん。悠さんはもう自由になっていいんです。悠さんは……」
その時、手に握りしめたままのスマートフォンの着信が鳴り響いた。画面を見ると、先ほどと同じ――父からの電話だった。
「…………!」
目を見開いて、反射的に着信ボタンを押した。
「おと、お父さん…………」
『おい! さっさと帰ってこい、くそ息子が!』
開口一番に怒鳴りつけられ、喉の奥から引き攣った声が漏れた。毎晩のように父に殴られていた記憶の中に引きずり戻される。
「ご、ごめんなさい、お父さん。今から、今から帰ります……」
『酒がねえんだよ! 酒を買ってこい!』
「は、はい…………」
電話の向こうから浴びせ続けられる罵声に耐えきれず、悠はうつむいた。涙がぱたぱたと落ちて、奏人の服を濡らした。
『お前はしょうもねえグズだな! いつもイライラさせやがって…………』
父の声は、そこで途切れた。気がつくと悠の手からスマートフォンは消え、奏人の手に渡っていた。
「か、奏人さん!?」
「ああ、悠さんのお父さんですか?」
奏人の低い声が響く。スピーカーの向こうで父が喚くのが聞こえた。
「俺、荒川奏人って言います。悠さんと一緒に暮らしてます」
「奏人さん…………」
「これ以上悠さんを侮辱するの、やめてもらっていいですか。それ、すげえイライラします」
奏人の言葉の端々から空気が震えるほどの怒りを感じ、悠は押し黙る。父もそれを悟ったのか、電話口で黙り込んだ。
「酒くらい自分で買ってください。金がないなら更生施設でもなんでも行ってください。それでも悠さんに付き纏うなら俺、なにするか分からないです」
『お前、誰なんだよ。これはうちの問題だ。お前には関係ねえだろ!?』
「関係あります。俺は悠さんを帰す気はありません。けど、今から俺があんたをぶん殴りに行ってもいいんですよ」
奏人の声がだんだんと凄味を帯びていく。父が喚き散らすたびに、奏人の表情が険しくなっていく。
『てめえ、いい加減にしろよ!?』
「いい加減にしてほしいのはこっちです。黙っていれば悠さんにひどいことばかり……あんた本当に父親かよ!?」
――このままじゃ、だめだ。
ふたりの応酬を聞きながら、悠は必死で頭を働かせた。
奏人が父に怒鳴る姿は、見たくない。それにきれる父親の声も、奏人に向けられる罵詈雑言も、聞きたくなかった。
「か、奏人さんっ……!」
奏人の手からスマートフォンを取り上げ、耳にあてる。大きく息を吸い込むと、悠は電話に向けて父を呼んだ。
「お父さん……俺、やっぱり帰れません!」
『はあ? なに言って……』
「もう俺は大人です! お父さんとは関係ありません! 絶対帰りませんから、もう電話してこないでください!」
一生分の勇気を振り絞って、叫んだ。心臓がばくばくと音を立て痛む。父の怒号に身が竦む。それでも絶対に帰らないと、悠は繰り返した。
「帰りません! 俺、奏人さんと一緒にいたいです。だから帰りません、ごめんなさい!」
そう言って電話を強引に切る。それを見ていた奏人は悠のスマートフォンを奪うと、すぐに着信拒否の設定をしてくれた。
静まり返った部屋で、自分の呼吸音だけがいやに大きく響く。厳しい顔でスマートフォンを床に捨てた奏人を見つめていると、悠の視線に気づいた彼はふっと表情を和らげた。
「悠さん、頑張りましたね」
奏人は悠の髪を撫でた。その優しい手つきに、また涙がこぼれそうになってしまう。
「奏人さん、迷惑をかけてごめんなさい……」
「いいんです。悠さんがひとりで全部抱え込んでいる方がよほど心配です」
まだ心臓がどくどくと音を立てている。反抗期のなかった悠にとって、父親の言葉に逆らうのは初めてだった。
――やれば、できたんだ。
わずかな達成感を覚えるとともにどっと疲労が押し寄せてきて、悠は奏人の胸に寄りかかった。
「俺、初めてお父さんに言い返しました……」
「それでいいんですよ、悠さん。それが本来の親子のかたちです」
奏人の言葉がひどく優しい。繰り返し髪を梳かれ、安堵が胸を覆っていく。
「悠さん。悠さんのお父さんには兄弟や両親はいませんか?」
「え? 伯父と伯母ならいます。でも、どうして?」
「アルコール依存症は治療が必要です。悠さんから言ってもお父さんは聞かないでしょうから、親族に病院や更生施設へ連れて行ってもらうのが一番かなと」
親戚の連絡先を尋ねられ、奏人の言うままに古い手帳に記された伯母の連絡先へ電話を掛ける。久方ぶりに聞く悠の声に伯母は驚いたようだが、彼女は悠の成長を喜んでくれた。
「あの……実は、父のことで相談があって」
奏人の言葉も借りながら、これまでの経緯を洗いざらい話す。
父親は悠が幼い頃から酒に溺れていたこと、母親や悠が家庭で父に暴力を振るわれていたこと、父から逃げ出したくて連絡を断っていたこと――。それを聞いた伯母はショックを受けていたようだった。
『そんな……悠ちゃん、気づいてあげられなくてごめんね』
「も、もういいんです。そんなことより、お父さんをお願いします。なにかあったら、俺も行きますから」
『あなたのお父さんのことはこっちでなんとかするから……悠ちゃんは気にしないで』
「でも」
『あなたはもう、十分頑張ったもの。……今度、お茶でもしましょう。その時に、奏人さんのことも紹介してね』
伯母の言葉に思わず涙ぐんでしまい、電話口で何度も頭を下げる。しゃくり上げながら礼を言う悠の背中を、奏人はずっとさすっていてくれた。
「奏人さん、ありがとうございました…………」
電話を終え、奏人に向き直る。相変わらず止まらない涙が情けなかったけれど、悠は奏人を抱きしめた。
「俺、奏人さんがいなかったら、きっとお父さんに刃向かえなかった。伯母さんに相談できることにも気づかなかったと思うんです」
奏人がいなかったら、今ごろ悠はまた父親に殴られていただろう。
父の言葉に従うことしか知らなかった悠を、奏人が引き留めてくれた。誰かを頼ることを、奏人が教えてくれた。
それになにより、父に立ち向かう原動力になってくれたのは、奏人と一緒にいたいという強い想いだった。
「俺はなにもしてないです。勇気を出して頑張ったのは、悠さんです」
奏人は花が開くような優しい笑みを浮かべる。ぽんぽんと頭を撫でられると、押しとどめていた言葉が魔法みたいに引き出されていく。
「奏人さん……、俺、怖かったんです。お父さんに殴られて、怒鳴られて、怖かった…………」
唇から、心の声がこぼれ落ちる。その声は、今の自分のものなのか、かつての幼い自分の声なのか。
いったん溢れてしまった心は、次から次へとこぼれて止まらなかった。
「でも、本当は愛されたかった。お父さんに抱きしめてもらって、たくさん遊んでほしかった…………」
「悠さんはすごく寂しかったんですね」
「……はい……」
奏人の腕の中で、昏い思い出が光に包まれていく。きっと自分は誰かに、子供時代の記憶を受け止めてほしかったのだろう。
「大丈夫です。きっとお父さんはお酒から抜け出せます。これからたくさん、悠さんを愛してくれます」
奏人の言葉に確証なんてないのに、それはきっと現実になるように思えた。あたたかな煌めきを纏う未来が垣間見えて、悠は奏人の背中に腕を回したまま微笑んだ。
「その前に俺がお父さん以上に悠さんを愛しますけどね」
「え? か、奏人さん?」
「今だって悠さんが愛おしくて仕方ないんですよ。もうべろべろに甘やかしてあげたいくらい」
涙が収まりかけた頃、奏人に耳許で囁かれた。はちみつみたいに甘い声が鼓膜から頭にとろりと届き、くらくらする。
目を白黒させていると、奏人は「それに」と続けた。
「悠さんが俺と一緒にいたいって言ってくれたの、嬉しかったです。そばで聞いていてドキドキしちゃいました」
「え、あ…………口に出てました?」
「逆に、無意識で言ってたんですか?」
一緒にいたいとは思ったが、まさか口に出していたとは思わなかった。顔を真っ赤に染めていく悠を見て、奏人はぷっと軽く噴き出した。
「わわ、忘れてください!」
「忘れませんよ。こんな嬉しいこと、死ぬまで忘れません」
「や、やめてください! お願いだから忘れて……!」
高らかに宣言して恍惚とした表情を浮かべた奏人の胸を、悠はぽかぽか叩くことしかできなかった。
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