第一話

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第一話

 ため息をついた。  あと数秒で、三十路を迎える。  別に何か変わるわけじゃない。変化があるとすれば、アンケートに答えるときに「三十代」を選択しなければならなくなった。ただそれだけだ。  ため息が出るのは、誕生日を迎える瞬間に一人だということ。家族もいない。恋人もいない。友達もいない。  仕方がない。これが俺の人生の結果だ。  学生時代は勉強ばかり。  社会人になると仕事ばかり。  それでいいのだ。  これでいいのだ。  スマホの画面を見た。日付が変わったのを確認して、もう一度ため息をつく。  寝よう。  部屋の明かりを消そうと、立ち上がる。  伸ばしかけた手を止めた。  違和感があった。  何かが視界を横切った気がしたのだ。  気のせいか、と思ったが、頭の後ろでクスクス笑いが聞こえた。  ──おめでとう  低くもなく、高くもない、少年のようでもあり、少女のようでもある、不思議な声色だった。確かに、「おめでとう」と聞こえた。  築四十年のボロアパート。妙なものが出ても、おかしくはない。  誰からも祝福されないのを可哀想とでも思ったのか、幽霊が気を利かせたのかもしれない。  鼻で笑う。  どうでもよかった。 「明日も仕事だし、もう寝ないと」  つぶやいた。不思議と恐怖はなかった。明日も仕事。だから早く寝て、睡眠を確保したい。怪奇現象よりも、現実的に睡眠不足が怖い。  ハッピーバースディトゥーユー、と口ずさむ声が、部屋の中を旋回している。何かがいるのは間違いないが、視界に捉えることができなかった。  あえて、隠れているような。そんな感じがした。 「なんでもいい。俺は、寝る」  独り言でもあり、幽霊だかお化けだか妖怪だか、何かは知らないが、そいつに向けて言った科白でもある。 「なんかいるような気がするけど、寝ようっと。さてと、電気を消そうかな」 「ま、待て」  うろたえた声が、しっかりと聞こえた。目の前に何かが舞い降りて、空中に浮かぶ。  目の前に浮遊しているのは、とても小さな人型をした物体だった。  赤と白の縞模様の全身タイツ。黒くてトゲトゲの硬そうな髪、大きな目にきりりとつり上がった眉、鼻はなく、真一文字に結んだ口元。  手にステッキのようなものを持ち、背中に生えた羽でホバリングしていた。 「なんだこれ」 「お前、もう少し驚いたらどうだ。なんでそんなに冷静なんだ?」  トゲトゲが言った。 「あ、そうか、あれだ、ドローンだ」 「そうそうそう、おれはドローン、空撮はお任せあれ……って、違う!」  俺のひたいにステッキを突き刺してツッコミを入れてくる。 「痛い」 「そう、痛いだろう。夢じゃないぞこれは、だからもっと驚くのだ」  胸を張る謎の物体を、しみじみと見つめた。よくわからないが、奇抜なデザインだな、という感想しか浮かばなかった。 「ドローンじゃないならなんだよ?」  あくびをしながら訊いた。ドローンは、「見ればわかろう」とますます胸を張る。 「なんでもいいけど、俺、早く寝ないと」 「この状況で!?」 「睡眠は何よりも大切だから。明日の仕事のパフォーマンスに響くんだよ」 「つまらん奴だなお前は! だから童貞なんだ!」  謎の物体が大声で喚いた。 「ちょ、声がでかい。壁薄いんだから」  慌てて口元に指を当てると、頭を掻いて、息をつく。 「なんで俺が童貞だってわかるんだ?」  空中を浮遊する人型ドローンは、俺がようやく興味を持ったことに満足している様子だった。腕を組み、あぐらをかいた格好でニヤリと笑った。 「わかるも何も、おれは三十路童貞にしか見えない妖精だ」 「三十路童貞」  嫌な響きだ。ずしりと肩が重くなる。 「誕生日おめでとう」 「はあ、別に、まあ、はい、どうも」  こんな意味のわからない生物にお祝いされても、全然嬉しくない。 「えーと、それで? 妖精さんは、何? 俺に何か用?」  早く眠りたい一心で訊いた。 「おれはな、お前に童貞を卒業させるためにやってきたのだ」 「え?」 「おれの仕事は、童貞卒業のサポートだ」 「は?」 「大丈夫だ、おれに任せろ。おれはとても優秀だぞ」  どうやら俺は、妖精を飼う羽目になったらしい。
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